1.神の声を心で聞く
神様は1-4節で本当に伝えたいことから始めています。
1節 「イスラエルよ、もし帰るのなら、─主のことば─ わたしのもとに帰れ。もし、あなたが忌まわしいものをわたしの前から取り除き、迷い出ないなら、2節 また、あなたが真実と公正と義によって『主は生きておられる』と誓うなら、国々は主によって互いに祝福し合い、互いに主を誇りとする。」
主ははっきり「わたしのもとに帰っておいで」と言われています。なぜなら、神様に背を向け迷い出る時、人は「人生の迷子」となり、滅びへと向かってしまうからです。イエス様を信じていても、心が離れ罪の世の中で傷ついてボロボロになることがあるのです。
マックス・ルケードの「たいせつなきみ」という絵本があります。そこで示されていることは、他人からの評価や能力や財産、成績こそが自分の価値を決めるものとすることが、的外れであること。それによって、いかに自分を傷つけ、疲れさせてしまっているかということです。
何よりも、神様の目には、造られたままのあなたが尊いということを教えています。神様の元に帰り、神様とともに歩み続けることこそ、正しい自分の価値を知る道だということです。
そのような人は、神様を無に等しい存在にはせず、2節にあるように『主は生きておられる』といつも告白して生きるのです。
4節にも目を留めましょう。
4節 ユダの人とエルサレムの住民よ。主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。そうでないと、あなたがたの悪い行いのゆえに、わたしの憤りが火のように出て燃え上がり、消す者もいないだろう。
旧約時代の「割礼」という儀式は、神の民であることの(外的な)しるしでした。しかし、神様の願いは単に「しるし」を持つことではないのです。外面的なしるしではなく、「心の包皮を取り除け」とあります。それは心の割礼です。心を覆う鎧を脱いで、心で神様とつながることです。心において神のものとなることです。
神の怒りが向けられていた当時のユダヤ人たちは、礼拝しなかったのではありません。礼拝していたのです。でも、表で礼拝しながら裏では偶像礼拝をし、神様を裏切り続けていました。だから、神様の願いは、上辺の礼拝行為ではありません。ただあなた自身が、神様の前に正直にすべての心をさらけ出し、心の友となることです。それが神様の願いです。
神の前に獣のようなわきまえの無い姿でいい。闇や歪みを抱えたままでいい。主の前に鎧を脱いだありのままの心を差し出すことです。クリスチャン同士の交わりも同じです。
キレイごとの鎧ガチガチの交わりはこの世に任せておけばいい。私たちは心を包む厚い鎧を脱いで、大声で笑い、一緒に泣きながら歩みましょう。
しばしば、教会は聖なるところだから、ケンカなんてしてはいけないのでは?と思われる方がいます。でも、私は本気で主のためにと思うからこそ、ケンカも起こるし、ケンカしてもいいと思います。キレイごとで終わらない方がいい。
ある子たちは幼い時、大喧嘩してYちゃんはプラスチック椅子を振り上げ、Sちゃんが「それはさすがにダメでしょう」と言った。するとなぜか二人で大笑して、そこから仲良くなりました。かえって絆が深くなりました。やはり主の愛の中にあるからでしょう。
教会でも喧嘩していいのではないでしょうか。キリストの十字架は和解の十字架です。
2.エレミヤの率直な抗議
さて、5-18節では、神様が愛ゆえの警告を伝えています。そして、心のつながりを回復できるよう訴えるのです。5節で「ユダに告げ、エルサレムに聞かせて言え。国中に角笛を吹け。大声で叫べ。」とありますね。
一体何が起こると言うのでしょう。6節にこうあります。
6節 シオンに向けて旗を掲げよ。自分の身を守れ。立ち止まるな。わたしが北からわざわいを、大いなる破滅をもたらすからだ。
安心しきっていたユダの民ですが、北からわざわい・大いなる破滅が来るのです!!それはバビロン帝国でした。しかし、注意深くみことばを味わうと、8節後半にあるように、「主の燃える怒りが、私たちから去らないからだ」と理由が語られています。神様が燃える怒りをもって、バビロンを用いて、人の罪と不信仰をさばかれるのです。では、このような主の燃える怒りに晒されたらどうなってしまうのでしょうか。
9節で、王も偉い人たちも、祭司も預言者も、心が萎え、唖然とし、たじろぐと言うのです。「唖然とする」の部分は元の意味に、「気絶させる」との意味があります。ショックで気絶するほど、神の怒りは圧倒的だということです。どんな偉そうに威張っている権力者も、指導者でも心が折れ、ショックで茫然自失です。でも、神様は意味もなく理由なく怒ったり、さばいたりは決してなさいませんよね。正しい良い方、愛の方だからです。むしろ、人と親しく心と心で語り合って下さるのです。
ここに大切な10節が存在します。エレミヤは正直に神様に向き合いました!!
10節 私は言った。「ああ、神、主よ。まことに、あなたはこの民とエルサレムを完全に欺かれました。『あなたがたには平和が来る』と言われたのに、剣が私たちの喉に触れています。」
とても正直です。エレミヤには疑問もあったのです。そして、その疑問を、こんなこと言っては怒られる、悪い子の疑問だなどと考えず、率直に神様に訴えたのです。ここでは「神」の部分が太字です。原文では「アドナイ ヤハウェ」と表記され、通常のルールだと「主である主よ」となり不自然です。ここでは「神、主よ」と訳し原語のニュアンスを訳出しようとしています。特に神のお名前「ヤハウェ」が使われ、エレミヤが神様に非常に親密に、大胆に訴えていることを示しています。神様との交わりが親しいゆえに、率直に神様と語り合える姿でしょう。
そして、彼は言うのです。あなたはこの民を欺いたのではないですか?と。『あなたがたには平和が来る』と言われたのに、剣が私たちの喉に触れているじゃないですか!と。 実際「平和が来る」と言い続けていたのは、偽預言者たちでした。しかし、エレミヤはこう考えたのでしょう。<神様が偽預言者を滅ぼさなかったから、彼らは語り続けられたのだ>と。彼らの救いさえも願って忍耐しておられた主への抗議とも言えるでしょうか。
エレミヤはいい子ぶらなかった。偽りの心で神様といい加減に付き合おうとしなかった。懐に入り込んで、おかしいと思うことはおかしいと訴えた。しかし、だからこそ、主のお考えがより深く、わかるようにされていくのです。エレミヤは求めたので、与えられたのです。私たちももっと主の懐に、信頼して飛び込んで良いのではないでしょうか。
この10節のエレミヤの神様への訴えに対して、18節に神様からの明確な応答があります。
18節 あなたの生き方と、あなたの行いが、あなたの身にこれを招いたのだ。 これはあなたへのわざわいで、なんと苦いことか。もう、あなたの心臓にまで達している。」
つまり、神様が悪いのではなく、自分たちが蒔いた種を刈り取ることになるだけだと主は言われるのです。自業自得なのだと。なのに人は、神様のせいにしたがりますよね。
神様は人を愛するゆえに自由意志を与えました。ロボットではない。意志も心もある。だから、良いことも悪いことも選べるし、愛することも嫌うことも選べる。自由意思で愛することを選べるからこそ、そこに喜びや感動があるのです。
でも、それは結果も刈り取ることを意味します。良いことを選べば祝され、喜びが世界に広がる。悪い事を選べば、自分も隣人も傷つき、世界は壊れていく。
神様が無理にさせたのではなく、人を尊び自由を与えた。その中で、人が悪を選び続けた結果が心臓に達するかのごとき剣です。この剣はバビロン軍の侵攻でした。13-14節で、バビロン軍が強く、つむじ風のように、鷲のように速くやって来て、エルサレムが荒れ果てていくことが告げられています。まさに、心臓まで刃が届いているほどの深刻な状況です。
3.主からの愛の呼びかけに聞く
それゆえに、本当に皆で心から祈り、立ち返りなさいと主は言われているのです。エレミヤが考えていた以上に事態は深刻なのでした。だからこそ主は、厳しさを増して民に訴えているのです。愛しているから、必死だから、誰にも滅んで欲しくないからこその愛の呼びかけでした。
「タイタニック号」の話を皆さんもご存じでしょうか。何度か映画化されています。豪華客船タイタニック号は、1912年に多くの乗客を乗せたまま沈没し、多くの方が亡くなった痛ましい事件です。実はこのタイタニック号の出航前、そして航海中にも、「氷山にはとにかく気をつけるように」との注意、警告が何度もあったそうです。さらに、乗組員や通信士らも「航路上に氷山があります!」と何度も訴えたそうです。しかし、設計の責任者や運航の責任者らは「心配しすぎだよ。大丈夫、大丈夫。」と儲けばかりを考え楽観視し、これらを聞き入れませんでした。
結果、どうなったでしょうか。夜中に氷山と追突して船は沈み、冷たい海に放り出され、1500人以上もの乗客が命を失ったのです。何度もあった必死な愛の訴えを軽んじたゆえに起こった悲しい事件です。訴える側も必死だったと思います。黙っているようにとの圧力の中で、なお「危険です!」と訴えることは勇気がいることです。この訴えを聞き入れていれば、死なずに済んだ尊い命があったのではないでしょうか。
イスラエルの民の問題はこれと似ているように思います。エレミヤも神様の思いを受けて、国の王や偉い人たちに愛の呼びかけを続けていきます。先ほどの10節のように、時に人間の代弁者として神様に必死に訴え、彼らのためにとりなしました。同時に、神様からのおことばを伝えずにはいられません。救われて欲しい、助かって欲しい、滅んで欲しくないからです。
しかし、偽預言者たちは「心配しすぎだよ。大丈夫。大丈夫。」と言って、愛ゆえに真実を伝えるエレミヤを傷つけました。真実を伝えるエレミヤは迫害されていきます。20章では鞭打ちにされ牢獄に入れられてしまいます。37章では、主のみこころに従ってバビロンへの降伏を勧めた結果、スパイ扱いをされ投獄されます。38章では井戸に突き落とされ餓死させられそうになります。 あなたが心を開くのを主は待っています。降参して、もう神様にゆだねましょう。
「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」 愛の呼びかけに耳を開きましょう。
疑問も嘆きも、叫びも、歪みも全部含めて、神様の前に出し、ゆだねましょう。
主は言われます。1節にありました。「わたしのもとに帰れ」と。心の包皮を取り除いて、つまり、いい人の演技やめ、心の鎧を脱ぎ捨てて、主のもとに行くのです。神様は、本当のあなたと語り合いたいのです。そして、癒し、慰め、助け、あなたを祝福したいのです。