東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: レビ記3章 「神との交わりを楽しむ」 
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2020/02/02

レビ記3章 「神との交わりを楽しむ」 

レビ記3章1-17節

旧約聖書のレビ記を味わいますが、この書が記されたのは、今から3000年以上も前のことになります。旧約とは名前の通り古い契約です。ですから、新しい契約つまり新約聖書によって「更新」されていますので、現代の私たちはこの通りに実行するわけではありません


しかし、その儀式の中に示された意味を学ぶことで、神様ご自身のことや救いの恵みについて学ぶことができるのは意義深いことです。

レビ記3章から、「神との交わりは楽しむもの」であることを学びます。

 以前、ある方がこう言われました。「牧師の説教を聞くことは信徒の義務だと思います」と。

確かにそれぐらい大切なことだという心得は立派だと思いました。
一方で「義務」ということばには違和感もありました。納税の義務というものがありますが、しばしば「税金を取られている」という表現を耳にします。それと同じように「説教を聞かされている」という感覚では残念だなと思うのです。

それは人の意思を尊重してくださる神様も同様ではないでしょうか。
聖書を読まされている。礼拝に来させられている。神様に仕方なく仕えている。
そういう感覚を主は喜ばれるのでしょうか?

礼拝は神様との喜びに満ちた「上質な時間」です。教会生活は神様を中心とした交わりを楽しむものです。ご一緒に教えられましょう。


1. 交わりと和解のいけにえ

 3章の1-5節では牛をささげる場合、7-11節では羊をささげる場合、12-16節ではやぎをささげる場合という形で記されていますが内容はほぼ同じです。

 1節では「そのささげ物が交わりのいけにえの場合には」と始まります。古い訳では「和解のいけにえ」と訳されていました。これらは自発的に、いつでもささげられるものでありました。別の個所では「進んで献げるもの」と言い換えられている個所がいくつかあります。まさに義務ではなく、自分の意志で進んでささげられるものでした。

  そしてその中には「和解」つまり、仲直りの意味も含まれています。それは人が神様に対して犯した罪、背いて無視して歩んできたことについて「神様ごめんなさい」という姿勢の現れでもありました。 実はそのために、2節にあるように「動物の頭に手を置き」罪を告白するのです。
罪深い自分の姿がその動物に投影され、自分の身代わりとして屠られるということです。

 そしてほふった動物の血を祭壇に振りかけられます。
 実はこれは新約時代のイエス・キリストの十字架を現しているのです。キリストは十字架の上で罪ある私たちの身代わりとして血を流されました。キリストの血による新しい契約によって、信じる者の一切の罪が赦され、神との親密な交わりを回復できるのです。これらはそのひな型なのです。

 現代社会でも罪を犯したならば、悔い改め謝罪するとともに償いします。真の和解には犠牲が必要ですよね。聖書が示す罪の解決にも犠牲が必要で、旧約時代はこうして動物をささげていました。旧約時代にはこれらが繰り返されましたが、キリストが来られてもはや動物のささげ物は不要となりました。それはキリストこそが、神の子羊でありこの十字架の犠牲をもって信じる者の罪への赦し、神との交わりの回復がなされたからです。

 

2. 最良のものをささげる時、主はわたしたちを守ってくださる

さて、この「交わりのささげもの」は、その際に動物の脂肪を焼いて煙にするという特徴がありました。例えば3-4節。
3 次に交わりのいけにえから、主への食物のささげ物として、内臓をおおう脂肪と、内臓に付いている脂肪すべて、4 また、二つの腎臓と、それに付いている腰のあたりの脂肪、さらに腎臓とともに取り除いた、肝臓の上の小葉を献げる。 

ここにはどんな意味があったのでしょうか?脂身の部分は人が食べずに焼いて煙にせよとおっしゃいました。これらの内臓付近の死亡は最上のもの、高価な良いものと考えられていました。神様に最上の部分をささげるという意味です。

いつでも良い物で神様を礼拝するという姿勢の現れと言えます。人間が美味しいところを全部いただいて「神様、骨でもどうぞ」というのでは、神様をあがめていませんよね。
賛美も声を合せて美しい心のこもった良きものをささげます。誰に向かって歌われるでしょうか。神様に向かってです。
また礼拝を意味する英語「Worship」は、何度かお話ししていますが「Worth」と「Ship」からなることばで、神様に最高の価値を置く姿勢を意味します。それが礼拝です。
 
 ただ、これは同時に人の健康を配慮してくださる神様の優しさでもありました。食に関する知識も技術もまだ不十分な時代にあって、神様は制限を設けることで彼らの健康を守ってくださったのです。これらの内臓脂肪を全部食べていたら、ユダヤ人は短命になったことでしょう。コレステロールがあっという間にたまり、生活習慣病まっしぐらです。現代のような治療薬もありませんから、死亡率がぐんと上がってしまいます。

17節で血も食べてはならないと教えていますが、血も同様で衛生面から良くないことです。疫病が流行ってしまうでしょう。人の好奇心や欲は際限ありませんが、神様は教えを守らせることを通して、人に聖さや自制心を教え、さらには健康までも与えておられたのです。親が子どもにお菓子ばかり食べてはいけないとか、野菜も食べなさいと教えるのは、子どもの健康を願い幸せを願ってのことですよね。

 
3. 神様の声に聞くことで、真の楽しみ喜びに至る

 それでも、こうした話を聞くと、どうしても聖書は禁欲主義を教えているのかと誤解されがちですが、決してそうではないのです。むしろ、神様は私たちが本当の意味で楽しめるように、心から喜べるように教えてくださっているのです。私はクリスチャンになってから人生が確実に楽しくなりました。何をしても楽しめるようになりました。

 あくまで「例え」に過ぎませんが、ルールを守りフェアプレーをするからこそスポーツは楽しいということと似ています。例えば、私の大好きな「サッカー」を例にとって考えてみましょう。サッカーを楽しむためにはルールや上手にやるコツを教えてもらう必要があります。ルールも知らずコツも知らず、反則だらけ、ただえいっと蹴るだけでは実に少しも面白くありません。感動もないのです。では、どうしたらサッカーをサッカーとして楽しみ、感動できるのでしょうか?それはルールをしっかり守り、フェアプレーで、しかも様々な技を駆使し、華麗なプレーなども飛び出すからこそ、面白いのであり感動するのです!! 神様が私たちに教えておられるのはこれと同じです。

人間は自分が思うがまま、自分がルールだと思い込んで生きていますが、それで人は互いに奪い合い、足を引っ張り合い、独り占めし、傷つけ合っているのです。でも神様は言います。あなたの隣人を愛しなさい。神を愛し、神の国を第一に求めなさい。喜ぶ者とともに喜び、悲しむ者と一緒に泣きなさい。いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことについて感謝しなさい。キリストにあってそうしなさい。こうした教えは、私たちが本当にこの世界で喜んで楽しんで生きていくための教えなのです。この世界の造り主だからこそ、神様は本当の意味でこの世界の楽しみ方をご存知だからです。 

 神様は「食べる」という事が、人にとって大切で、大きな喜びであることを知っておられます。交わりのいけにえの最大の特徴は、祭壇の前で、神様の前で食べるということにありました。家族やしもべたちと一緒に、神様の前で食べるのです。自宅でではなく、祭壇の前、つまり神様の御前で食べます。言ってみれば、神様が招いてくださった愛餐会なのです。申命記12章7節を開きましょう。ここでは全焼のささげ物とともに「この交わりのささげ物(進んで献げるもの)」をささげる時について語られています。

申命記12:7 そこであなたがたは家族の者とともに、あなたがたの神、主の前で食事をし、あなたの神、主が祝福してくださった、あなたがたのすべての手のわざを喜び楽しみなさい。神様との交わりを喜び楽しむものであると教えられています。続く12節でも「あなたがたは息子、娘、男奴隷、女奴隷とともに、あなたがたの神、主の前で喜び楽しみなさい。とあります。神様の前で一緒に食事の交わりをする。それは神の民の大いなる喜び、楽しみであり、実に神様ご自身が喜ばれることです。

先ほど礼拝を意味する英語「worship」についてお話ししましたが、礼拝を意味する英語には「Service」もあります。仕えるという意味です。私たちが神様にサーブする、お仕えする。

しかし、同時に神様ご自身も私たちに仕えてくださるのが礼拝です。神様が御前に招き、私たちを安がらせ、みことばをもって励まし・・・。イエス様も最後の晩餐時、弟子を招きパンをさき、ぶどう酒を分けサーブされました。

先週水曜日の夜、YPNという若者の集まりがありました。


 中高生、大学生、青年の皆さんが集まり、全部で21名ぐらいだったでしょうか?おいしいご飯を一緒に食べ、お菓子も食べ、メッセージを聞いて励まされ、真剣な話もし、他愛もないおしゃべりもし、変顔をし・・・一緒に笑って過ごしました。日本人だけでなく、韓国人、台湾人の方もいましたね。これがただのご飯の会ではなく、神様を中心とした交わりで、神様が楽しませてくださるから心が安らかなのです。神様の愛を覚えながら過ごすから楽しく豊かであり世代を超えてできるのです。


 そして、神様との交わりを楽しむことが「私たちの力」になります。

ネヘミヤ8:10ではこうあります。「今日は私たちの主にとって聖なる日である。悲しんではならない。主を喜ぶことは、あなたがたの力だからだ。」 時に私たちは、自分の罪深さや愚かさ、弱さ未熟さに打ちのめされ、涙することもあります。しかし、神様はその目の涙をぬぐい去り、喜びに変えてくださるお方です。主を見上げる時、イエス様を見上げる時、喜びが湧きあがります。「主を喜ぶことは、私たちの力なのです。」

 だから、賛美をささげると心に力が湧いてきます。みことばから神様のすばらしさを知り感動すると元気がもらえます。兄姉の正直な証しを聞き、神様によって守られ強められていると聞くと、私たちも勇気をもらいます。  

今日、神様はあなたに語っておられます。「わたしとの交わりを楽しみ喜びなさい。わたしがこの世界を造った神なのだから、わたしからこの世界の本当の豊かさを学び味わいなさいと。」 私たちは神様のすぐ近くにいるはずです。しかし案外、神様との交わりを楽しみ喜ぶことを忘れてはいないでしょうか?神の恵みの座には、楽しさがあり、喜びがあり、感動があふれています。 



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