東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ローマ書4章13-17節「信じること(信仰)の勧め」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2024/03/01

ローマ書4章13-17節「信じること(信仰)の勧め」

*** 2/28(水)祈祷会 説教概略 ***

 若い頃、私は聖書の内容を分かりやすく伝えさえすれば、使命を果たしていると思っていた節があります。しかし、聖書の物語や戒め、教えをどれだけ伝えても、神様を信じましょう!イエス様を心にお迎えしましょう!と勧めなければ、十分に福音を伝えたとは言えないと、改めて示された時がありました。信じることを積極的に勧めることは、勇気がいることで躊躇しがちです。しかし、背中を押してくれる存在が、実はとても大切なのです。「信じることを勧める」ということ。みことばから教えられましょう。


13  というのは、世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいは彼の子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰による義によってであったからです。

 神様はアブラハムに対して、重大な約束をなさいました。彼の子孫が祝され、彼らが「世界の相続人となる」という約束です。それは、直接的には、カナンの地を相続するという意味があったでしょう。しかし、より深い意味では、アブラハムの霊的な子孫、つまり、キリストを信じるすべての者が神の治める世界の共同相続人になるということです。この全世界にいるキリスト者こそ、キリストの治める神の国を相続する者です。キリストと同じように「朽ちない栄光のからだ」をいただいて、御国を相続させていただくのです。

 それはこの世の様々な宗教のように、良い行いをすることによってではありません。戒律、律法を守るという「人のわざ」によりません。アブラハムと同様に、神を心から愛し、信じることによってです。14節にこうあります。

14  もし律法による者たちが相続人であるなら、信仰は空しくなり、約束は無効になってしまいます。 

 もし律法を守る者が相続人になるとしたら、どうなるでしょうか。行いを誇る者たちの国になるでしょう。人の自慢と高慢であふれて最悪です。神様は、「律法を全部行えたならば相続地を与える」などととは言われませんでした。一方的な恵みとして、与えるとの「約束」なのです。ゆえに、そのことばを信頼することこそが求められることでした。ゆえに、この14節にあるように、律法を守ることで得られるとするなら、神様の約束そのものを否定することになってしまうのです。そして、15節に律法の限界が語られています。

15  実際、律法は御怒りを招くものです。律法のないところには違反もありません。 

 律法の役目は、違反を明らかにすることなので、実質的に神の怒りを招く機会ともなると語られています。確かに、律法は人を救う力を持ちませんよね。むしろ律法だけなら人を罪に定める役目です。バークレーという学者このように言います。「律法は、人が誤った方向に歩いていることを示してはくれるが、誤った方向に行かせないように助けることはしない」 なるほど、その通りで、律法は過ちに気づかせ、罪悪感を持たせることはあっても、過ちを犯さないように守る力はないでしょう。さらには、そこから解放する力も当然ないのです。

 参考として「健康診断」について考えてみましょう。健康診断は、様々な健康に関する基準値があって、その範囲内にあるかどうかをチェックします。基準値から大きく離れていると、問題があると診断されるわけです。ただし、健康診断自体は、その問題を明らかにする役割は果たせますが、治療や回復をもたらすものではありません。診断を受けた本人にショックを与えることはあっても、癒やしてくれるわけではないのです。聖書の律法もそれに似ています。人を罪に定める役目はありますが、罪と滅びからから救い出してくれたり、そうならないよう助けたりすることはないのです。

こうしてパウロは、律法の限界を教えているのです。律法は有限なもので、救う力がありません。しかし、信仰ならば、信頼する相手である神様にのみ制限されるのです。つまり、無限で完全な神様を信頼していれば、何も怖いものがないわけです。17節で「死者を生かし、無いものを有るものとして召される神」とある通りです。死者をよみがえらせるいのちの神。復活の神。そして、無から有を生じさせる創造の神。この圧倒的な力を持つ神様に信頼することこそが、唯一必要なことです。

ですから、律法の役目や意義を正しく理解し、罪に気づかされた者が、イエス・キリストを求め、信じるようになることこそ、神様のみこころなのです。私たちも問われます。「福音を伝える」という時に、キリストを指し示すことを抜きにしてはならないのです。「聖書にはこう書いてあります」と、その物語や戒めを伝えるだけでは、人に罪を示すだけで終わってしまいかねません

だいぶ前の話ですが、ある教会のCSに通っていたお子さんが亡くなりました。しかもその時に、CSの先生たちは非常に大きな後悔を覚えたと言います。聖書物語や道徳的な教えはよく教えてきた。でも、キリストの十字架を信じることを、どれだけ子どもたちに繰り返し、そして真剣に伝えてきただろうか?と問われたのです。「信じましょうね!」とはっきり伝えてきただろうか?不十分だったのでは?と悔い改めさせられたそうです。十戒を暗唱できたとしても、聖書の物語のあらすじをほぼ言えたとしても、肝心な神様を信頼すること、イエス様の十字架を信じるということを、徹底して伝え続けなければ、ともすると道徳観ばかりを育てて終わることになりかねないのですよね。もちろん、それはCSに限らず、すべての人に対してのことです。16節にこうあります。

16  そのようなわけで、すべては信仰によるのです。それは、事が恵みによるようになるためです。こうして、約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持つ人々だけでなく、アブラハムの信仰に倣う人々にも保証されるのです。アブラハムは、私たちすべての者の父です。 

 アブラハムの信仰者としての姿は、すべての人のための姿です。神の約束を受け取る方法は信仰によるのです。こうして、神の約束は、律法を持つ人であろうと、持たない人であろうと、神を信じる全世界の人に対して開かれていることが明らかです。

 それゆえに、アブラハムは、文字通り「多くの国民の父」なのだと説き明かされています。17  「わたしはあなたを多くの国民の父とした」と書いてあるとおりです。彼は、死者を生かし、無いものを有るものとして召される神を信じ、その御前で父となったのです。 これは、アブラハムの名前が変わった時のことです。

 創世記17章を開きましょう。38節をご覧ください。3節ではまだ「アブラム」という名前でした。その名前の意味として「大いなる父」と理解できます。しかし、彼が99歳の時、いよいよ来年イサクが生まれようという時、神様はアブラムという名前を、「アブラハム」にせよと、改名を命じられました。「多くの国民の父」との意味です。5節にこうあります。創世記17:5 あなたの名は、もはや、アブラムとは呼ばれない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしがあなたを多くの国民(くにたみ)の父とするからである。 

 神様はアブラハムの名を指して、多くの国民(くにたみ・こくみん)の父と説きました。多くの国民と言う言い方は、当然に、ユダヤ人だけではないでしょう。様々な国の、様々な民族の父。そして、それはあらゆる国々の「信仰の父」となるということです。ですから、アブラハムが神を信じたように、世界中の人々が律法を身に着けるのではなく、信じるようになることが大切なのです。

 今日の箇所に戻ります。ローマ4:13に再び目を留めましょう。 

13  というのは、世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいは彼の子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰による義によってであったからです。 

 ここにある「彼の子孫」とは誰だったでしょうか。
 ユダヤ人たちは、自分たちこそアブラハムの子孫だと豪語しました。

 けれど、パウロによれば、律法によらず、信仰によるのが彼の子孫です。アブラハムと同じように神を信じる霊的な子孫こそ、アブラハムの真の子孫でした。実に、イエス様もそうおっしゃるのです。イエス様はヨハネの8章において、「アブラハムの子孫であるなら、神の真理を語るイエス様を受け入れるはずだ」と説き明かされています。

 ですから、私たちはアブラハムの話をするにしても、救いの神を信じるよう伝える必要があります。私たちが伝えたいのは単なる「道徳」ではありません。「救い神なるキリストを信じて、神の国を相続せよ」という福音とそれを信じる信仰なのです。道徳や物語で終わらず、救いの知らせ、十字架の福音を伝えましょう。そして恐れず、「信じましょう!」と愛のうちに、はっきりと背中を押して差し上げる者ともならせていただきましょう。


引用元聖書
<聖書 新改訳2017
聖書 新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会 

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