*** 2/25(日)主日礼拝 説教概略 ***
福音派の神学者J.I.パッカーは、その著書(『聖書教理がわかる94章』)において、こう言っています。「愛はキリスト者の行動の基本である」と。また、「キリスト者の生活の品質証明書は、キリスト者としての愛である」とも表現しています。
つまり、キリストの愛が、私たちの生活、あらゆる行動の土台になっていることこそ、私たちが「キリスト者である」と胸を張れる証明なのだということです。
キリストを信じた者の愛は、神様への愛と、隣人への愛という二方向に現わされます。
神様への愛とは、神様に対する従順です。その教えを喜びとし、その教えに生きることが、神様への愛の応答です。一方、隣人への愛とは、隣人の最善を願って自分をささげ行動することです。好きになるという感情ではありません。好きならなくても愛することはできるのです。
神の愛を受け取って終わらず、こうして神への愛と隣人への愛に生きることが、神様がくださった素晴らしい救いの恵みへの応答です。この愛にとどまるならば、私たちは世の終わりの神のさばきに対して、何ら恐れることなく、恐れに勝利して、平安をもって迎えることができるのです。
愛はこの恐れに完全に勝利するのです。この愛に生きることを教えられ、この愛を世界に示していきましょう。コロナで分断と孤立が進んだこの世界に対して、私たちはこの愛をもって、大胆に証ししていけるのです。
1.愛はさばきの日に勝ち誇る
17節 こうして、愛が私たちにあって全うされました。ですから、私たちはさばきの日に確信を持つことができます。この世において、私たちもキリストと同じようであるからです。
「こうして」とは、どのようにしてでしょうか。12節にこうありました。
12節 いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。
神様から十字架という愛を受け取った私たちです。その愛を受けた私たちが互いに愛し合うことによって、神の愛が私たちの交わりの中に全うされたのです。こうして、神から流れ出た愛が、私たちの交わりの中で完成されていきました。
それゆえに、私たちは「さばきの日」に確信を持てるのだと語られています。確信ということばは、「大胆さ」や「開放感」という意味もあります。さばきに対してビクビクせずに、堂々と胸を張れるということです。
「さばきの日」とは、この世界の終わりに神が最後の審判をくだされる時です。その時、すべての人が地上での歩みのすべてについて、神の前に申し開きをするのです。もし、心の隅々までを神の前に映像化されて、明らかにされると考えたらどうでしょうか。人の目には見えていない隠れていた部分。家での姿、家族との関り方。心の中にある汚れた思い。それらもすべて神の前に裸にされるのです。それに対する備えはできているでしょうか?
怖いですよね。
しかし、それに対して勝ち誇る道、勝利できる道が、キリストの愛を持つということです。キリストの愛に生きるということです。
すべての人には、罪に対する刑罰の恐れが深いところにあるものでしょう。だから、「死」が怖いのです。けれども、キリストの十字架の愛を受け入れ、この愛に生きるなら、その恐れを締め出せるのです。神を愛し、隣人を愛する者とされているのならば勝利しているのです。
18節 愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。
愛には恐れがないのだと言います。全き愛、完全な愛は、恐れを100%締め出すのです。結局、死後に対して恐れるのは、そこに待っている神のすべてを明らかにする審判と刑罰を恐れているからです。ですから、そのさばきの対象となる「罪」が赦され、きよめられ、罪をおおう愛の中に生きているならば、平安をもって死に備えることができるのです。
これこそが、一番にしておかなければならない「終活」ではないでしょうか。
「愛が怖れを締め出す」と語られています。「締め出す」という動詞は、現在形で継続や繰り返しが意図されています。一回ではなく、継続的に、常に、怖れを外に締め出し、放り出し続ける力です。ですから、愛に「とどまりなさい」と語られているわけですよね。とどまっている間はその作用の中にいるのです。そして、罪から来る「恐れ」と神から出た「愛」は対立関係です。愛が占める割合が大きくなるほどに、恐れはその居場所を失うのです。ですから、理論上は愛が100%占めるなら、恐れは0%になります。逆に、愛が足りないと、私たちは恐れに支配されがちです。心の平安を失っていきますよね。
それゆえに著者ヨハネは、絶えず神の愛の中にとどまるよう励ましているのです。19節に、こうあります。
19節 私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。
ここにいつでも立ち返り、ここにとどまりたいのです。
2.愛は互いの罪をおおう
キリストを信じた者は確かに救われています。どんなに罪を犯しても赦していただけます。しかし、そのことに甘んじて、平然と罪の中にとどまり、愛からかけ離れていくとき、平安があるでしょうか。天国に行けなくなるという不安はないかも知れません。しかし、平安も喜びも失われ、神のさばきの前に立つのも怖くなりませんか。
Ⅱコリント5章10節にこうあります。ともに開きましょう。
5:10 私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現れなければならないのです。
ここは明確にクリスチャンに向かって語られているところです。当然、良い報いも受けます。「よくやった良い忠実なしもべだ」と。しかし、私たちのした悪について、神様は「よくやった」と言うはずがありませんよね。ここでは「善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受ける」とある通りなのです。善悪両方の報いを受けるのです。いくらクリスチャンでも、悪い罪を犯したのに神様から「よくやった!」と言われるはずがないですよね。
主から聖霊さえも与えられたのですから、「ただ天国に入れます」で終わらず、愛の宝を豊かに天に積んで、胸を張って天の御国へと凱旋したいと思いませんか。
第一ペテロ4:8ではこうあります。
Ⅰペテロ 4:8 何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。
愛は「罪をおおう」とはどういうことでしょうか。その基本的な意味は、罪を赦すということです。隣人が自分に罪を犯した時に、愛によっておおうのです。その人のした悪を思わず、その人の罪を赦し、その人にあわれみを示すのです。そうすると、そこから傷が広がらないのです。しかし、私たちが「愛でおおう」ことをせずに、罪に対して怒りやさばきで返すなら、どうでしょう。報復合戦となり罪が増し加わってしまいます。
私たちはただ「罪を犯さないように」とビクビク消極的に歩むのではなく、隣人を愛でおおっていく使命を託されたのです。愛によって隣人をより多く赦す道です。神様から赦していただいた私だから、私も隣人を赦そうと生きることです。これによって、お互いに罪から守られていくのです。
逆に、神様から赦していただいたのに、私たちが赦さないとしたら、このことで神様に申し開きはできないでしょう。
ヤコブ2:13 あわれみを示したことのない者に対しては、あわれみのないさばきが下されます。あわれみがさばきに対して勝ち誇るのです。
「あわれみがさばきに対して勝ち誇る」とあります。赦す愛です。寛容な心です。もし、私たちが隣人にあわれみを示し、それこそ深い愛を示して歩むのならば、神様は私たちの歩みをさばかれる日に、あわれみと愛をもって、よりやさしい目でジャッジしてくださるでしょう。よく赦した、よく寛容を示したと報いてくださるでしょう。こうして、お互いの愛がお互いの怒りを和らげ、さらなる罪からもお互いに守られていくのです。神様はそれを望んでおられるのです。
3.身近な人を愛してこそ
このように、さばきと刑罰に対して勝利できる「愛」を主からいただいた私たちです。これを私たちの最大の武器としないのならば、宝の持ち腐れではないでしょうか。ですから、私たちはこの愛を育て、愛を磨き、この分断と孤立の社会に対して、愛によって互いを覆い、結び合わされる恵みを証して参りましょう。
そのためにも、まずキリスト者同士が、内輪もめにエネルギーを使うべきではないのです。私たちがともに歩む以上、必ず衝突や意見の対立、傷つけたり、傷ついたりは起こり得ます。そこで分断していくなら、この世と同じでしょう。
しかし、そこで分断ではなく、対立ではなく、赦しをもってそれまで以上に絆を深め合うならば、私たちは悪魔に勝利することになるでしょう。第一ヨハネ4章に戻ります。20-21節
20節 神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。
21節 神を愛する者は兄弟も愛すべきです。私たちはこの命令を神から受けています。
このみことばを真摯に、誠実に受け止めましょう。見せかけの信仰者であってはなりません。表面的にいい人でも、実際に愛し合い、赦し合うことがなければ、その人は「偽り者」なのです。そして、「目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできない」とも語られていますよね。
漫画「スヌーピー」「ピーナッツ」に登場するチャーリー・ブラウンの有名なセリフに、次のようなものがあるそうです。「僕は人類を愛している。耐えられないのは、身近な連中さ」。偽物の愛について、作者が皮肉を込めているのでしょう。こういう人いるな~と思わず笑ってしまいますよね。でも、実は自分自身がこういう人間なのですよね。
このセリフは愛についての風刺で、矛盾に満ちています。人類という誰の顔も見えない何かを愛していると言っても、身近な人を全く愛していないのです。説得力が「ゼロ」です。むしろ、私たちを不機嫌にさせる可能性のある、ごく身近な人々をこそ愛すべきです。それをせずして、「人類を愛しています」と言ったところで、神様は「愛している」とはお認めにならないでしょう。
あなたの伴侶を、あなたの親を、あなたの兄弟を、あなたの上司・同僚・部下を、愛さずして、人類を愛しているとか、神様を愛しているとは言えないのですよね。
マタイの25章31節以降では、それこそ最後の審判に関するイエス様のメッセージがあります。その中で40節にこうあります。マタイ25:40
すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』
イエス様に直接したことでなくとも、イエス様の兄弟たち、しかも、取るに足りない小さな者に対して、価なしになした愛のわざは、イエス様に対してしたこととしてカウントされるのだということです。逆に、この兄弟姉妹が困っている時に、何も手を差し伸べなかったのなら、それはイエス様に対してしなかった事としてカウントされるのだと言うのです。
ご一緒に語られて参りました。神様からすばらしい「愛」という最高の賜物をいただきました。これは持っているだけでは意味がありません。この愛を用いて、神に仕え、隣人に仕えるのです。互いに赦し合い、互いの罪を覆い合い、さばきに対する堂々たる勝利を宣言しようではありませんか。これこそ、教会が、キリスト者がこの世に対して最も誇れる最高の宝なのですから。
引用元聖書
<聖書 新改訳2017>
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