東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ルカ18章31-34節 「十字架の予告」 
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2020/01/26

ルカ18章31-34節 「十字架の予告」 


ルカ18章31-34節 「十字架の予告」 


子育ての学びのテキストにこのようなことがありました。
小さな子どもであっても、あらかじめ予定を伝えてあげることが、その子の人格を尊ぶことになるという内容です。
急に出かける!というのではなく、何時になったらお出かけするから、その前に準備できるようにしましょうと。これから起こること、これからしようとしている事をあらかじめ相手に伝えておくというのは、相手への敬意であり信頼の証しであると思います。

イエス様も弟子たちに対して、彼らがなかなか理解できない(あるいは理解しようとしない)にも関わらず、大切なことを分かち合い予告をしておられました。

そして私たちに対しても神様は、聖書を通して神様のご計画を伝え、しっかり信じて備えるようにと語り続けておられます。そこにどんな神様のお心があるのでしょうか。十字架の予告をなさったイエス様と弟子の姿から教えられます。

 

1. 理解できない弟子  
 
 イエス様はずっと聖書に預言されてきたことが、いよいよ実現することを弟子たちに告げました。今日の場面では、イエス様が人々からどのような苦しみを受けて死んでいくのかをハッキリと語っています。
 
32節 人の子は異邦人に引き渡され、彼らに嘲られ、辱められ、唾をかけられます。33節 彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」 
 キリストの十字架は突然訪れた出来事ではありませんでした。思いも寄らぬ急な出来事ではなかったのです。キリストは十字架の苦しみを知った上でそこに向かって歩んでおられました。自分の歩む先に恐ろしい苦しみが待っている。孤独、痛み、侮辱、死が待っている。それをわかった上で、そこに向かって一歩、また一歩と進んでいかなければならない。崖がそこにあるのに、そこに向かって進む使命のようです。
 
そこに、どれほどの心の戦いがあることでしょうか。
イエス・キリストはご自身が弟子に裏切られ、不当な裁判を受け、暴行され、罵倒され、侮辱されることを具体的に知っておられました。
罪人を救うため、辱めを受け十字架で無残に殺される事実です。
 
弟子たちからすると耳を疑うような内容です。
34節にあるように、残念ながら弟子たちはイエス様のおっしゃっている真意を何一つ理解できなかったのです。なぜなら、弟子たちが期待していたのは、イエス様が権力のある王・英雄として勝利することでした。ローマの支配を力で打ち砕き、ユダヤ人の王国を再建することでした。今の弟子たちには、イエス様がこのような苦しみに遭うとは、全く理解できないことだったのです。

 弟子たちのこの無理解な姿は、私たち自身の姿に重なります。しばしば私たちは自分の先入観や勝手なイメージを持って神のことばを聞くことがあるのではないでしょうか?

 以前、ある方が証しをしてくださいました。
自分は神様に対する勝手なイメージを強く持ちすぎていた。そのために勝手に神様に失望していたと言うのです。
しかし、ある時気づかされたのです。自分が失望した理由は、神様を知らな過ぎたからだと。自分が勝手に「神様はこういうお方だ」と決めつけることで、その「自分の神イメージ」と本当の神様の姿が大きく異なることによって、勝手に失望していたのだと。
 
弟子たちがイエス様の道を理解できなかったのと似ていますよね。皆さんも勝手に自分を物凄くいい人にイメージされると「しんどい」のではないでしょうか?何を言っても怒らない人だとか、聖書のこともなんでも知ってると思われたら困りますよね。


 また、私たちは自分の心配に大量の時間とエネルギーを注いでいますが、主イエス様の友(協力者)として歩むことにどれほど心を注いでいるでしょうか? 
 
 弟子たちが理解できなかった背景にも、主イエス様への関心よりも自分自身への関心が強かったことが影響していたと言えるでしょう。
 
マタイ、マルコの福音書では今日の記事のすぐ後に、イエス様の王座の右と左に座らせて欲しいといった弟子のやりとりがあります。自分の立場に強い関心があったと言えます。
 
そうではなく、イエス様に目を向けたいのです。
主イエス様はご自身が苦しいはずなのに、ご自分のことではなく弟子たちを思われました。かえって弟子の信仰を心配し彼らが倒れてしまわないようにと気遣ってくださいました本来ならば、弟子たちこそは主イエス様の苦しみをよく理解し、良き助け・良き励まし、良き協力者になるべきですよね?
「キリストの苦しみを少しでも担いお手伝いしたい。」と思うべきです。
けれど、実際はどうだったでしょうか?弟子たちは自分の心配ばかりです。だから弟子たちはイエス様のことばを少しも理解できません。しかし、キリストはいつでもご自分のことを後回しにして、目の前の一人を愛しておられます。

 

2. 理解できない弟子なのに  
 
 では、このように理解できない弟子たちに、なぜ主イエス様は、ご自身の十字架の苦しみについて話されたのでしょう?
私たちがイエス様の立場ならばどうでしょう?理解できない弟子たちに話をしたところで、時間の無駄だと思うのではないでしょうか?なぜイエス様は彼らが理解できないにも関わらず、前もってこれを語られたのでしょうか? 
 
 それは、イエス様が弟子たちを愛しておられたからです。理解の遅い、未熟な弟子であることは重々承知の上です。それでも弟子たちを友として愛し、一緒に歩みたいと願う。だからこそ、分かち合ってくださるのです。
もちろん、そこには弱い彼らがつまずかないようにとの配慮もあったでしょう。備えのためであり覚悟をもって歩んでほしいからでもあったでしょう。
 
しかし何よりも、頼りない弟子であっても、主イエス様は彼らを大切な友、大切な仲間だと尊んでくださった証拠なのではないでしょうか。「どうせわからないから伝えない」というのではありません。やがて真理を理解する者となれると期待して、愛のゆえに忍耐深く伝えているのです。

 今ここにおられる皆さんに対しても同じようにイエス様はお考えのはずです。
いつでも主は、私たちを「神の協力者」として期待し信頼を置いてくださっているのです。

 神様からみれば、私たちはいつも「わからずや」です。神様のお心をなかなか理解できません。しばしば的外れであり、文句ばかり言います。
 
神様がおひとりでぜーんぶやった方が早くて完璧なのです!それでも神様は私たちに語る事をやめません。愛するわが子と思ってくださっているからです。
 
 ある家のお父さんと小さな息子が飼っている犬の小屋を一緒に作ることになりました。息子は金槌を持つのも初めて、ノコギリも初めて。経験のあるお父さんが全部やった方が早いし綺麗にできます。でもお父さんは息子のために一緒にやるのです。慣れない手つきの息子に注意を払いながら一緒に小屋を作ります。未熟な息子の作業は欠けだらけです。ギザギザになっている部分、歪んでいる部分をお父さんが息子のプライドを傷つけないように繕いながら・・・。かえって大変です。こんな事なら一人でやった方が・・とも思うことでしょう。それでもお父さんは息子と一緒にこれを作ることを大切にしました。息子はまるで自分がやったかのように、ママ、ぼく犬小屋を作ったんだよと誇ります。息子はお父さんの役に立てた!自分にもこんな良い働きができたと思うのです。お父さんはそんな息子の笑顔を見て、一緒にやって良かったと心から思うでしょう。 
 
 神様が未熟でわからずやな私たちをパートナーとしてくださるのは、まさにこのお父さんのようです。自分でやった方が早いし完璧です。でも、神様の願いは愛するわが子と一緒にやることです。だから、前もって伝え、何度も伝え、ともに歩んでくださるのです。
 
旧約時代はそれこそ、一体何人の預言者が遣わされたことでしょうか?数えきれないほど遣わされ、何度となく神様は御心を伝え続けました。悔い改めず、忠告を無視することを繰り返しているのに。何度も何度も。
アモス書3:7 まことに、神である主は、ご自分の計画を、そのしもべである預言者に示さずには、何事もなさらない。 

神様は勝手になさる権利がある。人に断りを入れる必要さえない。しかし、主は私たちに語りかけ伝えてくださるのです。あなたを神の協力者、パートナーとして選んだのだと。

 今日、神様はあなたに語っておられます。「わたしがあなたを選んだのだ。だからわたしはあなたに隠さず語る。真理を伝える。あなたに知ってもらい、あなたと共に神の国を築き上げたいのだ」と。今日の弟子たちの姿のように、神のみこころを全然理解できていない私たち。自分が一番かわいい自己中心な私たち。臆病で心配症で怖がりです。

でも、主なる神様はそんな私たちに「あなたが必要だ」と親しく声をかけてくださるのです。

主なる神様のこの声に聞いてどう応答するでしょうか。十字架の苦しみを弟子たちに分かち合われたイエス様のお心、それを少しでも理解できる者にならせていただきましょう。それが本当の弟子への道ではないでしょうか。





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