弟子たちはガリラヤに行き、イエスの指示通りの山に登った。そこでイエスに会い、礼拝をした(17)。その中には疑う者たちもいたとある。トマスが思い浮かぶが、彼なりに信じていくことも私たちは知っている。そして、イエスは大切な使命(大宣教命令)を弟子に与えられた。まず、天地すべてにおいて、キリストにはすべての権威が与えられていると言われた。イエスが望めば、何でもその通りに成し遂げられる力である。最強、最高の神が私たちの主であるのだ!この権威を持つお方が弟子を遣わし、この方が世の終わりまでいつもともにおられるのだ(20)。だから!行って、あらゆる国の人々を弟子とせよと言われた。福音をすべての者に伝え、バプテスマを授け、命じられたすべてのことを教えよと(19)。宣教の命令は、私たちが孤独にするものではない。すべての権威を持つお方が、いつもともにおられるのだから!そして、主にある仲間たちと一緒に、この尊い使命に生きていくのだから!
2日(月)使徒1章1-2節
医者ルカが著したとされる使徒の働き(使徒行伝)。それは使徒の活動であると同時に、導いてくださる聖霊による働きなので「聖霊行伝」とも言われる。ルカは福音書も、この使徒行伝もテオフィロという人物をあて先にしている(1)。その名の意味は「神の友」といった意味なので、個人的名ではなく信仰共同体に宛てたのかも知れない。なお、ルカの福音書では「最も尊敬する」という形容詞が名前の前にあって、強い敬意を表している。しかし、この使徒の働きではそれが省かれていることから、関係性に進展があったのかも知れない。もしかして、キリストを信じて兄弟の関係になったゆえの親しさかも知れない。使徒の働きは、イエスを信じる者たちが聖霊によって豊かに歩んで行く様子を語る。2節に「聖霊によって命じた後」とあるように、イエスが聖霊と聖霊に導かれる弟子たちにゆだねていることがわかる。私たちも自力ではなく、聖霊によって肩の力を抜いて歩んでいこう!聖霊に導かれること=キリスト中心に生きることである!
3日(火)使徒1章3節
復活後の主イエスは、40日かけて何をしたのだろうか?3節によれば、「数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された」とある。つまり、イエスが確かに死から復活したということを、繰り返し弟子たちに分からせようとされたのだ。ということは、それほどに復活の事実が救いにおいて、これからの宣教において重要だということだ。だが、ここでは「ご自分が生きていること」とある。それは単によみがえったという事実だけでなく、今も、天に昇って見えなくなってからも、生き続けておられるということを弟子たちが確信していくためだ。主は、いのちのない偶像ではない。今も日々生きておられ、私たちと交わり、私たちとともに歩まれる主である。主権をすべてを治め、導かれる主である。それは、大宣教命令で「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」と言われたことばの証拠でもあるのだ。そして、これから福音を携えて遣わされて行く者たちに、「神の国のことを語られた」(3)のだ。私たちは、今も力強く生きておられるイエスが王である「神の国」の知らせを届ける、神の国の親善大使とされているのだ。
引用元聖書
聖書 新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会