東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 毎日の聖書【3月分】
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2024/02/28

毎日の聖書【3月分】


1日 創世記33章
 兄エサウの恨みを買っていたヤコブは長い時を経て、ようやくエサウと再会を果たす。この二人の再会の場面を見る時に、神の恵みを強く感じるむしろ、神の恵みなしにはこの再会と和解は、あり得なかっただろう。3節を読むとヤコブの変化が見て取れる。恐れを抱いて、自分だけ後に残って祈っていた彼が、今は「自分が先に立って」歩み始めた(3)。そこに主が先んじておられるという信仰が育ったからだろう。 さらに、3節によれば、彼は7回も地にひれ伏して、エサウに挨拶をしている。この姿勢は、彼に対する心からの謝罪を示す姿勢だろう。しかし、これまでの経緯を考えると、兄エサウが優しく受け入れてくれるとは考えにくい。けれども、4節にこうある。
エサウは迎えに走って来て、彼を抱きしめ、首に抱きついて口づけをし、二人は泣いた。
 神がすべてを整えておられた。その背景に、1節にあるようにエサウには、400人もの家族や親族などがいた。彼は長男の祝福こそ逃したが、神のおかげで大成功を治めていたのだ。これがあるからこそ、ヤコブの家族を見ても嫉妬せず、怒りを燃やさずに済んだのではないだろうか。すべては神のみわざだ。主が万事を備えておられたのだ。

2日 創世記33章
 ヤコブは、エサウの好意を得るためにと贈り物を用意した。しかし、エサウは最初、それらを受け取らなかった。「私には十分ある」とエサウは応じている(9)。これもまた、神がエサウに豊かに与えておられたからである。しかし、ヤコブは、謝罪の意図も込めているし、貸しを作ったままでいることを良いと考えなかったのだろう。
 10節では、ヤコブは恐ろしいはずのエサウを「神の御顔を見ているようです」と伝え、11節では「この祝いの品をお受け取りください」と伝えている。それは、人に仕えるようにではなく、神に対してするようにせよとの、コロサイ書のみことばにも通じる姿勢だ。
 彼は11節の中で、「神が私を恵んでくださったので」と語っていることからも、自分の手柄とは考えず、ひたすらに神の恵みであるとの姿勢が生まれているのだ。その恵みに生きる者とされたからこそ、彼の姿勢は変わっている。私たちもまた、神を恐れる者とされていくとき、神の恵みの大きさを知る時、高慢に威張る者から、ずる賢い者から、まっすぐに神を見るように、隣人を見る者へと変えられていく。あなたの隣人の前に、主が立っておられることを信仰の目で見つめ、愛のわざに励んでいこう。

3日 創世記34章
 この章では、非常に悲惨な事件が相次いで起こる。その根本的な原因は、神のみこころに従わず、異教の地に長らく過ごしたことにある。33章の18-19節で、カナンの地の一部、すなわちヒビ人(カナン人)の土地を買い、そこでしばらく住むことを選んでいる。彼らは異教の偶像を信じる罪深い民。そこに身を寄せたことで、ヤコブとレアの間に生まれた娘ディナが、ヒビ人シェケムに辱めを受けてしまった(2)。さらに、それを知ったディナの兄弟たちは、激しく怒り(7)、特にシメオンとレビが中心となって、ヒビ人に対して虐殺と略奪をしてしまう(28-29)。
 ディナへの暴行はひどい罪である。だが、それに怒りを燃やしたシメオンやレビの行為は、さらに超える悪行をした。29節によれば、虐殺に加えて、幼子、女性たち、すべての者を捕虜にしたり、略奪したりしたというのだ。このことは、創世記49章5-7節のところで触れられている。シメオンとレビの仲間に加わってはならないと。「彼らは怒りに任せて人を殺し」とある。みことばは彼らの怒り自体を否定していない。しかし、怒りに支配されて、人を殺すなどあってはならない。怒っても罪を犯してはならない。ヤコブとその家族に必要だったことは、ディナが傷つけられた時に神に聴くことだったのだ。

4日 創世記35章
 1節で神はヤコブに言われた。「立って、ベテルに上り、そこに住みなさい。そしてそこに、あなたが兄エサウから逃れたとき、あなたに現れた神のために祭壇を築きなさい」
 ベテルとは、ヤコブが神と出会ったところ。ヤコブにとって、いつでも立ち返るべき信仰の原点だ。ベテルとは「神の家」を意味することば。神の家に、「わたしと一緒に住みなさい」と、主は言われる。それは単に神のもとに帰るだけでなく、しっかりと信仰生活の拠点を築いて、神とともに生活せよということだ。2節では、偶像を取り除くよう教えられている。彼らは4節で、そのことばに従い、シェケムの樫の下にそれらを埋めている。
 いつでも帰るべき場所は、神との交わりの家。出発すべき原点でもある。同時に、神は「神のために祭壇を築け」と言われた。そこは神礼拝の場だ。礼拝を大事にせずしての信仰生活は成り立たない。最も基本的なことが語られている。私たちもここに堅く立とう!

5日 創世記36章
 1節、「これはエサウ、すなわちエドムの歴史である」と始まる。本流のヤコブ(イスラエル)の歴史だけでなく、対立していく民族の歴史にもみことばは触れる。しかも、神は、その時に敵対する民族さえ、守られ、増やしてくださり、豊かにされていることがわかる。7節によれば、「一緒に住むには所有が多すぎて・・・寄留していた地は、彼らを支えることができなかった」とある。なんという物質的恩恵だろうか。こうして、増えていったので、彼らはセイル山地に住むようになったと続く(8)。そして、系図につながる。
 しばしばイスラエルに敵対し、脅かすエドム人の歴史である。彼らは架空の存在ではなく、こうして現実に増え広がり、多くを所有していたことがわかる。箴言16章4節では、「すべてのものを、主はご自分の目的のために造り」と語られる。そこには悪しき者さえ含まれている。すべては神の御手の中にある。なんと大いなる力ある神だろうか!

6日 創世記37章
 エサウの歴史に続いて、ヤコブの歴史が語られる(1-2)。しかし、その話の中心はヤコブの子ヨセフであった。17歳のヨセフは、父イスラエル(ヤコブ)から、甘やかされて育った。3節では、他のどの子よりも彼が愛されたとある。本当の愛とは言い難い、歪んだ愛情がヨセフを生意気にしてしまったのだろう。もちろん、私たちも気をつけなければならない。
 ヨセフは、兄たちの悪い噂を父に告げるなど(2)、明らかに兄たちから嫌われる歩みをしていたのだ。さらに5節では、ヨセフは自分が見た夢を、何の考えもなく兄たちに告げた。兄たちが自分を伏し拝むという夢だ・・・。兄たちはますますヨセフを憎んだ。これらは一見、イスラエルの偏愛とヨセフの未熟さを語っている記事に見える。しかし、これらの関係の悪化さえ、神は用いておられるのだ。これらの背景があって初めて、ヨセフが奴隷商に売られるということが起こる。しかもそれは、やがてイスラエル部族を救うための、主の準備であったのだ。神のご計画は深く、私たちの考えをはるかに超えている。

7日 創世記37章
 ヨセフの兄たちの中でルベンは、弟を殺してはならないと他の兄弟たちを諭した(21)。殺すのではなく、穴に入れる程度にさせて、後に救出する計画を彼は考えていたようだ(22)。彼らはヨセフを穴に投げ込んだ(24)。そうこうしているうちに、なんとも都合の良いタイミングで、イシュマエル人の隊商が近くを通ったのだ。彼らはヨセフを殺しても何の益にもならず、さすがにそこまでは・・・と考え、この隊商に奴隷として銀20枚(当時の奴隷1人分の値)で売り飛ばすことにしたのだ(28)。
 ルベンは帰ってきて愕然とした。ヨセフを救えなかったからだ(29-30)。ただ、これらすべてに神のご計画を見ることができる。ルベンがどんなに助けようとしても、神のご計画上、ヨセフがエジプトに行くことが必須ならば、止めることはできなかったのだ。こうした穴は井戸として使われることが多かったが、穴には水はなく、溺れる危険からも守られた(24)。イシュマエル人が通らなかったら、彼らは殺してしまったかも知れない。しかし、人の様々な思いを超えて、神のご計画はなる。私たちがどうやっても、思うようにいかない時、「もしやそこに、神様のご計画があるのでは?」と、思いを主に向けてみよう。 

8日 創世記38章
 ユダは長男エルに、タマルという妻を迎えた(6)が、エルは神の前に悪しき者で、彼は早々に死を迎えた(7)。当時、また子孫を残す必要から兄が死んだとき、弟がその兄嫁をめとるというルールが一般的にあった。しかし、弟オナンは、兄のために子孫を残すことを嫌い、務めを果たさなかった(9)。オナンもまた主の目にかなわず、早々に死を迎えた。ユダはタマルを「呪われた嫁」とでも考えたのだろう。次の息子とタマルを結婚させることをしなかった(11)。タマルはこの事実を知り(14)、遊女に変装して、義父ユダとの間に子をもうけようと考えたのだ。その当時ユダは妻に先立たれていたが、それにしても・・・という状況。後に、ユダはタマルの噂を耳にした。彼女が売春をし、それによって子をみごもったというのだ。ユダは自分のした事を棚に上げて怒り、彼女を殺すように言う(24)。けれども、タマルこそ、ユダがお金で買った遊女その人であったと判明するのだ。しかし、驚くべきことは、このユダとタマルから生まれた双子のうちペレツの子孫として、イエス・キリストが誕生するのだ(マタイ1:3参照)。人間の罪深さを知る記事だが、同時に、人の罪の現実の中に、神の救いが与えられたことを知る記事でもある。

9日 創世記39章
 38章で後に来られる救い主の家系の話が進展したが、その一方でこの時代における神の救いの計画も進展している。ヨセフはエジプトに売られ、ファラオの廷臣の侍従長ポティファルのもとで奴隷として働いていた(1)。奴隷でありながら、神がともにおられたゆえに、彼は祝福され成功する者となっていた(2-3)。そうなると、主人も彼に好意を抱き、どんどん任せるようになった(4)。そして、神の祝福を受けたヨセフに、一切を任せるようになると、このポティファルの家や野にある全財産の上にまで、その祝福が及んだことがわかる(5-6)。その祝福はヨセフ自身の上にとどまらず、彼を信頼して任せた者、彼に良くしてくれた者の上にも及んだ!! 私たちがどこにいようとも、私たちが主キリストを信じて、神のみことばにとどまるなら、むしろ祝福が私たちをどこまでも追いかけてくる!ヨセフは孤独だった。見知らぬエジプトの地だ。異教の地で奴隷の立場だ。それでも、神がともにおられる者ゆえに、彼がすることすべてにおいて成功し、祝福があったのだ

10日 創世記39章
 ヨセフは美形で、体格も良かったので、ポティファルの妻が彼に惹かれてしまい、密かに彼を誘惑し始めた(6-7)。しかし、ヨセフはその誘惑を拒んだ。もちろん、ご主人に対する恩義、感謝があった。外国人奴隷である自分に、財産の管理の一切を任せてくれたのだ。そのことは8-9節のことばに表れている。けれども、ヨセフが奥さんの誘いを断った一番の理由は、自身を祝福してくださった神を意識してのことだった。「どうして、そのような大きな悪事をして、神に対して罪を犯すことができるでしょうか」と彼は言っている(9)。
 主人に申し訳ないという事以上に、自分をこの地で守り導き祝して下さった神に対し、罪を犯してはならないと考えたのだ。この事は大切である。人に罪を犯さないようにという考えならば、本人に迷惑がかからなければいいとか、バレなければいいという話にもなる。この時も、ポティファルの妻からは「内緒にしていれば大丈夫」と誘惑されただろう。けれど、ヨセフの罪の基準は、人に対してではなく、神に対してであった。多くの賄賂、裏金、不正、隠蔽・・・これらの問題は、神の存在を無視して、人にさえバレなければという行動原理から来るだろう。だからこそ、神を恐れて生きることがまっすぐ生きる上で大切だと、改めて肝に銘じる必要を覚える。

11日 創世記39章
10節 彼女は毎日ヨセフに言い寄ったが、彼は聞き入れず、彼女のそばに寝ることも、一緒にいることもしなかった。 ヨセフのすばらしいところだ。とても教えられる。私たちは、たいていは「これぐらいならいいか」と考え、そこから罪に呑まれていってしまう。「ここまでは大丈夫だろう」と、罪の少し手前ぐらいに身を置くのだ。それだけ誘惑もある。
 アブラハムの甥ロトは、ソドムにあえて住んだ。栄えている町、便利な町、同時に罪の誘惑の多い乱れた街。「そこに住むだけなら大丈夫、罪を犯さなければいいのだ」と思ったのではないだろうか。しかし、それが悲劇の始まりだった。それからすると、ヨセフは賢く正しい選択をしている。「聞き入れず」というだけでなく、「彼女のそばに寝ることも」しなかった。また、「一緒にいること」さえしなかったのだ。私たちは弱い。弱さを自覚することが必要だ。その自覚があるならばわかってくる。誘惑と戦うのではなく、むしろ誘惑に会う機会を祈りのうちに減らすことが大切だ。

12日 創世記39章
 11節以下では、ポティファルの妻が無理やりヨセフに関係を迫っている。逃げ出したヨセフだったが(13)、彼女は人を呼んで彼に乱暴されたと偽証するのだ(14-15)。まさに作り上げられた「冤罪(えんざい)」だ。主イエスの十字架もそうだった!ポティファルの妻がしたことは、人の人生を破壊する醜悪な罪だと言えるだろう。現代では、SNSでの拡散が大問題となっている。噂で人を殺せてしまう・・・ある種の殺人兵器だ。私たちもよく考えて用いる必要を覚える。
 こうして、ヨセフは牢に入れられてしまう(20)。ヨセフが味わったことは何とも不条理だ。兄弟から売られ、忠実に仕えていた主人夫妻から裏切られ、牢に入れられたのだ。けれども、これも神の壮大な救いの計画の一部であったことがわかる。21節にこうある。【しかし、主はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた。】どこに行こうとも、そこに主がおられる。また、長い目で見た時、彼の牢獄での経験も、後のエジプトでの働きに大いに役立ったことだろう。私たちもしばしば、騙されたり、不当な批判を受けたりと、不条理な目に遭うことがある。だが、主を見上げよう。一見不条理なその奥に、その先に、主の計画は確かにある。主は意味もなくあなたを苦しめたりはしないのだ。

13日 創世記40章
 ヨセフがいた監獄に、ファラオに仕えていた二人の官長が拘留されることになった(1-3)。4節で、ヨセフは彼らの付き人に任命されたとわかる。この二人は夢を見た。その夢には「それぞれ意味があった」(5)というのは、主がそうなさったからであろう。これで夢を説き明かす賜物を神から授かっているヨセフの出番となる(8)。二人の夢を聞いたヨセフは、それぞれに夢の解き明かしをした。一方は良い内容だったが、もう一方の人物の夢は最悪なものであった。自分の兄弟との関係でもそうであったが、ヨセフは世辞を言わない。忖度をしない。その性質が時に彼を苦しめたのかも知れないが、ここでも、彼は悪い内容の解き明かしも隠したりごまかしたりせず、明確に伝えている。それが神の真実であれば、まっすぐ伝えることは大切なことであろう。
 さて、ヨセフはこの解き明かしの賜物のことを、ぜひファラオに伝えて欲しいと頼むが、ファラオのもとに戻った献酌官長は、このことを思い出さず忘れてしまう。結果、ヨセフはこの出来事から2年も牢獄で待たされる。しかし、それが神の計画において大切で必要な訓練の2年であったのであろう。

14日 創世記41章
 ヨセフが夢を解き明かし、献酌官長がファラオの元に戻ってから2年が経過した(1)。ヨセフの頼みは忘れられ、牢から出られないまま時が過ぎていた。しかし、いよいよ時が来た。ファラオが意味のわからない夢を見て、その解き明かしの出来る者を探していたのだ(8)。あの献酌官長はこの出来事でようやくヨセフを思い出し、ファラオに推挙するのであった(12-13)。そこでヨセフはついに、エジプトの王ファラオの前に出され、夢の解き明かしについて問われた(15)。この時のヨセフの答えに教えられる。16節にこうある。私ではありません。神がファラオの繁栄を知らせてくださるのです。 冷静に考えると、聖書の神を信じていないファラオの前でこれを言うのは、とても勇気が必要だったのではないか。むしろ、余計な情報を入れない方がいいのでは?と、考えても不思議ではない。
 だが、ヨセフはそれをしなかった。あえて、自分から、これをなさるのは神なのだと証ししたのだ。私たちは、人間的には神の名を出せば「不利になるのでは?」と恐れることがある。けれど、すべてを与え導いてくださったのは主なる神なのだ。ヨセフはそれを伝えることこそが、大切なことだと考えたのだろう。私たちはどうだろうか!?

15日 創世記41章
 早速ファラオはヨセフに夢の内容を告げ、彼の解き明かしを待った。そして、誰にも解き明かせなかった夢(24)について、25節でこう告げている。「神が、なさろうとしていることをファラオにお告げになったのです。」 ここでも、主語は「神」である。実は28節でも同様に、神がファラオに示されていることなのだと、繰り返し伝えている。私たちは誰もが、自分を評価して欲しい。その才能や努力を認めて欲しいのではないか。だが、ヨセフは成長している。試練の日々の中で、練られてきたのだ。「自分を認めよ!」ではなく、神がファラオに示しておられるのだと伝え、自分のことが出て来ないのだ。こうして、ヨセフは29-30節において、7年間の大豊作と7年間の大飢饉が起こることを伝えた。7年も豊作が続けば、大抵の人は安心し、有頂天になってしまうだろう。今の良い状態がこのまま続くのだと思い込む可能性は低くない。だが、主が示してくださることに耳を傾ける者は、一部だけを見て有頂天にならないで済む。31節にあるように、激しい飢饉に対して良き備えをもってのぞむことができる。神の声に、いつでも耳を傾け、備えを怠ることのない者となろう

16日 創世記41章
 ヨセフはファラオの見た夢を、神の力によって解き明かした。これはファラオを納得させ、彼にこのように言わせた。 38節 そこで、ファラオは家臣たちに言った。「神の霊が宿っているこのような人が、ほかに見つかるだろうか。」39節 ファラオはヨセフに言った。「神がこれらすべてのことをおまえに知らされたからには、おまえのように、さとくて知恵のある者は、ほかにはいない。 
 ファラオはヨセフを認め、大いに評価した。しかし、よく読んでみると、「神がすべてのことをおまえに知らされた」とファラオは言っている。つまり、ヨセフの「すごさ」ではなく、ヨセフとともにおられる「神の偉大さ」を知ることになったのだ。これほど良き証しは他にない。私たちも自分を誇る歩みから、神の力を誇り、これを人々に知らせる歩みへと変えられていきたい。

17日 創世記41章
 ヨセフがエジプトで宰相(or総理大臣)の地位を得た時、すでに30歳となっていた(46)。彼が兄たちから意地悪をされ、奴隷として売られた時が17歳であったので、約13年もの時が経過していることになる。13年ほども、彼は苦労の日々を過ごしたと言える。もちろん、良い時もあったが、親兄弟から引き離され、異国の地、異教の地で、それほど自由の身ではなかった。無罪であったのに牢獄でも時を過ごした。だが、これらのすべてが、エジプトでファラオに次ぐ地位を得て歩むための、「良き備え」であったと言える。
 44節のファラオのことばに驚かされる。「私はファラオだ。しかし、おまえの許しなくしては、エジプトの国中で、だれも何もすることができない。」奴隷として売られてきた時、誰が想像できただろうか。牢獄に入れられた時、誰が想像できただろうか。しかし、神は最初からずっとこの計画を持っておられたのだ。神のなさることは、本当に時にかなって美しく、緻密で無駄のないご計画である!!

18日 創世記41章
 51節で、彼にはマナセとエフライムという息子が生まれたことがわかる。彼の子どもたちの名前には、大切な意味があった。ヨセフの信仰告白、神への感謝の思いがあふれている。  
 「マナセ」という名には「神がすべての苦しみを忘れさせてくれた」という意味がある。実際に記憶から無くなることはない・・・。だが、その痛みと苦しみを忘れられるだけの幸いを、主が与えて下さったのだ。彼はまた「父の全家を忘れさせた」という意味もここに込めている。彼にとっての一番の傷は、奴隷生活や牢獄での生活以上に、自分の兄弟に憎まれ売られてしまったことだ。大好きな父から引き離されてしまったことだ自分の家族に見捨てられ、引き離された痛みは相当なものだろう。しかし、その深い悲しみさえも、神によって与えられた家族によって和らぐように感じたのだろう。
 52節で、「エフライム」という名前は「2倍の実り」という意味がある。苦しみの地エジプトにおいてさえ、神が多くの実りを与えてくれたことへの感謝だ。ヨセフは苦しんだはずだ。だが、その子らの名前を知る時、そこには神の豊かな介入があったことが証しされている。神は見捨てなかったのだ。神はヨセフをいつも見守り、支え、育てておられたのだ!

19日 創世記42章
 42章では、傷を負って機能不全に陥っている家族が、神のご介入によって再生していく姿が語られている。7年の大豊作の後、7年の大飢饉がエジプトに訪れた。そのため一切を管理しているヨセフのもとに、人々が来るようになった(31:57)。ヤコブとその息子たちも例外ではない(1-2)。ヤコブに言われ、息子たちはエジプトを訪れた(3)。まさか、その国の権力者がヨセフであるとは夢にも思わずに!そして彼らは、ヨセフを伏し拝んだ(6)。これらは神の深いご計画の中にあったことがわかる。
 9節でみことばはこう語る。「かつて彼らについて見た夢を思い出して、ヨセフは言った。」その夢は、11の星が自分を拝むというものだった。今目の前にいるのは10人の兄たち。もう一人は弟のベニヤミンだろう。今ここに、神が自分に見せたあの夢が、実現しようとしていたのだ。ヨセフは、この夢が必ずと信じていたので、彼らに疑いをかけ、弟を連れて来させようとしている(14-15)。ヨセフはこうして、神のみこころに目を留めて歩んでいることがわかる。勝手にみこころがなると何もしないのではなく、みこころがなることを願い、自分もそこに参与していこうとする姿勢が見える。私たちも「神のみこころがこの身になるように」と祈りながら、歩んでいこう。

20日 創世記42章
 ヨセフは食料をもらいに来た兄たちにスパイの嫌疑をかけたが、救済策を提案した。18-20節にて、ヨセフは誰かをここに残し、真実の証明のために末の弟を連れて来るように命じた。「私も神を恐れる者だから」と語りながら。その時、兄たちの口から本音がぽろりとこぼれるのをヨセフは耳にする。21節で、「まったく、われわれは弟のことで罰を受けているのだ」と兄たちは互いに言い合った。弟にあわれみを示さず、悪いことをしてしまった。そのゆえの罰なのだと彼らは言っている。彼らも悔いていたのだ
 これを聞いたヨセフは彼らから離れて泣いた(24)。ヨセフは、このことばを聞きたかったのだ。しかも、表面的なものではなく、思わずこぼれた本音だからこそ、なおのことヨセフの心に染み渡ったことだろう。私たちもまた、神へのいけにえは「砕かれた霊(心)」(詩篇51:17)であると知っている。誰もが罪深い存在だ。同時に、誰もが互いに傷ついているそこに必要なことは、真の悔い改めと赦しではないだろうか。罪を覆う愛ではないだろうか。ヨセフの涙の意味を、私たちもよく考えたい・・・

21日 創世記43章
 シメオンを残して父のもとに戻った兄弟たちだが、父を説得することに難儀していた。末の息子ベニヤミンを失うことが怖くて、父イスラエルは前に進めないのだ(6)。しかし、そこで父の心を動かしたのは、ルベンとユダの決意だった。ルベンは42章37節で、もし、私がベニヤミンを生きて連れ帰れなかったなら、自分の二人の子を犠牲にしてもいいとさえ父に伝えた。並々ならぬ覚悟だ。また、43章9節で、ユダは、自身がベニヤミンの「保証人となります」、「私が責任を負います」とまで明言した。なかなか言えることではない。しかし、食糧難で、この民全体を救うためにはこれしかなかった。いつでも、人々を救うのは、能力やパフォーマンスではない。こうした決意と献身の姿勢ではないだろうか。
 それまで父はためらっていた。10節のユダの指摘はその通りで、「もし、私たちがためらっていなかったなら、今までに二度は、行って帰れたはずです」とある。「ためらう」とは、遅らせるという意味のことばだ。不信仰によるためらいが、大きな遅れを生み、事態を悪化させてしまったのだ。大事な場面、迅速に対応すべき時に遅れを生じさせるのは「恐れ」であろう。神に信頼し、ゆだねるという「献身」が恐れを打破し、大事な場面で用いられ、主が働いてくださることを心に留めておきたい。

22日 創世記43章
 父イスラエルの信仰は、ずっと以前にヨセフを失ったことによって停滞していたように思われる。喪失感と「また失ったら・・・」という恐れだ。それゆえに、大事な場面で信仰による決断ができずにいたようだ。しかし、昨日の個所で扱ったように、ルベンとユダという二人の息子たちの献身によって目が覚まされたと言える。二人の身を切る覚悟によって、父の心を動かしたのだ。私たちに足りないのは、こうした部分かも知れない。
 ここで、父イスラエルはようやくこのように言えたのだ。14節「全能の神が、その方の前でおまえたちをあわれんでくださるように。そして、もう一人の兄弟とベニヤミンをおまえたちに渡してくださるように。私も息子を失う時は失うのだ。」 「失う時には失う」とは、神がそうなさる時には、どうやっても失うということだ。神が曲げたものを人はまっすぐにはできない(伝道者の書7:13)。全能の神がなさることに頼り、任せ、それでも失うものは、それが神のご計画であると受け入れる姿勢である。それにしても、残されたシメオンのことを「もう一人の兄弟」という言い方は残念である。ベニヤミンは名前で呼んでいるのに・・・。こうした偏愛、愛の欠如がこの問題を生み、また大きくしていることも心に留めておきたいことだ。

23日 創世記44章
 大飢饉の折、神の摂理のもとでエジプトの大臣になっていたヨセフもとに、イスラエルの息子たちが食料を求めて、二度目の訪問をした。今度は、末の弟ベニヤミンも一緒である。ヨセフは、実の弟ベニヤミンを見てこっそり涙した(43:30)。それからヨセフは、ベニヤミンの袋に銀の杯をこっそり入れさせ(2)、窃盗の嫌疑をあえてかけた(4-6)。兄たちを試しているのだ。当然だが、ベニヤミンの袋から銀の杯は見つかった(12)。そして、ヨセフはこのことを詰問している(15)。この時に、兄たちが本当に悔い改めているのかどうか、彼らの父へのことばが本物かどうかが明らかにされる。16節のユダのことばの中に、「神がしもべどもの咎を暴かれたのです」とある。銀の杯のことを言っているようでもあるが、彼の心には過去のヨセフへの仕打ちがあったことだろう。20年以上、自分のしてきた罪が心につっかえていたということではないだろうか。そして、33節では、「あの子の代わりに」と、ユダは自分が奴隷となることでベニヤミンと他の兄弟たちを助けて欲しいと懇願するのだ。これこそ、「悔い改めの実」ではないだろうか。口だけでなく、償おうとする姿勢、自分をささげる姿勢の中に、悔い改めの実を見るのだ。

24日 創世記45章
 ついにヨセフは、自分を制することができなくなり、皆を部屋から追い出して声を上げて一人で泣いた(1)。ところが、2節ではエジプト人たち、また王家の者たちはその声を聞いたと語られている(2)。個人的にはお気に入りの箇所だ。ヨセフはこらえきれず、一人で泣いたが、その声はだだ洩れで周囲の関係者には全部聞こえていたのだ。そんなこと、記録しなくてもいいはずなのに・・・何気に聖書は記録している!! でも、これゆえに、ヨセフはエジプトで孤独だったのではなく、周囲の人々からも「愛されていた」ことが暗に示されているように感じる。きっと周りの人は温かい目でこれを見守っていたのだろう。ついにヨセフは兄たちに自身のことを明かした。「私はヨセフです。父上はお元気ですか」(3)。
 当惑する兄たちを近くに引き寄せ(4)、ヨセフは赦しと励ましのことばを語るのであった(5)。なぜ、彼は赦せたのだろうか。兄たちの悔い改めの姿は大きかっただろう。けれど、もっと根本にあったものは、これではないか。ヨセフは5節で言っている。「神はあなたがたより先に私を遣わし、いのちを救うようにしてくださいました」と。兄たちに売られたのに、それを神の主権のもとになされた、救いのみわざであると信じたのだ。ここに目を注ぐ時、私たちは私怨などに支配されず、神の大いなる救いのみわざの中で世界を見ることができるようにされる。なんという恵みであろうか。

25日 創世記45章
 ヨセフの兄たちへのことばに、彼の立っている信仰が現れている。自分がエジプトに来たのは、大いなる救いのためであって、ヨセフの家族が生き延びられるようにするものであった(7)。続く8節でもこうある。「ですから、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、神なのです。」と。人間的な現実は、兄弟にいじめられ、奴隷として売り飛ばされたのであった。しかし、ヨセフはその背後で導いておられた主とそのご計画を、霊的な目でしっかりと見つめていた。私たちの信仰もいつもこうでありたい。目に見えることがすべてではない。目に見えないことにこそ、信仰をもって目を留めたいのだ。
 ヨセフの信仰が、兄弟たちの心を穏やかにし、皆が神のご計画に目を向けることができたのではないだろうか。14-15節で、ヨセフと兄弟たちは互いに涙し合いながら、ハグをし、語り合うことができた。美しい和解のシーンである。11節によれば、飢饉はあと五年続くということだ。そこでヨセフは、父イスラエルを迎えに行くように、兄弟たちに伝え、多くの贈り物を与えた。なお、24節で兄弟たちに「道中、言い争いをしないでください」と伝えていることは面白い。イエスの弟子たちが「いつも誰が一番か?」と、言い争いをしていたことを想起する。この赦しを受け、神の大いなる救いを垣間見ても、なお人は自己中心な罪人であることを示しているのかも知れない。

26日 創世記46章
 父ヤコブに対して、ヨセフが生きていること、エジプト全土を支配する立場にあることが息子たちによって伝えられた(45:26-27)。ヤコブは元気づき、一族皆でエジプトへ旅立った(1)。そして、ベエル・シェバに来た時に、主の幻によって語られた(2)。その内容は、「エジプトに下ることを恐れるな」というものだった(3)。その根拠は、主がともにエジプトに下り、この民を大いなる国民とすること。また、主が必ず再び連れ戻るという約束だった(4)。摂理的に、私たちはあまり味方のいない、アウェイの場所、キリスト者のいない場所に行かなければいかないことがある(意味なく自分から危険の飛び込むこととは異なる点に注意)。恐れと不安が私たちを襲うだろう。だが、味方は必ずいるのだ。まず、主がそこにともに行ってくださると言われている。主が支え、再び連れ戻すと言われる。そしてまた、主は前もってヨセフを遣わし、救いの備えをしておられたのだ。主が行けと言われるのならば、恐れずに主とともに行こう。

27日 創世記46章
 ヤコブとその一族は、ついにエジプトに到着した。ヤコブは本当に久しぶりにヨセフと再会し、彼に抱きつき、首にすがって泣き続けた(29)。その後ヨセフは、ヤコブに助言をしている。34節で、ファラオには「羊飼い」であることを伝えるように、というアドバイスだった。エジプト人は羊を飼う者を忌み嫌うので、それによってゴシェンの地に住めるようになるというものだった。ゴシェンの地は、牧草が豊かな地だ。ゆえに牧羊には向いていたことは理由の一つだろう。だが、より大切な理由があって、ヨセフはこの助言をしたのだ。
 一番の理由は、エジプト人の生活や文化と入り混じってしまい、信仰の純粋さを失わないためであったと思われる。わざわざ嫌悪され、距離を置いたのは、むしろ気に入られ、取り込まれないようにするためだった。イスラエルの民は、あくまでも「神の民」なのだ。主のものである。日本もまたエジプトのように異教の国だ。その日本におけるゴシェンの地とは、どこだろうか。教会こそが、ゴシェンの地に当たるのではないだろうか。我々は、この世に身を置き、社会的責任を誠実に果たし証しをすべきである。一方で、神の民が安心して集まれる場に身を置き、罪の文化に流されないよう保つこともまた大切である。

28日 創世記47章
 1節で、ヨセフはファラオに自分の家族のことを報告をし、コミュニケーンを取っている。
 7節では、ヨセフが父ヤコブを連れてきて、ファラオに対して挨拶(祝福でもある)をヤコブからしていることがわかる。10節でもヤコブはファラオを祝福しているので、非常に丁寧に、また好意的に接していることがわかる。おそらく、この当時のファラオは、ヨセフとの関係も非常に良好で、神の民イスラエルに対しても良くしてくれているのだ。マルコ9:41では、「あなたがたがキリストに属する者だということで、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる人は、決して報いを失うことがありません」とある。ゴシェンの地という自分たちの信仰を守る地をしっかりと確保する一方で、彼らはエジプトの民と共存するための知恵と謙遜を主からいただいている。私たちもまた、信仰において譲れないものは確かに保ちつつ、一方で排他的にならず、隣の未信の方々の祝福を心から祈るべきである。

29日 創世記47章
 イスラエルの死が近づいていた(29)。自分の死期を悟ったイスラエルことヤコブは、息子おヨセフを呼び寄せた。そして、ある「誓い」をお願いしている。それは、エジプトの地に葬ることをせず、運び出して「先祖の墓」に葬って欲しいということだ(30)。それはマクペラの畑地という場所で、アブラハムやイサク、またそれぞれの妻が葬られた場所だ。
 ヨセフは、30節で「必ずあなたの言われたとおりにいたします」と応じて、31節でその誓いをなしていることがわかる。50章を見れば、ヨセフがこの通りに誓いを果たしたことがわかる。しかも、ファラオがこれに協力し、ファラオの家臣や多くのエジプトの者もこれについて行き、荘厳な哀悼の式を行った(50:6-10)。本当に良い関係がエジプトとの間にあり、またそこで彼らの信仰が証しされてもいる。ヤコブが先祖の墓に葬ってくれと頼んだそのことは、神の名をより多くの者に知らせしめたことになる。私たちもまた、死ぬその時に至るまで、神のもの、キリスト者であることを証しする者でありたい

30日 創世記48章
 ヤコブは病気で伏せていた(1)。それでヨセフは、二人の息子(マナセ、エフライム)を連れて、父ヤコブのもとを見舞った(1)。するとヤコブ(イスラエル)は、「力を振り絞って床の上に座った」(2)。老衰もあり、病もあり、体はかなり辛かったのではないだろうか。「力を振り絞って」とある通り、何気ないその動作一つも、力を振り絞らないとできないほど弱っていたのだ。一方で、そのような病床にあって、力を振り絞って起き上がってでも伝えるべきことがあったということだ。それは一体何だろうか。
 個人的な話ではない。財産の話でもない。それは、「神の契約」についてであった。神のみこころを伝えることであったのだ。3-4節によれば、カナンの地ルズにおいて、全能の神がくださった祝福と約束のことであった。それは、ヤコブに多くの子孫を与え、その子孫たちにこの地を永遠の所有として与えるという約束であった。本当に伝えるべきことを、私たちは伝えているだろうか。力を振り絞ってでも伝えるべきことは、一体何なのか・・・。私たちもよく考えてみよう。

31日 創世記48章
11節 イスラエルはヨセフに言った。「おまえの顔が見られるとは思わなかったのに、今こうして神は、おまえの子孫も私に見させてくださった。」 父イスラエルは、老齢のために目がかすんでいて、よく見えなかった(10)。それゆえ、はっきりとその目で見ることはできなかったが、二人の孫に口づけし抱き寄せた。そこには深い感動と喜びがあった。まさか、ヨセフの顔を見ることができる日が来るなんて。孫をこうして抱ける日が来るなんて。絶望の中にあって、主が見させてくださった祝福であった。だからイスラエルは、神が望む以上のものを「見させてくださった」のだと告白している。肉体の目はもはやほとんど見えない。それなのに、心(信仰)の目には、かえって神のみわざが鮮明に見えたのだ。私たちは、この肉眼の目にとらわれ過ぎなのかも知れない。心の目で見る時、私たちが望む以上のものを、主は備え、与えてくださっているのではないだろうか。ぜひ、私たちの心の目を開かせていただきたこう!

引用元聖書
<聖書 新改訳2017
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