東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ルカ18章35-43節「惨めな人生から喜びの人生へ」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2020/03/08

ルカ18章35-43節「惨めな人生から喜びの人生へ」


ルカ18章35-43節「惨めな人生から喜びの人生へ」


コロナウィルスは、コウモリやラクダなどにおもに感染するウイルスだそうです。今回もコウモリが感染源ではないかという情報もありますね(現時点では正確なことはわかっていないようです)。どちらの動物も聖書に記載があります。レビ記11章では、興味深いことに「食べてはいけない動物」として分類されています。おそらく昔からこれらの動物は体内に様々な病原菌を宿す動物だったのでしょう。当時のイスラエルの民が、神様の教えに従って歩むことで、これらのウルスから守られたのだと改めて思わされます


ある兄弟が分かち合ってくださいましたが、アメリカの医療従事者の統計で、教会に通う人とそうでない人の寿命の調査があったそうです。それによると平均寿命で7年、教会に通う人がそうでない人より長かったそうです。

聖書から人生を学び、知恵をいただき、心に励ましをいただいて生きる。その違いが現れているのだと思います。

困難な時だからこそ、信頼できる主のみことばに親しみ、キリストの十字架をますます近くで仰ぎ見て強められながら歩んでいきましょう。 

さて、今日みことばに登場するのは一人の盲人で。彼はイエス様が来られたのを知り、どのようにイエス様を求めたのでしょうか?イエス様はどのように応じられ、そこに何が起こったのでしょうか?


目が見えない彼はおそらく普段から道端に座って物乞いをする生活です。当時の盲人は、十分に学ぶ機会もなく教養も得られませんでした。差別と偏見に囲まれ、知識を得る機会もなく、人々からの施しで生きて来た人生。それは彼にとって「惨めな人生」であったことでしょう。

しかし、イエス・キリストを求める時、すべてが変わります。惨めな人生から喜びの人生へと導かれました。

彼は目が見えない分、音には敏感だったことでしょう。いつもとは比べものにならないほど多くの人がやってくる足音を聞いて、何事かと疑問に思い尋ねたのです。彼が聞いた情報では、ナザレ人イエスが目の前を通るのだというもの。情報自体は多くありません。しかし、この盲人にはそれで十分でした。彼はイエス様を呼び求め始めたのです!

38 彼は大声で、「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください」と言った。

 目が見えませんから、イエス様がどのあたりにいるのか。遠いのか近いのか。具体的にはわかりません。ですから聞こえるように大声で言ったのでしょう。しかし、これに気づいて迷惑がる人もいました。幾人かの人たちは彼を黙らせようとしたのです。

39 先を行く人たちが、黙らせようとしてたしなめたが、その人はますます激しく「ダビデの子よ、私をあわれんでください」と叫んだ。 

彼は注意され、怒られてしまったわけです。人々から注意され怒られれば、そこでやめる人が多いでしょう。私たちもたしなめられたら、心が折れて「もういいや」となる事が多いのではないでしょうか。「潔い」と言えばそうなのですが、あっさり引き下がるべきでないこともあると思います。

少なくともこの盲人は、この機会を逃したらもうイエス様に会えないかも知れない、今しかないと思ったのです。

だから注意されてもイエス様に叫ぶのをやめず、それどころかますます激しく「ダビデの子よ、私をあわれんでください」と叫びました。

実に38節のことばよりも、39節のことばは強さ、激しさを増しています。39節のことばは強い半狂乱のような獣のような叫びに用いることばです。それだけ彼は必死にイエス様を呼び求めたのです。もはや他の人の反応などどうでも良かったのです!



私たちは問われます。彼のようにイエス様を求める姿勢があるだろうか。彼のような情熱があるだろうか?他の人が止めたらあきらめる。それは確かに「聞き分けの良い優等生」です。波風立たせずに生きる道です。

一方でそこに「情熱」はあるのでしょうか?

情熱は英語で「passion」ですが、「passion」には「受難」という意味もあります。興味深いなと思います。

Passion of JESUS CHRIST」という映画がありました。「イエス・キリストの受難」とも、「イエス・キリストの情熱」とも訳せます。

映画を見た者としては二つの意味を持たせているように感じました。

私たちが真剣に「情熱」を傾けるのならば、それに伴う「受難」が必ずあります。
この盲人が情熱的にイエス様に叫んだことで、たしなめられるという受難が起こったように。そして聞き分けの良い優等生は確かに「受難」を通りにくいでしょうけれど、必死に神を求める「情熱」によって得られる恵みも得ることができないままかも知れません



では、イエス様は彼の半狂乱のような叫び、彼の救いを求める「passion」をどのように受け止められたのでしょうか? 

40-42節 40 イエスは立ち止まって、彼を連れて来るように命じられた。彼が近くに来ると、イエスはお尋ねになった。41 「わたしに何をしてほしいのですか。」するとその人は答えた。「主よ、目が見えるようにしてください。」42 イエスは彼に言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救いました。」 

主イエス様は立ち止まって、彼を連れて来るよう命じ、彼の求めに応じて彼の目をいやされました。主は本気で求める者を止めたりなさいません。むしろ、喜ばれたのではないでしょうか?

ですからイエス様はこの出来事を「あなたの信仰があなたを救いました」と言われたのです。いやしてくださったのは当然父なる神様です。

けれど、あえて「あなたの信仰が」と言われました。それは主を求める熱心な信仰を喜ばれたということでしょう。神様の願いは「罪を一つも犯さない完ぺきな人生を送ること」ではありません。この盲人のように、人の目など気にしないで神様を心から求めることです。


クリスマスの時に話される有名なエピソードがあります。
ある国のクリスマス。知的なハンディキャップを抱えた子が、教会の降誕劇に参加することになりました。彼は宿屋の主人の役です。一晩泊めてくださいと来るヨセフとマリア夫婦に対して、「だめだ!部屋はない」と言って家畜小屋を指さす役です。彼は一所懸命練習し、いよいよ当日を迎えました。ヨセフとマリア役の子がベツレヘムに着き、「すみません。宿をお借りしたいのですが。」と言ってきた彼は練習通り「ダメだ、部屋はない。」と言って馬小屋を指差すことができました。大人たちもほっと胸をなでおろしたそうです。ところが次の瞬間、この子はワァッと声をあげて泣き走り出し泣きながらマリア役の子にしがみついたのです

そして言いました。「マリアさん、ヨセフさん。馬小屋に行かないで。馬小屋は、寒いから。イエスさまが風邪を引いちゃうから、馬小屋に行かないで、馬小屋に行かないで」劇は中断してしまいましたが、今までにないほど感動的な劇となったそうです。

 台本通りできなかったのに、私たちはこの姿に感動を覚えます。


 なぜ感動を覚えるのでしょうか?
 

 この子のイエス様に対するまっすぐな愛を感じるからです。


 Passionにあふれているからです。


 台本通りにせよという指導も、失敗しないようにと見守る大人たちの目も、彼のイエス様に対する熱い愛を止めることができなかったのです。

 この盲人も、人々の制止の声など無意味でした。他の人は「ナザレ人イエス」だと紹介したのに、「いや違う、ダビデ王の子孫、救い主イエス様」だと信じて疑わない姿勢です。黙れ、うるさい!という声があっても、ますます叫びイエス様を求める情熱です。



見える部分に従って生きている私たちにとって、とても考えさせられる場面です。他の人の評価に流されすぎる私たちにとって、目の見えない彼の姿勢から「純粋な信仰」を教えられるとは、神様はなんと不思議なことをなさるのでしょうか。
この時イエス様のまわりにいた誰よりもイエス様の本当の姿をハッキリ見ていたのがこの盲人でした。

よく「見せてもらえば信じます」という発想を私たちは持ちます。「目の前にイエス様が現れてくれれば」と。けれど、その言い訳は通用しないことがわかります。なぜなら、この盲人は見ずに信じたからです。文字通り見えないのです。

けれど、誰よりもイエス様を見ていたのです。誰よりもイエス様を見つめていたのです。誰が止めても無意味なほどに、彼は強く叫びイエス様の前に出たのです。

こうして彼はイエス様によるいやしを経験し新しい人生に歩み出します。
43 その人はただちに見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った。これを見て、民はみな神を賛美した。 

 彼の信仰の情熱が本物だったことがここでわかります。見えるようになって終わりじゃないのです彼は神をあがめながら、イエス様について行きました新しい人生の始まりです。そこに真の喜びも感動もあったことは言うまでもありません。

 そして、この出来事によって、人々神様を賛美しました。
 今まで誰にも目を留めてもらえない惨めな人生でした。道の端っこで邪魔にならないように座り、皆さんに恵んでもらってどうにか生きる人生でした。でも、彼はこの瞬間、人々を神様へと導く、人が神様を賛美したくなる「信仰の証し」を成したのです。ものすごく大きなインパクトを与え、宣教のわざに参与したのです。彼の姿を通して、神の栄光が現されたのです。

 私たちもこの姿から教えられましょう。

 置かれた環境を嘆いていないでしょうか。

 大人しい優等生のような信仰で静かに人生を終えようとしていないでしょうか。

 イエス様を見ているようで見ていない。そんなむなしい信仰生活を送っていないでしょうか。

 イエス様が来られたのは、私たちが惨めな人生を送るためではなく、喜び溢れる人生を送るためではないでしょうか。あとは、私たちがイエス様熱心に求めるだけではないでしょうか?

むしろ、「人の目や評価に対してはまるで見えない人のように」さえなっていいのではないでしょうか?

そして「イエス様の姿に対しては、はっきり見える者、見続ける者」になりましょう。

2020.3.8 礼拝メッセージ概略

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