聖書

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わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイの福音書11章28節)

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2020/01/19

レビ記2章 「穀物のささげ物 ~礼拝者の姿勢~」


レビ記2章 「穀物のささげ物 ~礼拝者の姿勢~」

祈祷会にて「恵みに対してアンテナを張り巡らせて、あらゆる物事(本、テレビ、スポーツ、遊び)から豊かに恵みをキャッチしましょう」とお話をしました。
 
スマホ、携帯に馴染んでいる方には「恵みのアンテナを全部立てましょう」の方がしっくりくるでしょうか。
 
するとトラック大好きな某青年が、運転しているときにすれ違う派手なトラックに敏感に気づいてはいるけれど、神様の恵みに気づかないで見逃してしまうことがないように、アンテナを広げてもっと気づきたいと話してくれました。興味深い例えです。
 
まさに、今日のみことばはぼ~っと読むだけなら、「穀物のささげ物」についての細かな決まりの話で「退屈だ」と思うかも知れません。しかし、ここに深い神様の恵みがあることを一緒に味わい、神様を知る機会とさせていただきたいと思うのです。現代のキリスト者は、ここに語られていることをそのままを行うことはしません。しかし、そこに示されている神様のお心を良く理解して、それによって神様を知り、礼拝をささげる姿勢を学ぶことは意義深いことです。

 

「穀物のささげ物」から教えられる第一のことは、労働とその報酬の感謝を現すものだったということです。 ヘブル語で「ミンハー」ということばが用いられていますが「贈り物」を意味することばですが、そこには忠誠や畏敬、感謝の意味が込められています。

1~2節で語られているように小麦粉の形にしてささげました。
大麦、小麦は極めて貧しい人たちでもささげられる物であったそうで、神様は貧しい人々でもささげられるようにと、家畜の肉だけでなく穀物のささげ物を示してくださったのです。あらゆる人に対して配慮を欠かさない主であると教えられます。
 
ただし、それは刈り取ったままではありませんでした。きちんとふるい分けられ、製粉され、手で加工されてからささげられました。あくまでも自分たちで労苦して加工したものを「労働の実」としてささげるのです。

 なぜなら、「穀物のささげ物」は労働できる恵みの感謝とその労働によって得られた収穫の両方を感謝する意味があるからです。
 
私も思い返すと、初めてアルバイトで収入を得た時や、就職後の初任給の時、額が小さくてもとても嬉しかったものです。
 
確かに労働は、最初の人アダムとエバが罪を犯して以来、苦しみが伴うものになりました。労苦して糧を得ることは大変なことです。それでも働けることは健康である証拠であり、努力を認めてもらえる機会でもあり、労苦にふさわしい結果や報酬を手にできる機会でもあります。

 覚醒剤に手を出してやり直そうとしている人のインタビューを読みました。必死に人生をやり直そうと仕事を探し回るものの、断られ続けたそうです。やり直せ!と言うけれど、どんどん人が離れて行き、仕事も得られず非常に苦しんだと・・・。
 
それを読んで、苦しい事が多々あったとしても「働かせてもらえる」こと自体、本当に感謝なことだと改めて思わされました。
 
穀物のささげ物は、労働の実りの一部を神様に選び分けてささげ、働けることや養われていることへの感謝を覚えるものでした。私たちもこの感謝を忘れないでいたいのです。

 そのためにも、私たちがささげる礼拝もいい加減なもの、手抜きであってはなりません。神様にささげる礼拝行為は、何よりも全身全霊をもって私たち自身をささげる行為だからです。
 
残り物をどうぞではなく、良い物を与えてくださる神様に、私たちの良いものを真心からささげます。骨折って準備した精一杯を主にささげるのです。だからこそ、ささげる私たちも嬉しく感動があるのではないでしょうか?  
 
Ⅱサムエル24:24で、ダビデ王はアラウナという人から神へのささげ物を無料で提供してもらえる状況がありました。しかし、この時ダビデ王はそれを拒んでこう言いました。「私はちゃんと代金を払って、あなたから買いたいのだ。費用もかけずに楽して、私の神、主に全焼のささげ物を献げたくはないのだ。」と。
 
無料提供された物は楽でしょう。けれどダビデは、自分が何も犠牲を払わないで神様にささげるなんて「したくない」のだと断ったのです。非常に頑固な対応に思えるでしょうか。しかし、ダビデのこのようなまっすぐな神様への姿勢こそ、神様から喜ばれたのではないでしょうか。
 
 

 第二に教えられる事は、穀物のささげ物の時に添えるもの・混ぜるもの、逆に混ぜてはいけないものにどんな意味があったのかということです。
 
1節によると、小麦粉には油と乳香を添えることが記されています。油は当時の家庭で一般的だったオリーブ油でした。小麦粉にせよ油にせよ、割と誰でもささげやすい物で、神様の優しい配慮と言えるでしょう。
 
油は神の御霊を象徴します。御霊によって礼拝するということに通じます。また、乳香は焼いて煙にされることで、かぐわしい香りとして神様に立ち上っていきます。そこから「祈り」と「賛美」を意味します。あるいは「献身」という意味もあります。
神様を礼拝する者は、人間的な方法ではなくて、神の聖霊に導かれて祈りと賛美をもって自身をささげるのだと教えられます。

 さらに、11節をご覧ください。
11 あなたがたが主に献げる穀物のささげ物はみな、パン種を入れて作ってはならない。パン種や蜜は、少しであっても、主への食物のささげ物として焼いて煙にしてはならない。 
 神様にささげる際には、パン種と蜜を入れてはいけないと教えられています。
 
パン種はほんのわずかでも入ると、パン全体を膨らませるほどの効力を持ちます。「これぐらいならいいだろう」という悪や罪への甘えが人生をやがて破滅に導くものであることを現します。また蜂蜜や果実の蜜はそれを生地に練りこむと全体が変質しやすくなります。これらを入れないでささげることによって、神様への純粋な信仰をずっと保つ大切さを覚えさせてくれます。私たちの神様に対する礼拝や信仰の姿勢が罪によって変わってしまわないように。純粋さを失わないようにです。
 
そして、それと反対の効果をもたらすものとして「塩」があります。
13 穀物のささげ物はみな、塩で味をつけなさい。穀物のささげ物に、あなたの神の契約の塩を欠かしてはならない。あなたのどのささげ物も、塩をかけて献げなければならない。
塩はパン種や蜜とまったく反対なのは、腐敗や変質を防止する役目を担っているということです。そうした意味から昔の人が契約をする際に、ともに塩を食べてお互いの約束がいつまでも変わらない!ことを覚えるために用いられたこともあったようです。
 
塩は中に浸透する力を持ち、腐敗防止の力を持ちます。私たちが救われた時の最初の感動を失わず、いつまでも変わらず神様との親しい交わりをきよく保てるようにとの配慮です。黙示録に「初めの愛に帰れ」とのみことばがあります。純粋だった信仰も慣れてくることで、分かったつもりになり、いい加減になり感動を失います。
 
私たちはいつでも塩気を失わず、神様への子どものような純粋な信仰を変えることなく歩みたいと思わされます。初めの愛に立ち続けましょう。

 

 第三に教えられるのは、これらの「ささげ物から祭司に割り当てられるものと、そうでないものとその意味」についてです。
3節 その穀物のささげ物の残りはアロンとその子らのものとなる。それは主への食物のささげ物のうちの、最も聖なるものである。
 アロンとその子たちは祭司の一族として選ばれました。彼らは土地を所有して酪農や農作業など、他の仕事をすることは禁じられていました。神様に専ら仕えることを命じられていたのです。しかし、それだと祭司たちは、神に仕える厳粛な仕事をしているのに、糧を自ら得ることができませんよね?
 
それで神様は定めました。他の部族が土地で得た収穫を神様にささげ、そのささげられた物の一部を祭司の生活のために割り当てるという原則です。しかもそれら祭司たちに残される食べ物は「聖なるもの」もしくは「最も聖なるもの」と表現され単なる残り物ではありませんでした。
 
ただし、この穀物のささげ物の規定では、神の聖さにあずかるという儀式的意味合いの方が強かったと思われます。もう少しあとの7章の方で、ささげ物の一部が祭司の必要に用いられるよう主が定めている記事が詳しく出て参ります。

 より注目すべきことは、乳香は祭司が受け取る分に入っていないということです。2節でも16節でも、乳香はすべて焼いて煙にされています。なぜ、乳香を祭司が受けなかったのでしょうか?
 
理由は明白です。乳香は先ほど説明したように「祈り」や「賛美」、「献身」の象徴です。祈りも賛美も献身も祭司が受けてはいけません。祭司はただの人間ですから、祈りや賛美の対象となってはいけないのです。
 
神様のみが祈りの相手であり、賛美されるにふさわしい方だということです。神様に向かって献身するのでなければなりません。
神様は本当に一つ一つ意味をもって人に示してくれていることがここからもわかります。


 ご一緒にみことばから教えられてまいりました。穀物のささげ物の規定。それはただ読む限り何の意味があるのか。面倒な細かな話だなと思うかも知れません。しかし、主はこれらのひとつひとつでさえも、意味をもって教えておられます。

  主は私たちに語っておられます。これらのことばをもって、わたしがどのような神であるかを知りなさいと。神様は労働を与えてくださいます。労働の達成感とその具体的な報酬を与えてくださいます。その恵みを感謝し、霊と真を尽くして礼拝しましょう。
 
そこに純粋さはあるでしょうか?精一杯の準備をもって真心から神様に礼拝しているでしょうか? 乳香が祭司にささげられることがなかったように、人にではなく、ただ神様だけに祈りと賛美を自身を心からささげましょう。
 
 

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