*** 6/18(水)祈祷会 説教概略 ***
「あの人は偉くなったら、人が変わってしまった」という話はしばしばあります。年齢を重ね、経験を積んだことで、横柄になり謙虚さを失い、ワガママな面が出てくることがあります。人が謙虚さと誠実さを変わらず保つことは、実に難しいことではないでしょうか。
そのために、私たちがいつでも覚えたいことは、「神を恐れる」姿勢です。神を恐れて生きる時、周囲の環境や人の態度が変わっても、同じ神を見続けるゆえに守られます。
15節 さて、モルデカイが引き取って自分の娘とした、彼のおじアビハイルの娘エステルが、王のところに入って行く順番が来たとき、彼女は女たちの監督官である、王の宦官ヘガイの勧めたもののほかは、何一つ求めなかった。こうしてエステルは、彼女を見るすべての者から好意を受けていた。
ここから分かるのは、多くの人の中から選ばれ、特別扱いをされても、エステルは変わらず謙虚で誠実だったということです。女性たちを統括していたのは王の宦官ヘガイです。エステルは「彼の勧めたもののほかは、何一つ求めなかった」と語られています。集められた女性たちは選ばれゆえに、様々な特権があったでしょう。王妃に選ばれれば何でも手に入ると考え、他の女性に負けまいと、必死に自分を美しく飾る者もいたでしょう。競ってあれやこれやと香水や化粧品、飾り物を求めたかも知れません。まるでアイドルのオーディションのような競争があった可能性があります。
その中でもエステルは、既に9節にあったように、責任者のヘガイに特別扱いされていました。それならば、エステルこそ、あれこれ求めることは可能だったはずです。しかし、エステルはそうしませんでした。欲を出すことなく、与えられた物を感謝して受け、謙虚に過ごしていたのです。周囲に流されずに歩んでいたと言えます。
私たちは、あまり良くないことでも、「みんなやってるから」という聖書に拠らない理由で、追従してしまうことがあるのではないでしょうか。しかし、エステルは違いました。神を恐れ、神のなさることにゆだねている人の落ち着きのようなものを感じるのです。品格がありますね。
かつて巡回伝道者であった本田弘慈先生が「社会人は謙虚さが大切だ」とおっしゃっていました。心に残りました。上司に対し、目上の方に対して尊敬を払うこと。偉そうにならないこと。誰に対しても謙虚であることです。それは神の前に正しいことではないでしょうか。
助言を受けた時、主のみことばが語られた時、「でも」「だけど」「そうは言っても」と抗うのではなく、「なるほど」「祈ってみます」と受け止めたいのです。真の謙虚さは「神を恐れること」から来るものだからです。
そして、エステルが主を恐れて謙虚に誠実に歩んでいたゆえに、主は祝福されました。
詩篇33篇18節に「見よ 主の目は 主を恐れる者に注がれる」とある通りです。
それゆえに、15節最後の「こうして」へとつながります。「こうしてエステルは、彼女を見るすべての者から好意を受けていた」と。エステルの魅力は、神を恐れるゆえの謙虚で誠実な姿勢です。ヘガイだけでなく「彼女を見るすべての者から」好意を持たれたのです。もちろん、王にも気に入られました。16節にあるように王のもとに召し入れられたのです。
なお、この16節には「王の治世の第七年」とのことであったと記録があります。1章の王妃ワシュティ事件が、1章3節で王の「治世の三年」でしたから、既に四年ほど経過していることになります。1-2ページめくったら四年も経過しているのです。
神様のご計画はこのような長期的な視点で進められて行くものなのですよね。エステルもモルデカイも知らない四年も前から事は動いていたのです。
こうして17節にあるように、王はエステルを他のどの女性よりも愛し、ついにワシュティの代わりにエステルが王妃となったのでした。ただし、20節にあるように、エステルは王妃になっても、立場が変わっても、調子に乗ったり高慢になったりしませんでした。モルデカイから離れても、養育されていた時と同じように彼の教えを大事にし、従順にて歩んでいたのです。環境や周囲に流されず、神の前に立っている人の姿です。
そしていよいよ、主のご計画が動き出します。
21節 そのころ、モルデカイが王の門のところに座っていると、入り口を守っていた王の二人の宦官ビグタンとテレシュが怒って、クセルクセス王を手にかけようとしていた。
偶然モルデカイがこの場に居合わせたと考えるでしょうか。そうではありません。
「神の摂理」のうちに、神様がこの話を知る機会を彼に与えたのです。それで、22節にあるように、モルデカイとエステルが用いられていきます。
22節 このことがモルデカイの知るところとなり、彼はこれを王妃エステルに知らせた。エステルはこれをモルデカイの名で王に告げた。
エステルはここでも、モルデカイに忠実でした。結果、23節にあるように、この謀反を企んだ二人は処刑され、王の命が守られたとわかります。モルデカイもエステルも、関わらずにいる選択肢もあったかも知れません。危険も伴ったでしょう。しかし、人の前にではなく、神の前に誠実に正しく歩もうとしたと言えます。ここでは、モルデカイもエステルも何の報酬も得ていないようです。
私たちはキリスト者です。先週学んだように「神の子」です。ですから、神の前に良いことか、悪いことかを大切にしたいのです。人から評価されなくても、隠れたところで見ておられる主が恵みと祝福をもって報いてくださいます。それが人ではなく、神を恐れて生きるということです。
ご一緒に語られて参りました。
どのように環境が変化しても、変わらずに主のみことばに堅く立ち続けたいと示されます。高い地位についても高ぶらないで居続けることは難しいことです。周囲の態度が変化し、もてはやされる時、つい偉くなってしまいがちです。その中で変わらないことは、容易ではないのです。それができるとするならば、神を恐れる姿勢を保つことによってのみではないでしょうか。特別な立場に選ばれても惑わされることなく、神のみこころを大切にする者でありたい。自分を心の王座に座らせるのではなく、絶えず、主キリストに心の王座を明け渡し続けることです。
私はここ半年ぐらいで血糖値の改善に取り組んで来ました。持病や体質の影響もあってかなり悪い数値になっていました。しかし、この期間でほぼ目標の数値に到達し、医師からも非常に良いと言っていただきました。なぜ、改善したのでしょう。厳密には神様しか分からないですが・・・。
ただ、振り返ると医師や栄養士さんたちのお話を謙虚に聞いて、妻に協力してもらい、出来るだけ、その通りに従ったことは事実です。個人的には、教えに謙虚に、誠実に従うことの尊さに気づかされています。
エステルもモルデカイも、この後何がどう起こるのかを知りません。また、これまでの歩みにどんな意味があるのかもまだ分かりません。ただ、彼らは神の前に謙虚に、また神のみこころに誠実に生きていたということだけです。主は、「主を恐れる者」に目を注ぎ、祝福し、最善をもって導いてくださるのです。
引用元聖書
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