東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: レビ記6章1-7節「赦しとつぐない」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2020/03/01

レビ記6章1-7節「赦しとつぐない」


レビ記6章1-7節「赦しとつぐない」

おそらく多くの教会で、メッセージの導入部はコロナウィルスの話題が語られているのではないでしょうか?私たちもコロナウィルス対策はしっかりと行うべきと思いますが、対策が必要なのは何も肉体面だけのことではありません。私たちの大きな課題は、「心の中のウィルス」をどう取り扱うかという問題ではないでしょうか。


コロナウィルスの影響はあるものの、各地で起こっている差別や風評被害、買い占めによる品薄等の問題は、実はコロナウィルスのせいではなく、また政府のせいでもなく、人の罪から発している問題ではないでしょうか。

横浜ではマスクを巡って男性が殴り合うという前代未聞の事件が起こりました。ヨーロッパではアジア人への差別が強まっています。ここ数日は、偽りの情報の流布によってティッシュやトイレットペーパーさえも品薄となっています。

しかし、実はどれもお互いに愛し合い、助け合い、譲り合えば改善していく課題ですよね。

ある方がこんな事をおっしゃっています。

「自分が他の人にうつしてしまうとしたら本当に申し訳ない。でも、よく考えると、自分の心の中にある罪や汚れという名の醜悪なウィルスを、これまで多くの人にまき散らしてきた自分ではないかと、改めて思わされている」と。

コロナウィルスは確かに危険なウィルスです。けれども、私たちのうちにある罪という醜悪なウィルスもまた、人を死に至らしめる危険なウィルスです。

今日、私たちは心に巣くう深刻な罪というウィルスについて、神様から治療の道を教えていただきたいと思います。そして、不安と恐れのある日々ですが、神様の深いご愛の中に励まされながら歩ませてきただきましょう。  

 人はどのような罪であっても悔い改めるならば赦していただけます。それが神様の圧倒的な赦しの力です。なんとすばらしいキリストの十字架でしょうか!しかし、みことばに聞く時、それだけでは終わらない神様の恵みに気づきます。  

 今日のみことばは、「代償のささげもの」もしくは「償いのささげもの」についての規定です。神様や人の所有物に対して損害を与えた場合には、通常の罪とは区別して「償いや補償をなす」ことが教えられています。

 実はこの話は5章14節から始まっていまして、最初は神様の聖なる所有物に対して害を与えた場合の規定になっています。

 さらに、今日のみことばの場面では、隣人の持ち物に対して害を与えてしまった場合に、同じものを返すだけでなく20%を上乗せして償うことが教えられているのです。不当に奪った物を持ち主に返すというのは当然のことですが、聖書はそれ以上のことを教えているのです。  
5節にこうあります。 
5節 あるいは、それについて偽って誓った物をすべて返さなければならない。元の物を償い、また、それに五分の一を加えなければならない。彼は自分が責めを覚えるときに、その元の所有者にそれを返さなければならない。  

 元の物を償うだけでなく、それに五分の一相当を加えるように教えられています。それで終わりではありませんでした。6節を見ると、こうも語られています。
6節 その人は羊の群れから、傷のない、代償として評価された雄羊一匹を、主への自分のための代償のささげ物として、祭司のところに連れて行く。   

 人に対して償ってお終いではなく、神様に対しても「代償のささげ物」の雄羊をささげよと教えられていたのです。一見すると、色々やらなければ罪が赦されないのか?とも見えてしまうでしょう。でも、そうではないのです。主なる神様は「罪は赦した。それで終わり」という機械的な対応をなさらないお方なのです。  

 罪を犯したことによって傷ついた部分、傷ついた心の回復、復帰にまで心をさいてくださっているのです。 

具体的にどのような回復・復帰のことでしょうか?

1. 隣人との愛の交わりの回復  


 他の人の所有物について、特にウソを用いて自分の物にしてしまった等の場合、やはり相手の人を傷つけている面が少なからずあります。単に勘違いで自分の物にしてしまっていたというのと、意図的に自分の物にしているのでは意味が違いますよね?  

 そこで神様は、誠意をもって相手に償って返すだけでなく、プラス5分の1つまり20%上乗せするようにと教えられたのです。それは相手の人への謝罪の意味でもあり、思いやりでもありますよね。物さえ返ってくればいいのではなく、それを失った喪失感や様々なダメージが考えられます。

 神様は隣人への愛の現し方をこうして具体的に教えてくださっているのです。もし、あなたが誰かの所有物に害を与えてしまったのならば、同等の物を返すだけでなく、プラスして「思いやり」を加えることによって、相手の気持ちに寄り添うことができるのではないでしょうか? 

神様はそれを喜ばれ、優先的にするよう教えておられます。

今日のみことばの書かれている流れ、順番を意識してください。

最初に損害を与えてしまった相手に償いをし、それから神様に償いのささげ物をするという順番です。  

イエス様もマタイ5章23-24節のところで、このように語っておられます。
ですから、祭壇の上にささげ物を献げようとしているときに、兄弟が自分を恨んでいることを思い出したなら、ささげ物はそこに、祭壇の前に置き、行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから戻って、そのささげ物を献げなさい。

 神様が喜ばれるのは、私たちのまっすぐな心です。ですから、隣人を愛し、人と和解をして交わりを回復していくこと自体を主は喜ばれるのです。


2. 主との信頼関係の回復  


今日のみことばは神様に対してではなく、直接的には人に対して損害を与える罪のみに限定されています。それにも関わらず、2節の冒頭にこうあるのです。

「人が罪に陥っていて主の信頼を裏切るとき」 

直接的には隣人への損害を与える行為にも関わらず、それは主の信頼を裏切る行為であると語られているのです。有名な十戒の中に、「盗んではならない」とか「隣人の物を欲しがってはならない」という禁止命令がありますよね。

翻訳の限界があり禁止命令の場合「~してはならない」という言い方になってしまいます。
しかし、これらの禁止命令の主旨は、「私が愛するあなた方なのだから、盗むなんてことあってはならないよね。他の人の物を欲しがるなんてあってはならないよね」といったニュアンスであって、そこには教えを守ることを期待する主の思いがあるのです。

どうせ守れないだろうから、厳しく言っておくぞ!という意図ではなく、「わたしの民、わたしの子であるあなたがたなのだから、盗むとか他の人の物を欲するなんてことあるはずないですよね?」といった期待と信頼が込められているのです。

神様は、罪深い人間であるにも関わらず、人が神の教えに喜んで従うことを期待して、信頼をもってこれらの教えをくださっているのです。ですから、「うっかり」ではなく、うまいこと騙してごまかして自分の物にするという行為は、何よりも神様の信頼を裏切る行為なのです。私たちは、人に罪を犯したと同時に、神様に対しても信頼を裏切り、悲しませたということを覚えたいのです。

知人が小学生の時に万引きをしてしまったそうです。やがてその罪の重さに耐えかねてお母さんに告白し、お母さんと一緒にお店の人に物を返し謝罪に行きました。彼はお店の人に対して罪を犯し謝罪をした。けれど、彼は同時にもう一つのことに気づいたのです。万引きなんてするはずがないと自分を信頼してくれていたお母さんを深く悲しませたという事です。お母さんは涙ながらに一緒に悔い改めのお祈りをしてくれたそうです。それによってかえって、自分はお母さんを裏切り、深く悲しませたのだと子どもながらに罪というものを理解したと言っておられました。  

6-7節にあるように、神様に前に出て行き、代償(償い)のささげ物をし、罪の赦しをしっかりと自分のものにしつつ、裏切ってしまった神様の信頼に対して、謝罪とやり直す決意をさせていただきましょう。「悔い改め」は「悔い」て終わりではなく、「改める」ことを含みます。それが信頼に対して応えていくということではないでしょうか。



3. 罪を犯した本人の回復  


このささげ物にはもう一つ重要な意味があります。
最後の回復は、罪を犯した本人の回復です。

6節にこういう表現あることに注目してください「主への自分のための代償のささげ物」 。「主への」と最初にあり、神様にささげる物であることが示されていると同時に、「自分のための」ということばも含まれているのです。

続く7節でもこうあります。
7節 祭司は主の前でその人のために宥めを行う。彼は、自分が行って責めを覚えるようになったどのことについても赦される。  

神様が償いをあえてさせるのは、実に罪を犯した本人のためでもあるということなのです。

その人自身が実に傷ついています。

他人に対して害を及ぼした罪限定の話であるにも関わらず、その人のための宥めであり、その人が自分を責めてしまうすべての事について赦されると宣言されています。

ここに神様の愛があります。  

私たちが誰かに罪を犯して、その人を傷つけてしまった時、もちろん神様に祈り罪を告白して、その赦しを受け取ります。それでも、しばしばその相手から長期に恨まれ憎まれることがあります。また、自分の中でも長らく引きずってしまう傷があるものです。

私は子どもの頃に、知人の飼っていたインコを誤って踏んでしまいました。故意ではなかったのですが、歩いて追いかけて来るインコがすばやく私の足の下に入り、結果として踏みつけてケガを負わせてしまったのです。命に別状がなかったのが幸いでしたが、その時のことが忘れられず、今でもその場面が心に残っています。

案外、他の人を傷つけてしまったという事実は、自分の中に深く重たく残り引きずるものです。
それをご存知の神様が、このような教えをくださっているのだと気づきます。

一見面倒なほどの手続きに見えます。でも、その主旨が何よりも罪を犯した人の回復、復帰を目的としたものであると気づかされるのです。

罪を犯された人を守るのは当然なのですが、罪を犯した本人にまで主のあわれみは尽きないのです!  

悔い改めの機会を提供し、赦しを与え、さらに償いを行うことによって関係の回復、さらには自分自身の罪悪感へのいやしまでも意識されているのです。  

心に巣くう罪という名のウィルス。そこからの完全な回復は神様の恵みの教えに生きることにあると教えられました。何よりも私たちに代わって最高の償いを父なる神にしてくださった十字架のキリストが私たちには与えられています。

キリストこそ、隔ての壁を打ち砕き、人々との関係を回復させてくださる方。

キリストこそ、父なる神と私たちの信頼関係、深い交わりを回復してくださる方。

キリストこそ、私たち自身を深い傷の痛みから回復してくださる方。

このすばらしい恵みに歩んでまいりましょう。

2020.3.1 礼拝メッセージ

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