東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 毎日の聖書【6月】
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2025/06/22

毎日の聖書【6月】

1日(日)マタイ28章16-20節
 弟子たちはガリラヤに行き、イエスの指示通りの山に登った。そこでイエスに会い、礼拝をした(17)。その中には疑う者たちもいたとある。トマスが思い浮かぶが、彼なりに信じていくことも私たちは知っている。そして、イエスは大切な使命(大宣教命令)を弟子に与えられた。まず、天地すべてにおいて、キリストにはすべての権威が与えられていると言われた。イエスが望めば、何でもその通りに成し遂げられる力である。最強、最高の神が私たちの主であるのだ!この権威を持つお方が弟子を遣わし、この方が世の終わりまでいつもともにおられるのだ(20)。だから!行って、あらゆる国の人々を弟子とせよと言われた。福音をすべての者に伝え、バプテスマを授け、命じられたすべてのことを教えよと(19)。宣教の命令は、私たちが孤独にするものではない。すべての権威を持つお方が、いつもともにおられるのだから!そして、主にある仲間たちと一緒に、この尊い使命に生きていくのだから!

2日(月)使徒1章1-2節
 医者ルカが著したとされる使徒の働き(使徒行伝)。それは使徒の活動であると同時に、導いてくださる聖霊による働きなので「聖霊行伝」とも言われる。ルカは福音書も、この使徒行伝もテオフィロという人物をあて先にしている(1)。その名の意味は「神の友」といった意味なので、個人的名ではなく信仰共同体に宛てたのかも知れない。なお、ルカの福音書では「最も尊敬する」という形容詞が名前の前にあって、強い敬意を表している。しかし、この使徒の働きではそれが省かれていることから、関係性に進展があったのかも知れない。もしかして、キリストを信じて兄弟の関係になったゆえの親しさかも知れない。使徒の働きは、イエスを信じる者たちが聖霊によって豊かに歩んで行く様子を語る。2節に「聖霊によって命じた後」とあるように、イエスが聖霊と聖霊に導かれる弟子たちにゆだねていることがわかる。私たちも自力ではなく、聖霊によって肩の力を抜いて歩んでいこう!聖霊に導かれること=キリスト中心に生きることである!

3日(火)使徒1章3節
 復活後の主イエスは、40日かけて何をしたのだろうか?3節によれば、「数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された」とある。つまり、イエスが確かに死から復活したということを、繰り返し弟子たちに分からせようとされたのだ。ということは、それほどに復活の事実が救いにおいて、これからの宣教において重要だということだ。だが、ここでは「ご自分が生きていること」とある。それは単によみがえったという事実だけでなく、今も、天に昇って見えなくなってからも、生き続けておられるということを弟子たちが確信していくためだ。主は、いのちのない偶像ではない。今も日々生きておられ、私たちと交わり、私たちとともに歩まれる主である。主権をすべてを治め、導かれる主である。それは、大宣教命令で「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」と言われたことばの証拠でもあるのだ。そして、これから福音を携えて遣わされて行く者たちに、「神の国のことを語られた」(3)のだ。私たちは、今も力強く生きておられるイエスが王である「神の国」の知らせを届ける、神の国の親善大使とされているのだ。

4日(水)使徒1章4-5節
 4節。イエスと弟子たちは、おそらく食事の交わりをしながら語り合っていたのだと思われるが、イエスが弟子たちにあることを命じている。それは「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい」ということだ。復活のイエスと出会い、さあ、これからイスラエルの復興だ!母国の再建だ!と弟子たちは盛り上がっていたのだろう。だが、神のご計画はそこにはなかった。これからいよいよ、聖霊が与えられて、教会が生み出され、使徒たちによる世界宣教が始まって行くのであった。それはすべて、聖霊によらなければならなかった。人の肉の思いと力によるものではない。だから、父の約束(=聖霊が与えられること)を待つように言われのだ。それはキリストが天に昇られてから、起こるものだと以前より約束されていた!水のバプテスマに加えて、これからは、聖霊のバプテスマ(聖霊の満たし)を受けるのだと(5)。私たちも、神の働きを人の働きに格下げしないようにしよう!聖霊の力によって福音を伝え、また聖霊が人を内側から新しく造り変え、救ってくださることに期待しゆだねよう!

5日(木)使徒1章6-7節
 使徒たちは、祖国イスラエルの再興を切に願っていた。それで6節にて、いよいよローマ帝国の支配を脱して、イスラエル王国を再興してくれるのかと期待し、イエスに質問したのであった。イエスはそれが的外れだとは言わず、別の応答をしている。7節「いつとか、どんな時とかいうことは、あなたがたの知るところではありません。それは父がご自分の権威をもって定めておられることです。」と。イスラエルの再興を否定せず、ただ時については神の主権で決められると応じた。不思議な応答だ。それはもしかしたら、イスラエルの霊的な再興という意味では間違っていなかったからかも知れない。そして、霊的な再興であるならば、時においても神の権威に従う姿勢こそ、重要なことである。聖霊が使徒たちに臨み、世界宣教がなされる時、キリストを王とする神の国が本当の意味で建て上げられていくのだ。それこそ、イエスが建てようとしている霊的なイスラエル、神の国なのである。私たちも自分たちの教会を建てるのではない。キリストの教会を建てるという意識を忘れずに歩もう。

6日(金)使徒1章8節
 しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」
 主イエスの最後のことばとして記録されている。イエスが地上を去り、助け主なる聖霊がペンテコステに来られる。聖霊が使徒たちの上に臨むとき、「力を受ける」と主は約束された。これはすべてのキリスト者に与えられた特別な権利である。聖霊が臨む時の最大の特徴は、「キリストの証人」としての力である。それは地域や文化、ことばの壁さえ越えて、地の果てまで、どこででも発揮される力であるとわかる。キリストの証人ということは、ことばにおいて、態度において、生き様において、キリストの姿がそこに現れることである。聖霊に満たされるならば、キリスト中心の生活・人生を送る者とされていくのだ。キリストを信じているなら、あなたにも聖霊が注がれている。キリストを現そうとする思いがあるなら、ことば、人格、行動、すべてにおいて、あなたは力を大胆にいただける!

7日(土)使徒1章9-11節
 聖霊降臨について語られた後、イエスは使徒たちが見ている中で、天へと上げられた。そして、雲がイエスを包み込んで見えなくなったのだ(9)。使徒たちはその様子をずっと見守り、目が離せないでいた。長く過ごして来た「目に見える姿のイエス」に対して、別れを惜しむ思いは強かっただろう。不安が彼らの心に渦巻いたに違いない。見える姿に頼りたいのは、いつの時代にもある人の弱さではないだろうか。だが、御使いたちが、彼らに語りかけた(10)。「どうして天を見上げて立っているのですか」と、その行動に疑問を投げかけた。実に、主イエスは天に上って行った時と同じ有様で、再び戻って来られるのだ(11)。
 この再臨信仰のゆえに、不安や別れを惜しむ思いから解放されたのだ!不安と悲しみの中で、突っ立って動かないでいる場合ではない。イエスが戻られるまでに、イエスから託された大切な働きがまだあるのではないか!! 私たちも同様である。キリストはすぐにでも来る。それまでに、あなたが救いの知らせを伝えるべき人々がまだいるのではないか?あなたでなければ、届けられない人が待っているのではないか。

8日(日)使徒1章12-14節
 使徒たちはイエスを見送った後、オリーブ山からエルサレムへと帰って行った(12)。彼らはエルサレムにある建物の屋根裏部屋(アパルーム)に集まり、皆で祈っていたのだ。彼らがオリーブ山に留まらず、またガリラヤにも戻らなかったのには、理由があった。イエスのおことばを信じて忠実に従ったからだ。4節で、「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい」と命じられていた。主の約束を通り聖霊が与えられるのを祈りのうちに待ち望んでいたのだ。この時、女性たちやイエスの母マリア、さらにイエスの実の兄弟たちも一緒に集まって、「心を一つにして祈っていた」。「心を一つにして」とのことばは、新約では、1回を除いてすべて「使徒の働き」で使われ、教会の成長と宣教の重要事項であることがわかる。一致は人の意志や努力によるのではない。主のおことばに従う時にもたらされたものであった。そして「祈っていた」とあるが、ここには心を注いで祈り続けていたという意味がある。宣教は一人でするものではない。ともに祈る仲間がいて、祈りを聞かれる主がおられて、そこに一致が与えられる中に進んで行くものである。

9日(月)使徒1章15-26節
 主イエスを信じる者たちが120人ほどで集まっている中、ペテロはイスカリオテ・ユダの代わりを立てることについて話をし始めた。(16)。そして、詩篇109:8から『彼の務めは、ほかの人が取るように』とのことばを根拠として取り上げた(20)。みことばに根拠を求めて決断していく姿勢を私たちも見倣う必要がある。私たちは、思いつきや人間的な基準で決断してしまうことがあるが、いつでも主のみこころに根ざして決断していきたいのだ。 このとき、ヨハネのバプテスマ以降、主イエスや弟子たちといつも行動をともにしていた人であることを条件として、二人の人物を候補として立てた(22-23)。そして、「この二人のうち、あなたがお選びになった一人をお示しください」と祈って、二人のためにくじを引いたのだ(24-26)。すると、マッティアに当たり、彼がユダの代わりに使徒に加えられることになった。ふさわしい者を皆で選びつつも、最後は主の手にゆだねている姿に教えられる。

10日(火)使徒2章1-4節
 五旬節、いわゆるペンテコステに、信者たち皆がいつも通り集まっていた(1)。その時、天から激しい風が吹いてきたかのような響きがあった(2)。そして、炎のように見える「舌」が分かれて現れ、信者たち一人ひとりの上にとどまったのだ(3)。炎は浄化の力、聖なる力の象徴だろうか。そして、「舌」とあるように、聖霊は真理を教えるとともに、真理を語らせてくださる。特に、キリストについての証しのことばを大胆に語らせるお方である。この聖霊が臨んだので、信じていた者たち皆が聖霊に満たされて、御霊が語らせるままに様々な国のことばで話し始めた。世界中の様々な言語で語らせているのは、キリストの福音が世界中に広がっていくことを示したものであろう。さて、あなたの舌は聖霊によって整えられ、管理が行き届いているだろうか? 人をけなしたり、悪いことばを口にしていないだろか。福音の真理をまっすぐに語る舌だろうか。世界の誰に対しても差別なく語る姿勢はあるだろうか。聖霊に満たされ、きよい愛のことばをすべての人に語る者でありたい

11日(水)使徒2章5-13節
 エルサレムには、様々な国に住んでいたユダヤ人たちが集まって住んでいた(5)。そして、ペンテコステの時、彼らはそれぞれ、自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて驚いたのだ(6)。ガリラヤ人で、学問や教養のあまりないイエスの弟子たちが、外国語で巧みに話すさまは、驚くのに十分であったのだ(7)。9-11節によれば、多種多様な民族があり、ことばも異なる者たちが多くそこに集まっていて、この出来事に驚いていたことがわかる。これらは、聖霊のみわざであった。ただし、より重要なポイントを見落としてはならない。彼らは外国語で「何を話したのか」ということだ。彼らは「神の大きなみわざ」を語っていたのだ(11)。聖霊は、私たちの能力を強化する存在ではない。私たちが強く賢く、有能になるのをサポートするお方ではない。そうではなく、神のみわざを証しする力をくださるお方なのだ。キリストを証しするために、驚くべき力をくださるお方なのである。キリストを指し示すためには、聖霊がいくらでも力を与えてくださることを信じて、恐れず聖霊によって証しする者となろう!!

12日(木)使徒2章14-21節
 ペテロは他の11人の弟子たちと一緒に声を張り上げて、この出来事(ペンテコステ)について説き明かした(14)。「知っていただきたい」と彼が言うように、聖書の真理を知って欲しいと願い語る時、まさに聖霊が働かれるのだ。ペテロは聖霊によって「ヨエル書」を示されてここで語ったのだ(16)。それは、終わりの日に「すべての人にわたしの霊を注ぐ」という預言の成就であるということだ(17)。「すべての人」とは、「キリストを信じるすべての人」である。旧約時代、聖霊の助けを受けることは非常に限定的であった。誰か特定の個人、しかも神がよしとされた限定的なタイミングであった。だが、このペンテコステ以降、キリストを信じるすべての者が聖霊を受け、また、いつでもどこでも聖霊の助けを受けられるのだ。ヨハネの福音書で「真理の御霊」とあるように、みことばの真理が示される。それを預言(みことばを預かり、そのまま語ること)として、人々に語ることができる。また、幻や夢とあるように、神の示される将来のビジョンをみことばから知る者とされていくのだ。聖霊に導かれることがいかに大切であるか、心に刻もう!

13日(金)使徒2章22-24節
 御霊に満たされたペテロは、22節から力強く、イエスが約束された救い主であることを語っていく。イエスとの関係を3度も否定した時のペテロとは、まるで別人だ。これが御霊の力である。ナザレ人として歩んだイエスは、人々の見ている前で、様々な力あるみわざ、多くの不思議、しるしをなした。神はこのことで、イエスがご自分の御子であり、約束の救い主であることを現わされた。しかし、23節にあるように、このイエスのみわざを見ても、信じない者が多くあり、ユダヤ人たちはイエスを十字架につけて殺害したのであった。ここでは明確に「あなたがたは・・・十字架につけて殺した」と指摘している。私たちも他人事にしてはいけない。罪人なる私たちも、イエスを十字架につけた一人であることを率直に受け止めよう。ただ、24節にあるように、神は、イエスを死の苦しみから解き放ってよみがえらせたと明言する。御子イエスが「死につながれていること」など、あり得ないからである(24)。イエスの十字架の死と復活から目を背けてはならない。そこには罪と死があるが、同時に、罪の完全な赦しと死への勝利、永遠のいのちがあるのだから!この勝利といのちに生きていこう!

14日(土)使徒2章25-32節 
 ペテロは、詩篇16篇のダビデの告白を引用し、彼がキリストについて語っていると説いた(25)。そして、30節にあるように、ダビデは預言者としての性質を併せ持ち、自身の子孫から救い主が生まれることを予見していたと言う。さらには、「彼はよみには捨て置かれず、そのからだは朽ちて滅びることがない」と語っており、復活についても予見していたとわかる(31)。キリストは十字架で死なれた後に、よみに留まらずに復活される約束がはるか昔からあったのだとペテロは振り返るのだ。(※しばしば『使徒信条』の中で「よみにくだり」という一節に対して、キリストがよみにくだったはずがないとの主張があるが、私は、これらの個所や十字架のイエスの叫び等から、主イエスは、よみにおいて罪人の死を明確に体験されたと理解している。なお、「よみ(ハデス)」と「永遠の滅び(ゲヘナ)」は明確に区別される必要がある)。ペテロも最初はわかっていなかった。また信じられていなかった。だが、聖霊が与えられ、使徒たち皆が聖書と現実とが一つにつながったという経験をしたのである。私たちもみことばが、真実であることを日々経験しながら、復活のキリストに目を注ぎ続けていこう!

15日(日)使徒2章33-36節
 33節では、ペテロは、今起こっていることは、「神の右に上げられたイエスが約束された聖霊を御父から受けて」、信者たちに注いでくださったということであると説き明かしている。神はいつでも突然なさっていない。あらかじめ、人にお語りになり、約束をされた上で、その通りに実現なさってきた。神は人にそのような敬意を払っておられるのだ。嬉しく幸いなことではないか。それはダビデの詩篇110篇で神から示され、語られていたことでもあった(34-35)。ゆえに、「イスラエルの全家は、このことをはっきりと知らなければなりません」とペテロは言う(35)。旧約時代から予告され、伝えられてきたことなのだ。神がキリスト、主とされたイエスを、あなたがたが十字架につけて殺したのだと知りなさいと彼は言った。なんとストレートなメッセージであろうか。確信を持って、よどみなく語っている。臆病な以前の彼とは違う、霊的な確信の上での説教だ。御霊の働きがここにも豊かに垣間見える。あなたは確信を持って歩めているだろうか。語れているだろうか。

16日(月)使徒2章37-39節
 人々はこれを聞いて「心を刺された」とある(37)。このことばは、心を激しくかき乱された時に使うことばである。人々は自分たちのしたことが、罪深い行為であったこと、特に自分たちの罪が神の御子を十字架につけたことを悟り、深い悲しみによって心をかき乱されたのだ。我々は、このように深く罪を悲しんでいるだろうか。どこかで赦しの上に甘んじていないだろうか・・・。そして、より大事なことは、その後である。彼らは言った「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか」と。罪を悲しんで心折れることなど神は望んでいない。そうではなく、そこから悔い改めて、ご自分とのより親しい交わりに導かれることを切に願っておられるのだ。聖霊はペテロにそれを示し、38節のように語らせた。罪を悔い改め、キリストを信じて、バプテスマを受けよと。さらに、聖霊を受けることができるとも伝えている。心刺されることは辛い。だが、その先には「神との交わりにおける平安」がある。これを求めていこう!

17日(火)使徒2章40-42節
 ペテロはこの箇所に書かれた内容だけでなく、「ほかにも多くのことばをもって証し」をしたとわかる(40)。聖霊の助けをいただきつつ、彼自身が「救われて欲しい」との熱い思いをもって精一杯語ったことは容易に想像がつく。彼は「この曲がった時代から救われなさい」と勧めたのだ。本当に罪の世は、いつでも「曲がった時代」である。その時代の世界を見て、「希望に満ちてるな~!」と人々が思うような清々しい状況はどの時代にもなかっただろう。だから、社会や人に救いを求めても限界だらけだ。まことの神に救いを求めよう!救いはキリスト以外にはないのだから。こうして、彼の福音のメッセージを受け入れた人々が、この日、三千人ほどバプテスマを受けた(41)。そして、バプテスマを受けて終わらない。そこから始まったのだ。彼らは教えを守り、交わり、聖餐を持ち、ともに祈り続けた(42)。救われた瞬間に完成するクリスチャンは一人もいない。みことばに留まり、交わりの中で練られ、主の救いを覚える聖餐を継続して持ち、祈り祈られて、少しずつ救いの完成へ向かうのだ。

18日(水)使徒2章43節
 43節 すべての人に恐れが生じ、使徒たちによって多くの不思議としるしが行われていた。 と語られている。ヘブル書4章1節にも、「恐れる心を持とうではありませんか」とあり、それは、頑なな不信仰な心にならないようにするためであった。恐れる相手はいつでも偉大な神である。人が驕る時、神を恐れなくなる時、神の働きは沈黙する。どんなに多くの人が集まっていようと、立派な組織や建物を持っていようと、神のわざは止む。神を恐れない不遜な心ほど、深刻なものはないのだ。自らの愚かさ、罪深さ、未熟さを見なくなり、他人を上から目線でさばき、謙虚さを失って神の声も、年長者の意見も聞かなくなり、何事も祈らずにするようになる。いや、形式的には祈り、形式的にはみことばが読まれるかも知れないが、祈りとみことばへの恐れと敬意も失われるので、何事も起こらなくなるだろう。主を信じる者は、主を恐れる心を決して失ってはならない

19日(木)使徒2章44-47節
 「信者となった人々はみな一つになって、一切の物を共有し」ていた(44)。「共有」というのはコイノスという語だ。同じ語根の「コイノニア」は、教会では馴染みがあるだろう。共有、一致、分かち合いなどの意味を持つ。クリスチャンたちは、時間も場所も、財産も共有し、親しい交わりの中で助け合って歩んでいた。彼らは物理的な共有だけでなく、霊的な部分でも共有していた。「毎日心を一つにして」とあるように、心と思いを分かち合い、真心をささげて交わりをし、神に賛美をささげていた。それゆえに、この交わりは、「民全体から好意を持たれていた」とも語られている。それは、とても美しい姿だったことだろう。御霊は、一人ぼっちを避けて、交わりをするよう招かれる。心を閉じてはならない。一人で塞いではならない。悩みを、傷を、痛みを分かち合い、祈り祈られることが神のみこころだ。互いの弱さは交わりの中で補い合うものだ。御霊に満たされて、この交わりを築いていこう。

20日(金)使徒3章1-4節
 ペテロとヨハネは、祈りのために宮に上った(1)。すると、生まれつき足の不自由な人が運ばれて来た。この人は、毎日「美しの門」のところにいて、宮に入る人から施しを受けていた(2)。場所の選び方としてはとても賢いと言える。祈りに来る者は、少なくとも敬虔さを装う必要がある。彼は、祈りのためにやって来たイエスの弟子ペテロとヨハネをも見て、声をかけて施しを求めた(3)。ペテロたちは言った。「私たちを見なさい」と(4)。だが、少し妙である。3節で、この足の不自由な彼は二人を既に「見て」いたのだ。だが、ペテロが言った「見なさい」とのことばは、「じっと見よ、見分けよ」といった意味がある。漫然と施しを求めて「見る」のではなく、二人のキリスト者をしかと注目して見よというのだ。そのうちにある救い、キリストのいのちを見て欲しかったのではないか。あなたは、「私をよく見てください」と言えるだろうか?あなたのうちにあるキリストについて、胸を張って「よく見てください」と伝える者でありたい!

21日(土)使徒3章5-10節
 足が不自由で施しを求めていた人は、ペテロとヨハネが何かをくれるのではないかと期待した(5)。だが、ペテロの口から出たことばは、「金銀は私にはない」であった(6)。こんなにはっきり言う人も珍しい。だが、彼には代わりに胸を張って与えられるものがあった!「イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」とのことばだ。つまり、キリストの福音だ。真の癒しである。彼はたちまち癒され、躍り上がって歩き出した。だが、それだけではない。「神を賛美しつつ二人と一緒に宮に入って行った」のだ(8)。人々もその姿を確かに目撃し、非常に驚いた(9-10)。彼は肉体が癒されて終わりではなく、喜んで神を賛美する者となっている。宮に入り、神に感謝し、神に栄光を帰したのだろう。私たちがただで受けたキリストの御名は、肉体を癒すのではなく、たましいを癒す御名だ。こんなにも強く、力強い福音を持つ私たちは、なんと幸せだろう。健康でも心が躍らない人は多い。肉体が弱っても、いつでも心が躍っているために、このキリストの御名が必要不可欠なのだ!

22日(日)使徒3章11-16節
 生まれつき足が不自由だった者が一瞬にして癒されたことを知り、人々は非常に驚き、ペテロとヨハネに注目していた。それに対してペテロは12節でこう問いかけた。「どうして、私たちが自分の力や敬虔さによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。」と。私たちはしばしば勘違いする。祈りの熱量であったり、一切疑わずに強く信じ切る信仰があれば、奇跡が起こるのだと考える。だが、私たちの信じる力、信仰深さではないのだ。誤解してはならない。だか、「からし種の信仰」でも問題ない。なぜなら、信仰の力ではなく、キリストご自身に力があるからだ。ペテロは言った。この力は、あなたがたが十字架につけて殺したあのイエス・キリストの力であると。死からよみがえったイエスの御名に力がある。そして、この名を信じるゆえにイエスから与えられる信仰によって、この人が癒されたのだと証ししたのであった(16)。信仰さえ、自分の力で育てるのではなく、主イエスから与えられ続けていくものなのだ。自分の信心に頼ることから、真にキリストに信頼する歩みへと成長させていただこう!

23日(月)使徒3章17-19節
 あなたがたは「無知」であったゆえに、神の子イエスを十字架につけたということに、ペテロは理解を示した。しかしながら、無知ゆえに罪がないとは言えない。知ることが可能なのに、知ろうとしない、認めないという問題が人にはある。実際、パウロも神の臨在については、「世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきり認められるので、彼らに弁解の余地はない」(ローマ1:20)と語っている。ましてここでは、18節にあるように、彼は「神は、すべの預言者たちの口を通してあらかじめ告げておられたこと」を実現したのだと説き明かした。キリストの受難は、はるか昔からユダヤ人たちに明確に告げられていたのだ。だから、言い訳はできず、「悔い改めて神に立ち返りなさい」と呼びかけたのだ。しかし、たったそれだけで良いのだ。自身の罪を認めて悔い改め、神に立ち返るならば私たちの罪はぬぐい去られるのだ(19)。罪があることより、罪を認めないことこそ人の最も大きな問題である。人には他人の罪を赦せないが、神にはそれが完全におできになる。

24日(火)使徒3章20-21節
 ペテロはこの時、キリストの再臨についても確信を持って語っている。ほんの少し前まで、キリストの死に絶望し、涙にくれていた臆病者とは思えない。この確信は、御霊によるものであり、これまで語られてきた聖書のみことば、キリストのことばにようやく目が開かれ、すべてがつながったのだろう。主の御前から回復の時が来て、神はイエスを再び遣わしてくださると語る(20)。ここでは、この世の終わりの「万物が改まる時」についても、神が「昔から」語り、定められていたのだと説き明かしている(21)。実に神は、人に前もって語ることなしには、人に関する重要なことをなさっていない。あらかじめ語り、予告し、また警告を何度もし、その上で神はご自身の計画をなさっているのではないか。アモス書の3章7節には、「まことに、神である主は、ご自分の計画を、そのしもべである預言者たちに示さずには、何事もなさらない」とある。神は人に対して、対等に語り合える者としての敬意を払い、こうして告げてくださるのだ。だから、みことばにいつも耳を傾けよう。心して聴く者であり続けよう!

25日(水)使徒3章22-26節
 22節からは、モーセやサムエルをはじめ、様々な預言者によって、キリストについての預言がなされていたことを明らかにしている。モーセを通しては、「あなたがたの同胞の中かから、私のような一人の預言者をあなたがたのために起こされる」と申命記18章15節で語られていたことを引用している(22)。そして、彼が告げることすべてに「聞き従わなければならない」とも語られていた(23)。こうして、その大いなる権威について明言されていたのだ。サムエルたちは、「今の時」について告げ知らせていたと言う(24)。つまり、キリストが遣わされ、契約が成就していく時である。ゆえに、聴衆たちにあなたがたは「契約の子」ではないかと説き明かしたのだ。神はイエスを遣わし、「人」となり「しもべ」として歩まれ、人を悪から立ち返らせ、祝福にあずからせた(26)。霊的に盲目だった人々は、これらの御霊の人のメッセージをどう受け止めただろうか。すべて聖書が語っていたこと、預言者が語っていたことである。いかに聖書を表面的にしか読んでいなかったのか。いかに無理解であったのか。示されたのではなかろうか。私たちはどうだろう?道徳、教訓話程度に聖書を読んでいないだろうか?

26日(木)使徒4章1-3節
 ペテロとヨハネが聖霊によって民に語っていたとき、祭司たち、宮の守衛長、サドカイ人らがやってきて、彼ら二人の姿に苛立った(1-2)。さらに、3節によれば、彼らは二人に手をかけて逮捕さえしたのだ(3)。それは、キリストの復活によって、信者の復活を教えていたゆえであった。彼らにとって、それぞれに都合が悪いことであったからだ。キリストへの妬みもあれば、立場・責任上の課題、自分たちの主義主張へのこだわり等である。だが、私たちは、そのような理由で真実を否定してはならない。特に「苛立ち」が動機となることは、主の前に最もふさわしくないことである。しかしながら、人はやはり罪深く、感情の生き物である。実は、正当な理由なく、嫌いだから否定するということはクリスチャンでも日常茶飯事ではなかろうか。私たちも自分の胸に手を当てて思い巡らしてみたい。反対のための反対になっていないだろうか?その人への苛立ちのゆえに、主の前に正しいことであってさえ、妨げる発言や態度を取っていないだろうか?

27日(金)使徒4章4節
しかし、話を聞いた人々のうち大勢が信じ、男の数が五千人ほどになった。
 「神のためにしているのに、なぜ、こんな目に!」と思うことはないだろうか?福音をまっすぐに語っていたペテロとヨハネは、捕らえられて1泊2日の留置所生活を送った。悪いことをしていないどころか、神の前に正しい良いことをしたのに。でも、この出来事はここで終わっていない。この4節にあるように、彼らのメッセージを聞いた人々が大勢信じて、男性で五千人も救いに導かれたのだ。話を聞かなかった者もいる。話を聞いて怒り、攻撃し、妨げて来る者もいる。聞いても信じない者もいる。だが、聞いた者の中から信じる者たちが必ず起こされてくる。これも確かな事実なのだ。歴史が証明している!聞かないことには信じないが、聞いていればそこから信じる者が起こるだから、語ること、伝えることをやめてはいけない。一言でも!方法は色々ある。伝えてさえあれば、何かのキッカケで信じようと思うことも沢山あるあきらめてはいけない!

28日(土)使徒4章5-8節
 指導者、長老、律法学者、大祭司たち、当時の偉い立場の者たちが集まり、ペテロとヨハネを尋問した(5-7)。「おまえたちは何の権威によって、だれの名によってあのようなことをしたのか」と(7)。「あのようなこと」とは、足の不自由な人間の癒やしのわざであった。何も悪いことをしておらず、むしろ癒しという良いことをしたのだが、尋問されているのは不思議なことである。そして、普通はこうした権力者たちの前に出され、囲まれて尋問されたならば、誰もが恐れ、怯えてしまうだろう。言いたいことも言えなくなるものだ。そして、かつてのペテロであれば、間違いなくそうだったのではないか?だが、今は違う。何が違うのか?ペテロは「聖霊に満たされて」いたのだ(8)。あなたは自分の力で語ろうとしていないだろうか。あなたは自力で恐れを振り払おうとしていないか。聖書の信仰者たちは、自分の能力や力によらず、神の霊によって勇気と大胆さをいただき、神のみこころを語ったのだ。

29日(日)使徒4章9-12節
 権力者たちの尋問を受けている時、ペテロとヨハネは、かえって十字架のキリストを証しする機会としたことがわかる。一人の病人が「何によって癒されたのか」ということについて、ペテロは聖霊に満たされて語った。「この人が治ってあなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの名によることです。」と(10)。二人は、決して自分の手柄にしなかった。「私たちの祈りのゆえです!」とか、「信仰です!」と、少しは自分たちの頑張りに目を向けさせたいのが人間だ。だが、聖霊に満たされていたので、自分の功績をあがめさせるようなことはしなかった。人々から捨てられた石(キリスト)が、要(かなめ)の重要な石となったと説き明かしながら、このキリスト以外には救いの名はないとハッキリ伝えている。とことん、キリストに目が注がれることを願っている!私たちも自分の信仰、自分の行いを誇らずに歩みたい。いつでもキリストを指し示していこう!!

30日(月)使徒4章13-14節
 13節 彼らはペテロとヨハネの大胆さを見、また二人が無学な普通の人であるのを知って驚いた。 ペテロとヨハネは、この時、大胆に語った。彼らは専門的な教育を受けた教養人ではなかった。彼らは漁師であったし、弁論術に長けた者でもなかった。ごく普通の人であった。だから、人々が驚いたのだ。神は、特別な人を用いるのではない。ごく普通の人々を用いるお方だ。いや、取るに足りない者、小さな者、無学な者、弱い者を用いる。でも、だからこそキリストの力がよく見えるのだ。現れるのだ。13節後半には、「また、二人がイエスとともにいたのだということも分かってきた。」とある。弱い普通の二人だったが、自分の力ではなく聖霊に助けられて、神が語らせるままに語った時、主イエスの姿がそこに垣間見えたのだ。そして、神は証拠も示される方だ。足の不自由だった人が、事実癒されてそこに立っているのを見ては、返すことばもなかった(14)。普通の人だからこそ良い。あなたはそうは思わないだろうか?


引用元聖書
聖書 新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会

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