皆さんお元気でしょうか。新型コロナウィルスの問題は日に日に深刻さを増しており、本当に大変な状況になってきました。私も礼拝をどうすべきかについてここまで悩んだのは「初めて」です。非常に悩ましいものがありましたが、本日はインターネット動画を用いて、皆さんが家庭におられながら「少しでも礼拝できるように」と試みています。どうか皆さんの心が守られ、その信仰が励まされ、心も体も免疫力も強められますように。
2020/03/29
ルカ19章28-36節「主がお入り用なのです」
*** 3/29(日)礼拝説教概略 ***
皆さんお元気でしょうか。新型コロナウィルスの問題は日に日に深刻さを増しており、本当に大変な状況になってきました。私も礼拝をどうすべきかについてここまで悩んだのは「初めて」です。非常に悩ましいものがありましたが、本日はインターネット動画を用いて、皆さんが家庭におられながら「少しでも礼拝できるように」と試みています。どうか皆さんの心が守られ、その信仰が励まされ、心も体も免疫力も強められますように。
皆さんお元気でしょうか。新型コロナウィルスの問題は日に日に深刻さを増しており、本当に大変な状況になってきました。私も礼拝をどうすべきかについてここまで悩んだのは「初めて」です。非常に悩ましいものがありましたが、本日はインターネット動画を用いて、皆さんが家庭におられながら「少しでも礼拝できるように」と試みています。どうか皆さんの心が守られ、その信仰が励まされ、心も体も免疫力も強められますように。
2020/03/22
ルカ19章11-27節「主人を信頼する忠実なしもべ」
*** 3/22(日) 礼拝説教概略 ***
以前、ユースの働きについてお話をさせていただいた時にお伝えした一つのことは「信頼なくして指導なし」という事です。
信頼関係が築かれないと、なかなか指導のことばが届かないのです。
仮にある人が全部正しいことを言ったとしても、その人に対して信頼がなければ、何を言っても受け取ってもらえないと思います。
でも、反対に深い信頼関係があるならば、先が見えない中でも、その人のことばに従って躊躇なく行動できるのではないでしょうか。
以前、ユースの働きについてお話をさせていただいた時にお伝えした一つのことは「信頼なくして指導なし」という事です。
信頼関係が築かれないと、なかなか指導のことばが届かないのです。
仮にある人が全部正しいことを言ったとしても、その人に対して信頼がなければ、何を言っても受け取ってもらえないと思います。
でも、反対に深い信頼関係があるならば、先が見えない中でも、その人のことばに従って躊躇なく行動できるのではないでしょうか。
2020/03/15
レビ記6章8-13節「祭壇の火を燃え続けさせる」
*** 3/15(日)主日礼拝 説教概略 ***
レビ記6章8-13節「祭壇の火を燃え続けさせる」
今日のみことばは、今の時ほど心に染る時はないように思えます。
祭壇の火を燃え続けさせること。
この火は消してはいけませんでした。
レビ記6章8-13節「祭壇の火を燃え続けさせる」
今日のみことばは、今の時ほど心に染る時はないように思えます。
祭壇の火を燃え続けさせること。
この火は消してはいけませんでした。
2020/03/08
ルカ18章35-43節「惨めな人生から喜びの人生へ」
ルカ18章35-43節「惨めな人生から喜びの人生へ」
コロナウィルスは、コウモリやラクダなどにおもに感染するウイルスだそうです。今回もコウモリが感染源ではないかという情報もありますね(現時点では正確なことはわかっていないようです)。どちらの動物も聖書に記載があります。レビ記11章では、興味深いことに「食べてはいけない動物」として分類されています。おそらく昔からこれらの動物は体内に様々な病原菌を宿す動物だったのでしょう。当時のイスラエルの民が、神様の教えに従って歩むことで、これらのウイルスから守られたのだと改めて思わされます。
2020/03/01
レビ記6章1-7節「赦しとつぐない」
レビ記6章1-7節「赦しとつぐない」
おそらく多くの教会で、メッセージの導入部はコロナウィルスの話題が語られているのではないでしょうか?私たちもコロナウィルス対策はしっかりと行うべきと思いますが、対策が必要なのは何も肉体面だけのことではありません。私たちの大きな課題は、「心の中のウィルス」をどう取り扱うかという問題ではないでしょうか。2020/02/23
Ⅰコリント12章25-31節「人が生かされる教会」
第一コリント12章25-31節 「人が生かされる教会」
国、国家において最も大切なものは何でしょうか?
財力でしょうか。武力でしょうか。組織や制度でしょうか。
私はいつでも「人」だと思うのです。人材こそ国家の宝であり、人の良し悪しこそがその国の力だと思います。
もちろん教会も同じです。どんな教会を目指したいかと問われるならば、「人が生かされる教会」を目指したいと申し上げたい。もちろん神の栄光が現される教会とか、神のみこころを行う教会といったことは大前提です。どこの教会でも神の栄光が現れることや神のみこころを行うことは掲げていることでしょう。
でも、「人が生かされているか」と問われるならば、そうではない教会も多いのではないでしょうか。
このサンライズチャペルもその点でもっと良くなる必要があります。
なぜなら、神様がそれを望んでおられるからです。主なる神様は全知全能ですから、おひとりで何でもできますが、ご自身のかたちとして造られた人を用いて栄光を現そうとなさっているからです。
この罪の世は人を生かせていません。むしろ人を潰し、人を倒れさせます。人を排除します。私は罪とその結果である滅びに解決をもたらす十字架の救いの上に立つキリストの教会こそ、人を最も生かす場であるべきだと心から信じています。
ここに来たら人がキリストと出会い、新しい人生を生き始められる。弱り果てて希望を見失っている人でも、ここに来たらイキイキと輝いていける。その人のうちに与えられている可能性、神の賜物が見出され生かされていく。そのようにして神のご栄光が現される教会です!
そういう教会を目指したいと思いませんか?
そのためには、今このみことばを聞いている私たちひとりひとりが、自分のためにではなく他の人のために献身していく者とされていく必要があります。
互いに献身し合う群れです。神様のみことばに従って、喜んで自分を与える者とされていくとき、人は互いに生かされていきます。みことばを通して人が生かされる教会となる道を学びましょう。
1. からだは生きている
それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いのために、同じように配慮し合うためです。一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。 あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。
(Ⅰコリ12:25-27)
教会はいつでも「キリストのからだ」と表現されます。
クリスチャンの集まりは、人間のからだのイメージで語られているのです。
そこにどんな意味があるのでしょう?
第一に「からだ」というのは「生きている」のです。
血が通い、酸素が運ばれ、つながっており、連動しており、いつでも一体で、一緒になって生きています。単独で指を一本ここに切って置いておくとどうなりますか?その指も爪も欠陥も神経も全部生きることができません。からだはお互いの存在によって支え合い、お互いの存在によって生かされるように設計されているのです。
このみことばにあるように、各部分が互いのために配慮しケアし、一緒に苦しみ一緒に尊ばれ、一緒に喜び一緒に生きる。
ですからお互いに無関心で、交わりがないとどうなるか・・・
この「からだ」は生きないですよね。
またサッカーの話で恐縮ですが、わかりやすいので用いたいと思います。
現在スペイン一部リーグで18才の久保選手が活躍しています。しかし、日本人に対する差別は少なからずあり、なかなか彼にパスが回されないという現実を多くの解説者やファンは指摘しています。どんなに才能があっても、パスが回らない、信頼して任されない、助けてもらえない状況では力を発揮できないのがサッカーです。
しかし、直近の試合では多くのパスが回ってきて、1ゴール1アシストの大活躍をしました。
それは教会がキリストのからだであることと似ています。
からだはお互いの協力なくしては、お互いに生きないのです。
絆がなければ、愛の交わりでつながり、祈り合い支え合わなければお互いが生きないのです。
イエス様は私たちになんとおっしゃったのでしょうか?
「愛されなさい」と言われたでしょうか?
いいえ。
イエス様は「隣人を愛しなさい」と言われたのです。「互いに愛され合いなさい」と言わず、「互いに愛し合いなさい」と言われたのです。
口をあけて愛されるのを待っているのではなく、自分から愛していくことこそ神様の願っていること。みこころです。「愛して欲しい、待っています」という人ばかりの集まりでは、お互いに生きることができないでしょう。
クリスチャン総活躍教会でありたいと願います。
それは全員が奉仕しなければならないといった忙しい教会という意味ではありません。
それぞれのペースで、それぞれの賜物をもって、お互いを生かし合うという意味です。
ただ、孤立して、声を掛けられる人もなく、居場所も持てずに過ごす教会生活にしたくないのです。
互いに友となりたいのです。
案外牧師は教会で友達を得られないと言われます。立場的に難しい面がありますよね。
でも、私はあえて、皆さんの友でもありたいと願います。
アブラハムが神の友と呼ばれ、イエス様が弟子たちを「友」と呼ばれたのですから、牧師と信徒も深い友情で結ばれ互いに支え合ってもいいではありませんか。
そして、信徒同士も個人情報云々とばかり言わず、そしてまだ信者でない人も含めて、友だちになれる教会でありたいと思うのです。
SNSで個人情報を隠してつながり、面倒なことがあるとすぐ切ってしまう友ではなく、しんどい時にこそ寄り添い泣いてくれる友が、私たちには必要です。
2. 互いに違う役割を担うが欠けていい部分はない
「キリストのからだ」と表現されている意味の第二のことは、互いに違う役割を担うが、欠けていい部分はないということです。
体には欠けて良い部分などありません。
しかし、しばしば私たちは互いに比べ合ってしまいます。
他の人がとても仲良く見え、楽しそうに見え、自分はその交わりの中にいないように感じます。
あるいは、自分などいなくても何も変わらないのではないかと思うこともあるでしょう。
確かに誰か一人がいないからと言って、それで動けなくなるようでは困ります。でも、その一人がいないことは「痛みを伴うこと」をお互いに忘れないでいたいのです。
26節に一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しむとある通りです。そしてお互いの違いを否定し合うのではなく、尊重し合いたいのです。神様が個性を与え、異なる賜物を与えておられるのです。
28 神は教会の中に、第一に使徒たち、第二に預言者たち、第三に教師たち、そして力あるわざ、そして癒やしの賜物、援助、管理、種々の異言を備えてくださいました。29 皆が使徒でしょうか。皆が預言者でしょうか。皆が教師でしょうか。すべてが力あるわざでしょうか。30 皆が癒やしの賜物を持っているでしょうか。皆が異言を語るでしょうか。皆がその解き明かしをするでしょうか。
私たちは自分と違うということを否定的にとらえることがなんと多いことでしょうか。
しかし、朝型の人と夜型の人がいることによって、24時間、社会が支えられているのです。細かいことに気づける人がいるので、全体を見渡せる人が安心して動けるのです。皆が同じタイプでなくていい。話すのが得意な人ばかりじゃなくていい。団体行動が得意な人ばかりじゃなくていい。静かに一人で過ごすのが好きな人もいるから、そういう人も安心して教会に来られる。賜物に優劣があるわけではない。
他の人の賜物を自分のことのように喜びましょう。あの人は歌声がすばらしい、自分はそれに比べてダメだなと思うのではなく、あの人の歌声のおかげで「私たちの賛美はすばらしいものとされている」と自分のこととして喜ぶのです。
なぜなら、私たちは同じキリストのからだなのですから。
あのデザインのセンスはすばらしい。自分にはない、悲しいと思うでのはなく、「あの人の賜物が生かされている私たちの教会のチラシはすばらしい!いいでしょ?」と自分のことのように胸を張ればいいのです。
これらを実践するために、共通して全員が求めるべき大切なものがあるとパウロは教えます。それは最も大切で、最も優れていて、誰もが追い求めるべきものだと。
12:31 あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。私は今、はるかにまさる道を示しましょう。 よりすぐれた賜物、はるかにまさる道。それは何でしょうか?
3.愛を追い求めること
続く13章全体は「愛の章」と言って良いでしょう。山をも動かすほどの信仰があろうと、愛がなければ意味がないとバッサリ切り捨てるほど「愛」の重要性を説いています。
結局どんなに良い説教がなされ、魅力的な会堂があって、いい音楽があって、楽しいプログラムがあろうと・・・結局愛がないと人の心は満たされません。
愛のある教会を目指したいのです。一人ぼっちの人がいないように。さみしい思いをする人がいないように。自分がその一人ぼっちなのだと思うなら、自分からも声をかけ友になる。
あきらめずに愛を追い求めてください。
13章13節-14章1節 いつまでも残るもののうち、一番すぐれているのは愛。
「愛を追い求めなさい。」
人々がここに来て生かされるようになる教会になるには、愛が必要不可欠です。
伝道・宣教=イベントをやって人がたくさん来て終わり。プログラムだけではなく、もっと人格的なものである。良い建物があり、良いプログラムがあり、美味しいご馳走もあるかも知れない。でも、それでは伝道とは言えないのです。それは宣教ではない。
肝心なのは「人」です。その建物にいる人々であり、そのプログラムを行っている人であり、美味しい物を作り提供する人々が大切です。何より、愛をもってひとりひとりがなしていくことでしょう。
人格的な宣教です。
「キリストの愛に根差して宣教する教会」という理念を私たちの教会は掲げています。
一方的に伝えて満足するものではなく、その人を愛し、友となり、一緒に歩んでいく教会でありたいと思います。イベントで宣教するのではなく、愛の交わりで宣教するのです。
ぜひ、神様のみこころに生きて、愛の交わりを築き、「人が生かされる教会」を目指していきましょう。ここから世界に人が生かされる「愛」を発信していきましょう。
2020/02/17
レビ記4章1-12節「罪のきよめのささげ物」
レビ記4章1-12節「罪のきよめのささげ物」
罪のきよめに必要だった「ささげ物の教え」から学びます。
前回もお話ししましたが、ここに語られている儀式自体は、すでにキリストの十字架に取って代わられたものであって、現代の私たちがするものではありません。
2020/02/09
Who are you? あなたは何者か?
自分が何者であるのか?どういう存在なのか?知っているようで知らない私たちです。
なぜでしょうか?
人は自分の姿を見ることができないからではないでしょうか。
他の人の姿はよく見えます。でも、自分の表情や自分の立ち振る舞い、全体像。
それらは見えないのです。鏡や映像を通してしか自分が見えません。
最近は、そうしたことを考えると神様はあえて私たちをそのように造られたのではないかと思うのです。自分の力で自分を知りつくすことができない者です。そうなるとどうやって自分をより深く知るのでしょうか?
2020/02/02
レビ記3章 「神との交わりを楽しむ」
レビ記3章1-17節
旧約聖書のレビ記を味わいますが、この書が記されたのは、今から3000年以上も前のことになります。旧約とは名前の通り古い契約です。ですから、新しい契約つまり新約聖書によって「更新」されていますので、現代の私たちはこの通りに実行するわけではありません。2020/01/26
ルカ18章31-34節 「十字架の予告」
ルカ18章31-34節 「十字架の予告」
子育ての学びのテキストにこのようなことがありました。
小さな子どもであっても、あらかじめ予定を伝えてあげることが、その子の人格を尊ぶことになるという内容です。
急に出かける!というのではなく、何時になったらお出かけするから、その前に準備できるようにしましょうと。これから起こること、これからしようとしている事をあらかじめ相手に伝えておくというのは、相手への敬意であり信頼の証しであると思います。
イエス様も弟子たちに対して、彼らがなかなか理解できない(あるいは理解しようとしない)にも関わらず、大切なことを分かち合い予告をしておられました。
そして私たちに対しても神様は、聖書を通して神様のご計画を伝え、しっかり信じて備えるようにと語り続けておられます。そこにどんな神様のお心があるのでしょうか。十字架の予告をなさったイエス様と弟子の姿から教えられます。
1. 理解できない弟子
イエス様はずっと聖書に預言されてきたことが、いよいよ実現することを弟子たちに告げました。今日の場面では、イエス様が人々からどのような苦しみを受けて死んでいくのかをハッキリと語っています。
32節 人の子は異邦人に引き渡され、彼らに嘲られ、辱められ、唾をかけられます。33節 彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」
キリストの十字架は突然訪れた出来事ではありませんでした。思いも寄らぬ急な出来事ではなかったのです。キリストは十字架の苦しみを知った上でそこに向かって歩んでおられました。自分の歩む先に恐ろしい苦しみが待っている。孤独、痛み、侮辱、死が待っている。それをわかった上で、そこに向かって一歩、また一歩と進んでいかなければならない。崖がそこにあるのに、そこに向かって進む使命のようです。
そこに、どれほどの心の戦いがあることでしょうか。
イエス・キリストはご自身が弟子に裏切られ、不当な裁判を受け、暴行され、罵倒され、侮辱されることを具体的に知っておられました。
罪人を救うため、辱めを受け十字架で無残に殺される事実です。
弟子たちからすると耳を疑うような内容です。
34節にあるように、残念ながら弟子たちはイエス様のおっしゃっている真意を何一つ理解できなかったのです。なぜなら、弟子たちが期待していたのは、イエス様が権力のある王・英雄として勝利することでした。ローマの支配を力で打ち砕き、ユダヤ人の王国を再建することでした。今の弟子たちには、イエス様がこのような苦しみに遭うとは、全く理解できないことだったのです。
弟子たちのこの無理解な姿は、私たち自身の姿に重なります。しばしば私たちは自分の先入観や勝手なイメージを持って神のことばを聞くことがあるのではないでしょうか?
以前、ある方が証しをしてくださいました。
自分は神様に対する勝手なイメージを強く持ちすぎていた。そのために勝手に神様に失望していたと言うのです。
しかし、ある時気づかされたのです。自分が失望した理由は、神様を知らな過ぎたからだと。自分が勝手に「神様はこういうお方だ」と決めつけることで、その「自分の神イメージ」と本当の神様の姿が大きく異なることによって、勝手に失望していたのだと。
弟子たちがイエス様の道を理解できなかったのと似ていますよね。皆さんも勝手に自分を物凄くいい人にイメージされると「しんどい」のではないでしょうか?何を言っても怒らない人だとか、聖書のこともなんでも知ってると思われたら困りますよね。
また、私たちは自分の心配に大量の時間とエネルギーを注いでいますが、主イエス様の友(協力者)として歩むことにどれほど心を注いでいるでしょうか?
弟子たちが理解できなかった背景にも、主イエス様への関心よりも自分自身への関心が強かったことが影響していたと言えるでしょう。
マタイ、マルコの福音書では今日の記事のすぐ後に、イエス様の王座の右と左に座らせて欲しいといった弟子のやりとりがあります。自分の立場に強い関心があったと言えます。
そうではなく、イエス様に目を向けたいのです。
主イエス様はご自身が苦しいはずなのに、ご自分のことではなく弟子たちを思われました。かえって弟子の信仰を心配し彼らが倒れてしまわないようにと気遣ってくださいました。本来ならば、弟子たちこそは主イエス様の苦しみをよく理解し、良き助け・良き励まし、良き協力者になるべきですよね?
「キリストの苦しみを少しでも担いお手伝いしたい。」と思うべきです。
けれど、実際はどうだったでしょうか?弟子たちは自分の心配ばかりです。だから弟子たちはイエス様のことばを少しも理解できません。しかし、キリストはいつでもご自分のことを後回しにして、目の前の一人を愛しておられます。
2. 理解できない弟子なのに
では、このように理解できない弟子たちに、なぜ主イエス様は、ご自身の十字架の苦しみについて話されたのでしょう?
私たちがイエス様の立場ならばどうでしょう?理解できない弟子たちに話をしたところで、時間の無駄だと思うのではないでしょうか?なぜイエス様は彼らが理解できないにも関わらず、前もってこれを語られたのでしょうか?
それは、イエス様が弟子たちを愛しておられたからです。理解の遅い、未熟な弟子であることは重々承知の上です。それでも弟子たちを友として愛し、一緒に歩みたいと願う。だからこそ、分かち合ってくださるのです。
もちろん、そこには弱い彼らがつまずかないようにとの配慮もあったでしょう。備えのためであり覚悟をもって歩んでほしいからでもあったでしょう。
しかし何よりも、頼りない弟子であっても、主イエス様は彼らを大切な友、大切な仲間だと尊んでくださった証拠なのではないでしょうか。「どうせわからないから伝えない」というのではありません。やがて真理を理解する者となれると期待して、愛のゆえに忍耐深く伝えているのです。
今ここにおられる皆さんに対しても同じようにイエス様はお考えのはずです。
いつでも主は、私たちを「神の協力者」として期待し信頼を置いてくださっているのです。
神様からみれば、私たちはいつも「わからずや」です。神様のお心をなかなか理解できません。しばしば的外れであり、文句ばかり言います。
神様がおひとりでぜーんぶやった方が早くて完璧なのです!それでも神様は私たちに語る事をやめません。愛するわが子と思ってくださっているからです。
ある家のお父さんと小さな息子が飼っている犬の小屋を一緒に作ることになりました。息子は金槌を持つのも初めて、ノコギリも初めて。経験のあるお父さんが全部やった方が早いし綺麗にできます。でもお父さんは息子のために一緒にやるのです。慣れない手つきの息子に注意を払いながら一緒に小屋を作ります。未熟な息子の作業は欠けだらけです。ギザギザになっている部分、歪んでいる部分をお父さんが息子のプライドを傷つけないように繕いながら・・・。かえって大変です。こんな事なら一人でやった方が・・とも思うことでしょう。それでもお父さんは息子と一緒にこれを作ることを大切にしました。息子はまるで自分がやったかのように、ママ、ぼく犬小屋を作ったんだよと誇ります。息子はお父さんの役に立てた!自分にもこんな良い働きができたと思うのです。お父さんはそんな息子の笑顔を見て、一緒にやって良かったと心から思うでしょう。
神様が未熟でわからずやな私たちをパートナーとしてくださるのは、まさにこのお父さんのようです。自分でやった方が早いし完璧です。でも、神様の願いは愛するわが子と一緒にやることです。だから、前もって伝え、何度も伝え、ともに歩んでくださるのです。
旧約時代はそれこそ、一体何人の預言者が遣わされたことでしょうか?数えきれないほど遣わされ、何度となく神様は御心を伝え続けました。悔い改めず、忠告を無視することを繰り返しているのに。何度も何度も。
アモス書3:7 まことに、神である主は、ご自分の計画を、そのしもべである預言者に示さずには、何事もなさらない。
神様は勝手になさる権利がある。人に断りを入れる必要さえない。しかし、主は私たちに語りかけ伝えてくださるのです。あなたを神の協力者、パートナーとして選んだのだと。
今日、神様はあなたに語っておられます。「わたしがあなたを選んだのだ。だからわたしはあなたに隠さず語る。真理を伝える。あなたに知ってもらい、あなたと共に神の国を築き上げたいのだ」と。今日の弟子たちの姿のように、神のみこころを全然理解できていない私たち。自分が一番かわいい自己中心な私たち。臆病で心配症で怖がりです。
でも、主なる神様はそんな私たちに「あなたが必要だ」と親しく声をかけてくださるのです。
主なる神様のこの声に聞いてどう応答するでしょうか。十字架の苦しみを弟子たちに分かち合われたイエス様のお心、それを少しでも理解できる者にならせていただきましょう。それが本当の弟子への道ではないでしょうか。
2020/01/19
レビ記2章 「穀物のささげ物 ~礼拝者の姿勢~」
レビ記2章 「穀物のささげ物 ~礼拝者の姿勢~」
祈祷会にて「恵みに対してアンテナを張り巡らせて、あらゆる物事(本、テレビ、スポーツ、遊び)から豊かに恵みをキャッチしましょう」とお話をしました。
スマホ、携帯に馴染んでいる方には「恵みのアンテナを全部立てましょう」の方がしっくりくるでしょうか。
2020/01/12
天の宝を所有するために、今をどう生きるか
イエスはこれを聞いて、彼に言われた。「まだ一つ、あなたに欠けていることがあります。あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」(ルカ18:22)
すべての教えを守って来たと誇る金持ちの指導者がいました。彼は自分こそ永遠のいのちを得るにふさわしいと思い込んでいたのでしょうか。律法の戒めは、少年時代からすべて守ってきたと豪語しました。
しかし、イエスはあなたに足りないものがあると言われます。
それはあなたの多くの財を売り払い、貧しい者たちに分け与えよという指導でした。それは彼が無一文になることを命じるというよりも、彼が富に支配され、手放せない弱さを持っていたからです。
彼の周囲には、今日食べる物にも困り、餓死していく兄姉がたくさんいたはずです。あり余るほどの富を持つ彼が、そうした人々のために神からあずけられている財を全く用いようとしないところに、彼の自己中心の姿がありました。お金ばかりを愛し、神と隣人を愛するという姿勢が決定的に欠けていたのです。
彼はこのことばを受け入れられず悲しみにくれました。
神の代わりに富を第一としていたからです。
「永遠のいのち」という神の国の富は、この世の富を正しく管理する者にこそ任される大きなものです。この世の消え去る小さな富を忠実に管理できない者に、神はより大きな永遠の富を任せることはなさいません。
富に支配され虜になるのではなく、富を神のみこころに沿って正しく管理し、豊かに用いて恵みを増やし、天に永遠の宝を持てる者とさせていただきましょう。
実に、そのようにして任されている財を神のみこころに沿って用いるのならば、神はその人にこの地上においても「何倍も」報いてくださいますし、天においても宝を豊かに備えておられるのです。
2019/12/29
感謝!意味のない苦しみはない
哀歌3章31-33節「感謝!意味のない苦しみはない」
「本物の感謝は成功の連続の中では生まれて来ない」
年を経るに連れて、その思いが強くなっています。
自分自身も多くの失敗や挫折を味わい、また多くの人と出会い話を伺えば伺うほど、そう感じるのです。
痛みや苦しみを通った方の「感謝」のことばには、やはり重みや深みを感じるのです。皆さんはどうでしょうか?
何もかもがうまくいっている時も感謝でしょう。けれども、目の前に起きている良いことを喜ぶのは当然なのですから、その感謝は聖書信仰なしでも可能な感謝でしょう。
しかし、キリスト者の特権は、「人の目には感謝することが難しい状況」を、神様によって感謝させていただけることです。一年を振り返る時に、良いことばかりのはずがありません。それでもなお、私たちが神様に感謝する理由は、あらゆる出来事の中に主なる神様の御手があるからです。
神を知らない人は、「嫌なことは忘れよう」と考えます。しかし、神を知る者は、嫌なこともまた神の御手の中で起こっていることを受け止めるのです。神を信じる者にとって、様々な試練や困難は、偶然起こっていることでもなく、神様が悪意をもって意地悪しているわけでもないと知っています。むしろ、その困難を通して、私たちが神を知って幸いな者になれるようにと神様が備えたもの。
イスラエルにヒゼキヤという王様がいました。彼は死の病にかかり、もう死ぬと言われました。けれども、彼の祈りを聞かれた神様が奇跡によって「15年」いのちを延長してくださったのです。そしてこのヒゼキヤ王が病から回復したときに、彼は神をほめたたえて言いました。その一部。 イザヤ書38:17 ああ、私の味わった苦い苦しみは平安のためでした。味わった苦い死の恐怖の苦しみは、自分が神を求めて平安に至るためのものだったと言うのです。生きていることが当たり前だと感じる日々に、「生かされていることへの感謝」は生まれません。むしろ生きていることが辛いとさえ思えるかも知れません。しかし、ヒゼキヤ王のように、死が目前に迫る経験を通る時に、今生かされている恵みに気づくのではないでしょうか。
本日は、皆さんに「感謝の達人」になることを提案したいと思います。
達人への道は・・・
初級:これは当然に感謝すべきことを感謝すること。何かをいただいたり、助けてもらった時、親切にしていただいたら感謝をする。この当然のことさえもしないようなら礼儀知らずですね。皆さんはそんなことはないでしょう。
中級:これは自分の手柄にしそうな時に、神様や人に感謝できるようになること。健康が支えられている時に、自分の日々の鍛練のゆえだけでなく、神様の守りや家族の支えなどがあること。テストで良い点を取ったとしても、それは健康が守られ集中できるよう支えられ、苦手な問題ばかりとならず神様が守ってくださったと感謝する。
上級:これは健康を害しても、テストの結果が芳しくなくても、そこに神様の恵みを見出し、試練や困難などにおいても主に感謝すること。人の目に感謝が困難な時にも、神様のゆえに信仰によって感謝すること。
上級までいけば、達人ですね!
3:31 主は、いつまでも見放してはおられない。 しばしば、神様が自分を見放してしまったのでは?沈黙されているのでは?と苦しみのあまり思い込むことがあるのではないでしょうか。確かに神様は、時に私たちにあえて試練をお与えになります。そして、私たちが試練によって大切な事を学べないのは非常に残念ですので、あえてしばらくの期間私たちに手を差し伸べないのです。ただ、それは厳密には見放しているのではありません。神様はその間も決して私たちを見捨ててはおられません。
イザヤ書にこうあります。49:15 女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとえ女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。
母親が乳飲み子を忘れるだろうか?自分のお腹の子を大切にしないだろうか?そんなわけはない。いや、彼女たちが忘れることがあってさえも神様は決してあなたを忘れないと言われるのです。神様は私たちを決して忘れることがありません。一瞬たりともありません。私たちが寝るのも、起きるのも、その間もずっと見守っておられる。だから、私たちは睡眠中無意識でも心臓が止まらず守られて朝目覚めることができるのです。夜中、心臓が止まるのでは?肺が機能しなくなるのでは?と心配せずとも休めるのは、神様が見張っていてくださるからです。そんな神様ですから、意味もなく私たちを苦しみに合わせることは決してありません! 32 主は、たとえ悲しみを与えたとしても、その豊かな恵みによって、人をあわれまれる。33 主が人の子らを、意味なく、苦しめ悩ませることはない。
なんという嬉しい真実でしょうか。悲しみには必ず神の恵み、あわれみが共にあるのです。意味なく苦しみだけを与えることは決してない。これが愛の神様のなさることです。
ところが、私たちの肉の心が望むものは、なんの苦労もなく平和で穏やかな日々です。失敗もせず、挫折もせず、病にもならず、他人が自分の思い通りに動いてくれる。自分が欲しいことば、自分が言われて気持ちいいことばを言わせたい。世界を自分の望むままに!
しかし、それは「自分を神に仕立て上げる」事。自分を神にする=これこそ偶像礼拝の究極形です。高慢の罪の極致。
この罪は私たちを滅ぼします。ですから、時に神様は私たちを砕かれるのです。苦しみを通して私が何者であるかをゼロから教えてくださるのです。
私自身も様々な困難を通らされた時、本当に苦しく過酷でした。けれども、それがなければ今の私はありません。この会堂も私たちの目標通りにはなりませんでした。2009年にそこから5年以内を目標にとしましたが、随分時間がかかってしまいました。けれど、目標通りになっていたらと想像すると恐ろしいです。建物は立派になっても、中身は成長しないままだったことでしょう。
辛い過去、苦しい過去もまた、今の私になるために必要かつ大切な過去なのです。なければ楽だったかも知れません。でも、それがあるからこそ、神様の懲らしめ、慰め、あわれみ、助け、みわざを経験できたのです。
病にならなければ多くの人に祈られる経験もできません。落ち込まなければ、兄姉や神様の励ましがどれほど嬉しくありがたいものかを知ることもできません。
今のあなたは良い経験だけで成り立っているのではない。苦しいことも、悲しいことも含めても、それを経たからこそ今の自分がいるのです。
私たちにとっては喜ばしくない過去も大いにある。後悔しかないという事や、深い傷を負わされた出来事。思い出すたびに怒りがわいてしまうことや、思い出すことも辛い過去もある。
ただ、知るべきことは、それらの過去もまた意味があるということです。
そうした過去の出来事を変えることはできません。けれど、過去をどう受け止めるかは変えられるのです。否定的な感情で見て来た過去を、神様の恵みの視点から買い戻すことができるのです。
33 主が人の子らを、意味なく、苦しめ悩ませることはない。
これが真実です。苦しみ悩んだことには、必ず神様からのメッセージがあります。
私は3年近くLINEというスマホアプリで聖書メッセージを毎日配信してきました。今は760名ほどです。しかし、LINEのサービス改変によって、同じことをしようとすると3倍の値段がかかるようになると通知が来ておりました。
せっかく続けてきたのに・・・祈って祈って、それでも答えが見つからず・・・
もう続けられないと思いました。
そこで最終的に決断し、事情説明と共にこの働きを終えることを皆さんに通知したのです。
とても悩み、とても残念気持ちでおりました。
苦しい決断でした。
しかし、その後、何名もの方から連絡がありました。
読ませてもらっていてぜひ続けてほしいと。
中にはお会いしたことがないような方からも!そして、継続できる献金をいただき、またさらに協力してくださる方が起こされつつあります。
神様が意味もなく私を苦しみ悩まされることはない。まさにそうだと教えられました。
私は神様に噛み付いていました。「なぜ、こんな妨げを許されるのですか?神様から示され、多くの人の救いや励ましのためにしているのに!みこころにかなう働きじゃないのですか?」と。
でも、何の問題もなく続けられていたら・・・この方々の思いを知ることができませんでした。この励ましを受けることも、神様のみわざを味わう機会もなかったでしょう。
この一年、様々な困難、苦しみも通られたことでしょう。今もなおその最中かも知れません。しかし、神様の手が届いていないものはありません。意味なき苦しいなど一つもありません。それを知る時に、なんとありがたいことでしょうか。私たちを愛してやまない神様が、その苦しみを私たちを幸せに導くために備えておられるのです。感謝!
2019/12/22
捜して救う神
イエスは彼に言われた。「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」(ルカ19:9-10)
今、もしあなたが、肩書も財産も体力も見栄えのする容姿も失ったとしたら・・・それでもあなたを見捨てないで、あなたとともに歩みたいと言ってくれる人がいらっしゃるでしょうか。
私たちは見捨てられ不安をいつも抱えながら、人々から自分の価値を認められたいという承認欲求を抱きながら「いいね」の数を気にして歩んでいる者たちではないでしょうか。
さらに、私たちの心には人には見せられない暗闇が誰にでもあります。
私たちの闇までも知った上で、なお私たちを愛し受け入れてくれる存在があるでしょうか。
イエス・キリストこそ、まさにあなたのすべてを知り、あなたの付属品なしに「いいね」をくださるお方です。
神の愛から離れ孤独な自己愛に生きている者たちを、神は「失われた者」としてあわれみ、捜し出し救ってくださる愛のお方です。
そのために御子キリストが十字架にいのちをささげられました。
この神の永遠に変わらない無条件の愛こそが、真のクリスマス・プレゼントなのです。
むなしく消える物でなく、永遠の贈り物をぜひ受け取ってください。
2019/12/15
心を分かち合える友を得る
それから、マリアは立って、山地にあるユダの町に急いで行った。そしてザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつした。(ルカ1:39-40)
未婚で男性を知らない処女が、神の聖霊によって救い主を妊娠した。
マリアの身に起こったこの出来事はあまりにも驚くべきことで、他の人々には理解されがたいものでした。
しかし、神はにわかには信じがたい奇跡を経験し、それを信じるに至っている親類のエリサベツを良き理解者として備えていました。
ですから、マリアはそれを知りエリサベツに急いで会いに行ったのです。
マリアは決して孤独ではありませんでした。
エリサベツは一切疑うことなく、マリアの身に起こったことを理解し受け入れ、むしろ幸いなことだとマリアを励ましてくれたのです。
誰にも理解してもらえない。そんな孤独が私たちを絶望させることがあります。
しかし、信仰生活は孤独な戦いではないのです。
ともに喜びともに悲しむ交わりによって歩むもの。分かち合い祈り合って歩むものなのです。
キリスト者の強さは個人の信仰の強さではありません。
私たちの弱さを知った上で導かれる主と、重荷を一緒に担う信仰の友たちの存在によって強くしていただけるのです。
神はそのような友をあなたに備えておられます。
あなた自身もまた、他の人にとって心を分かち合える友となっているか?問われるのではないでしょうか。どうか、私たちひとりひとりが、神が望まれる良き友となれるよう神の愛を学び、みことばをもって人と関わる者とならせていただきましょう。
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