東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 心が騒ぐその時に
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2020/03/06

心が騒ぐその時に

心が騒ぐその時に


新型コロナウィルスのこと、日常品の品薄、経済的なダメージ、先行きの不安・・・

日々の歩みの中で、私たちは今恐れと不安に取り囲まれています。
人は恐れや不安の中にあると、防衛本能として誰かを攻撃してしまう危険も高まることを覚えていきたいものです。

 東京事変というバンドがライブを予定通りに行い、多くの批判も寄せられたようです。その後の講演は中止にするという判断をなさいました。XJAPANのYOSHIKIさんは、ファンの安全を大事に考えることを発信し、様々なイベントの中止や延期を訴えました。

東京五輪についても延期や他の場所での開催の声もあがる中、IOCは予定通り開催する意志であることを発表しています。

学校も異例の休校要請が出され、多くの学校はお休みにしましたが、一部の学校はそうしませんでした。学童はいつも通りに・・・という矛盾とも思われる要素、親が仕事で家にいない中、小学校低学年の子たちが家に一人でいる危険。大切な節目のイベントである卒業式に、親や親族が参列できない悲しさ。どれも判断が難しいものです。

教会の集会も中止にしたものもあれば、注意して行うものもあります。その判断も教会によって、あるいは各人によって異なります。


このような時に本当に注意し慎まなければいけないことは、さばき合うことです。


1. さばき合わず、受け入れ合う


どの判断が100%正しく、どの判断が100%間違っていると誰が言えるのでしょうか。
SEKAI NO OWARI というバンドの歌には、人にはそれぞれの「正義」があり、僕の正義が彼を傷つけていたといった内容の歌詞がありました。

神のことばである聖書にも、このように記されています。

信仰の弱い人を受け入れなさい。その人をさばいてはいけません。(ローマ14:1)

・・・食べる人は、主のために食べています。神に感謝しているからです。食べない人も主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。(ローマ14:6)

もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているなら、あなたはもはや愛によって歩んではいません。キリストが代わりに死んでくださった、そのような人を、あなたの食べ物のことで滅ぼさないでください。(ローマ14:15)

興味深いことに、同じ「神様のために」という視点に立っても、判断が分かれるものがあるのです。
ある事やある日を特別だとする人も神様のためにそうしていますし、ある事もある日も特別なんかじゃなく、いつも同じなのだと言う人も神様のためにそう考えているのです。

コロナウィルスの影響で一切外出をしないという人も、経済的な破綻への配慮からいつも通りに買い物をしたり、外食したりする人もいます。

自分の正義で、他の異なる正義を持つ人を断罪することについて、私たちは冷静に愛をもってよく考える必要があるのだと気づかされます。

注意をして礼拝に集う人も、この時は我慢して礼拝に集わないという選択をする人も、それぞれが神様に祈りながら、神様の御心は何だろうかと求めながら判断していると思います。一方が正しく、一方が正しくないといった考え方ではなく、神のみことばの権威に生きるならば、その判断が信仰から出ているならば、互いにさばかず認め合い、そのようにして「神の愛」とはこういうものであると証しすべきではないかと思います。


その上で、どうしても暗い気持ちになりがちな現状の中で、私たちはそこから得られる恵みにもしっかりと目を向けていきたいと思うのです。


2. 神のなさることに目を向ける


確かに困難な状況です。でも、現状はすべて悪いことだらけなのでしょうか?

その困難を通しても教えられ学ぶべきことがあり、普段考えてもいなかったことに気づかされることもあるのではないでしょうか。

普段、あまりにも忙しくて休みが取れない方が、この機会に半強制的に休みが増えて、経済的には大変だけれど、肉体的には少し楽になった。そういうケースがあるのではないでしょうか。


「コロナウィルスよりも人間の方がこわい」という記事を見かけました。

ドラッグストアの店員さんが、マスクや消毒液のことでお客さんからクレームや嫌味を言われ、一日に何度も何度も謝罪をする日々だそうです。頑張ってもどうにもならない部分で批判を受けなければならないのは本当に大変です。

こうした時に、人の罪深さ、自己中心性が現れます。そこから私たちは学び、自分の心の中に巣くう闇に光を当てたいと思うのです。

創世記にヨセフという人物が登場します。
彼は父からの偏愛を受けていたので、兄たちに妬まれ憎まれ、結局エジプトに奴隷として売られてしまいます。それからの日々は祝福もありましたが、孤独と多くの困難に見舞われました。無実であったのに牢獄にまで入れられてしまいます。彼も兄たちを憎んだり、恨んだりする心が確かにあったと思います。

けれどより大きな困難が訪れます。7年に渡る大飢饉です。

しかし、この大飢饉において神の民を救う役目を担ったのがこのヨセフでした。
彼は牢獄での苦労もありましたが、忠実でまじめに働き、神の祝福を受けていたので、やがてエジプト王ファラオに認められ、最終的にはエジプトの総理大臣、宰相の地位につきます。ファラオの次に権限を持つ立場です。彼は神様からの知恵によって、この困難に活躍し、エジプトもそして神の民イスラエルをも救う立役者になりました。

そのプロセスで、自分を売りとばした兄たちに出会います。
彼はそこで兄たちに、こう言っています。

ですから、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、神なのです。(創世記45:8)

あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを良いことのための計らいとしてくださいました。(創世記50:20)

ヨセフは実際に自分を売ったのは兄たちだとしても、すべては神のなさったみわざなのだと受け入れていました。

人の悪い「謀略」さえも、神の良い「計画」とされるのだと教えられます。

目の前にある困難は、すべて悪いことなのか?苦しい時にこそ、私たちは問い直す必要があります。悪く見えることの中に、神のご計画を見出し、希望と信頼をもって歩みましょう。

信仰から出ていない人間的な罪深い応答によって、他の人を傷つけたり争ったりすることは神様が悲しまれることです。

そこから離れ、神様の良い計らいを信じて歩んでいきましょう。



余談ですが・・・

新型コロナウィルスの感染源はコウモリやラクダだそうです。
実はどちらも聖書に登場しており、レビ記11章ではどちらも「食べてはいけない」と規定されています。おそらくこうしたウィルスを体内に宿している動物であり、医療も食品衛生面も未熟な時代にあって、疫病などで滅びることがないための神様のご配慮もあったのだろうと思われます。


※同じテーマ「日々の恵み」のメッセージはコチラから読めます。
※同じテーマ「心のケアと人間関係」はコチラから。

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