東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ローマ書4章9-12節「信仰の父、割礼の父」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2024/02/24

ローマ書4章9-12節「信仰の父、割礼の父」

*** 2/21(水)祈祷会 説教概略 ***

 クリスチャンになりたての頃、信仰生活というものがよくわかっていなくて、先輩クリスチャンたちを「見よう見まね」でマネしていた自分がいます。やさしい雰囲気を出してみようとか、「アーメン」の言い方をまねてみたり(笑)。でも、それはとても外面的で、本質にならっていないことに気づくわけです。



 アブラハムにならうということも、彼の信仰の姿勢にならうのであって、外面的なことではありません。パウロはユダヤ人たちにそれを教えているのです。

 再びパウロは、割礼と信仰の関係について語っています。割礼のことについて、正直くどいと思うほどパウロが説得を試みているように見えます。どうしてこんなにもユダヤ人たちにとって「割礼」というものが重要だったのか疑問に思うのです。ただ、そこには歴史的な経緯があったということです。割礼は神の民が、神を信じない民と自分たちを明確に区別する外的なしるしでした。特にバビロンに囚われ、バビロンの支配下で歩んでいたイスラエルの民にとって、自分たちのアイデンティティを保つために、このしるしが精神的にも支えになったという歴史があるようです。外からの迫害、圧力の中で、自分たちは神の民なのだとの自覚を保つために重要だったのです。

 そうした歴史があるので、こだわる人々がいたのも不思議ではないでしょう。しかし、今や、外側の「目に見えるしるし」以上に、心の割礼こそが大事なのだとパウロは教えていますし、それが主のみこころでした。前節でパウロはダビデの例を挙げて説明しました。主が罪をお認めにならないその人は、幸いであるとの詩篇の引用がありました。罪を赦されている「この幸い」は、割礼のある者にだけ与えられるのか、そうでない者にも与えられるのかと改めて問いかけます。

9  それでは、この幸いは、割礼のある者にだけ与えられるのでしょうか。それとも、割礼のない者にも与えられるのでしょうか。私たちは、「アブラハムには、その信仰が義と認められた」と言っていますが、
10  どのようにして、その信仰が義と認められたのでしょうか。割礼を受けてからですか。割礼を受けていないときですか。割礼を受けてからではなく、割礼を受けていないときです。 

 パウロの答えは、アブラハムを参考にして説明したものです。3節のところで、「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」とのことばがありましたね。創世記15章からの引用でした。
 これはなんと、アブラハムが割礼を受ける前の話でありました。アブラハムが神様から契約のしるしとして、割礼を命じられたのが創世記17章でした。つまり、アブラハムが割礼を受けたのは、信じて義と認められたと語られた時より「後」の話なのです。ですから、パウロは11節でこのように語っています。 

11  彼は、割礼を受けていないときに信仰によって義と認められたことの証印として、割礼というしるしを受けたのです。 

 すると、どうなるでしょうか。割礼を受けたから義と認められたのではないことがより鮮明になります。あくまでも神を信じる信仰によって義と認められたのです。では、なぜ、割礼が必要だったのでしょうか。神様は割礼がないと、その人が御自分を信じているかどうかわからなかったのでしょうか。当然、そんなことはありませんよね。全知全能なのですから。心のすべてをご存知で、私たちの信仰をすべてご存知なのです。

 では、誰のために「割礼」が必要だったのでしょうか。人間のためです。当時のユダヤ人のためです。信仰は目に見えないものですから、目に見えるしるしを与えてくださったのです。まして、神を信じない異国に置かれた時に、自分たちが「神のもの」であることのしるしとして役立つものとなりました。これによってむしろ、信仰を励ましてくださったと言えます。ですから、割礼は救いの条件ではない。先ほどの創世記の順番からしても、信じた者の目に見えるしるし、証しなのです。それは人の弱さに寄り添う神のご配慮であるとも言えるでしょう。

 そして、信仰の父と呼ばれるアブラハムが、割礼を受けることなく信仰によって救われていた事実は、それ以降割礼を受けずに信じる者たちのモデルとなるためでありました。

11節後半 それは、彼が、割礼を受けないままで信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められるためであり、
12  また、単に割礼を受けているだけではなく、私たちの父アブラハムが割礼を受けていなかったときの信仰の足跡にしたがって歩む者たちにとって、割礼の父となるためでした。 

 ここにあるように、実に割礼なしの異邦人にとってもアブラハムは「信仰の父」となり、割礼を受けた者たちにとっても、信仰によって歩むのだと教えるモデルともなっています。ですから、「信仰の父」であり、同時に「割礼()の父」とも呼べると言えるでしょう(新改訳脚注参照)。

パウロは、割礼を受けた者と、無割礼の人々を、こうしてアブラハムやダビデの存在を通して一つに結び合わせようとしているのです。それは大変面倒なことだったでしょう。難しいことだったでしょう。では、なぜそうまでして? それが神のみこころだからです。

真のキリスト者は、自分の感情や思いを神としません。自分が頭にきたからこうしてやろう!と決断しません。「私は主のもの」と信じているので、主のみこころを求めるのです。主のおことばに従うのです。

ですから、大切なこと、本質的なことは割礼の有無ではないのだと改めて教えられます。

ローマ2:28-29  28節 外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上のからだの割礼が割礼ではないからです。 29節 かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による心の割礼こそ割礼だからです。その人への称賛は人からではなく、神から来ます。 

 ここでは外見上ではなく、人目に隠れた部分に着目していますよね。肉体の割礼よりすぐれた割礼があるとしたら、御霊による心の割礼であると言います。この心の割礼こそ、目には見えないけれども、まさにむなしく消えるものではなく、いつまでも残る大切な真理なのです。

私たちの時代においては、「洗礼」が割礼と似た役割を持っている面があります。洗礼によって義と認められるのではありません。洗礼の水が私たちをきよめるのではありません。洗礼はとても大切な主の教えですから、私たちはそれを守るのです。

ただ、あくまでも信じて義とされた者が、その証印として、目に見えるしるし、証しとして洗礼を受けることを忘れてはいけません。逆に、私たちの救いを儀式や人の行いにすり替えることが、信仰の形骸化、かたちばかりの信仰への誘惑となることに気をつける必要があるのです。

むしろ、普段の小さな出来事を、信仰をもって決断しているのだろうか。祈って、神様のみこころを求めて決断し、行動しているのか。信仰とは「生もの」なのです洗礼を受けているから、いつも私たちの信仰が健全なわけではないのです。洗礼がそれを保証するわけではありません。むしろ、洗礼を受けた者として「ふさわしい今があるかどうか」を問われ続けます。

 本日の412節に「信仰の足跡」ということばがあります。アブラハムは割礼を受けた者にも、受けていない者とっても、信仰者としての足跡を残してくれたのです。そして、これらすべての信仰の創始者、完成者がイエス・キリストであると聖書は語ります。私たちは、形ばかりマネをするのではない。アブラハムと同じように割礼を受けるという画面的な真似事ではない。アブラハムやダビデの信仰の本質にならうことが大切です。誰よりもイエス様の信仰の足跡に従うことが問われているのです。

 アブラハムが、どこに行くのか分からない中でも、神様のおことばですからと故郷を出て、神様に信頼して歩んだように。ダビデが、どんなに人から裏切られ、悲しい思いをしても、なお神様のみこころを求め続けたように。イエス様が、どんなに傷つけられても、どんなに悲しい思いをしても、罪ある者のために祈り続け、その罪人のためにご自身をささげられたように。私たちは、いつでも主のお心を求めて、そこからブレずに歩んで参りたいのです。

ヘブル12:2 信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。

 引用元聖書
<聖書 新改訳2017
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