東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ルカ19章28-36節「主がお入り用なのです」

聖書

すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイの福音書11章28節)

2020/03/29

ルカ19章28-36節「主がお入り用なのです」


 皆さんお元気でしょうか。新型コロナウィルスの問題は日に日に深刻さを増しており、本当に大変な状況になってきました。私も礼拝をどうすべきかについてここまで悩んだのは「初めて」です。非常に悩ましいものがありましたが、本日はインターネット動画を用いて、皆さんが家庭におられながら「少しでも礼拝できるように」と試みています。どうか皆さんの心が守られ、その信仰が励まされ、心も体も免疫力も強められますように。  
 今の時、私たちは「厳しい状況」ばかりを見て、毎日感染者何人という数字に囚われ、主イエス様を見つめることを忘れてしまいがちです。主の弟子ペテロたちも嵐の湖で「風」や「波」を見て怖くなり、イエス様から目を離し恐れに支配されてしまう場面があります。その時イエス様は「信仰が薄いのはどうしたことか?」と弟子たちを叱りました。

  まさに私たちは今、コロナウィルスばかりを見て「信仰が薄いのはどうしたことか」と主に語られているのではないでしょうか? 

 今回この状況の中で、私は3.11東日本大震災を思い出し、その時の説教原稿を読み返してみました。あの時も大変でした。こんなことが記されていました。
「何が起こるかわからない世界です。死への備え、大丈夫でしょうか?こういう時こそ、すべてをご存知の神様を信頼している強さ発揮したいですね。また、こういう時こそ、主の福音をしっかり人々に伝えていくべき使命を思わされます。私も子供たちに、ちゃんとイエス様を信じるんだよ!そしたら、何かあっても天国で逢えるからね!と念を押しました。」と。

 
実はこの時、小学生だった長女が確信をもってイエス様を信じる機会になったことを覚えています。何があるかわからない世界だけど、行きつく先は天国!と約束しました。イギリスでは21歳の持病のない女性がコロナで亡くなりました。元気な若い人でも危険があることがわかります。ある意味誰もが、死と命に真剣に向き合う機会ではないでしょうか。

天国でお互いにしっかり再会できるよう、魂の備えをしておきたいのです。ですから、私たちは困難な時に下を向いているだけで終わってはいけません。この時に、神の民の使命は何かということを覚えたいのです。しっかりと危機意識を持ちながら、天国行きのチケットを大切な人々に届けたい。そして、今日のみことばにあるように、私たちにはこの状況において「主がご入用なのです」と語られていることを受け止め、この日本、この世界のためにどうか私を用いてくださいと祈る者となりましょう

 

本日のみことばは、イエス様が十字架に向かって歩みを進め、エルサレムに入城される場面です。来聖日が「しゅろの日曜日」で、35-36節に触れられているように人々がイエス様のエルサレム入城を歓迎し、自分たちの服を地面に敷いて、あるいはしゅろの葉を掲げて歓迎する場面です。しかし、その際にイエス様が必要とされた乗ることが出来る動物がいます。

何でしょうか??久しぶりの3択クイズです(動画配信記念)。 

①だちょう ②わに ③ろば 正解はろばです。
 

29-30節 オリーブという山のふもとのベテパゲとベタニアに近づいたとき、イエスはこう言って、二人の弟子を遣わされた。30 「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばが、つながれているのに気がつくでしょう。それをほどいて、連れて来なさい。31 もし『どうして、ほどくのか』とだれかが尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」

 誰も乗ったことのない「子ろば」でした。イエス様はあそこの村から、子どもろばを連れてきなさいと弟子に頼んだのです。ただ、31節にあるように誰かが「どうして、ろばの縄をほどくのか」と聞いてきたら、こう答えよと言われました。

どう答えるのでしょう?

 「主がご入用なのです」です。すごい答えだと思いませんか。「主がご入用なのです」コレだけです。これで十分だとイエス様は教えておられたのです。

 

これがイエス様の権威です。私たちがお従いしているイエス様は、この世界のまことの王なのですから!

なぜ連れていくのか?主が必要とされているからです。なぜ奉仕するのか、主が必要とされているから。なぜ私のような罪深い愚か者が語り続けるのか?主がこんな者でも必要だと言ってくださるからです。それ以外ない。なぜ生きるのか?主があなたを必要だと言われるからです。私たちはこの一言で十分ではないでしょうか。


 このろば以上に、神様はあなたを必要としています。そうでなければ、どうして自分の大事な子をあなたの代わりに十字架にささげるでしょうか。あなたの髪の毛の数までご存じの神は、あなたを愛し必要としています


 
ワンピースという有名な漫画の名ゼリフを以前若者向けのメッセージのために勉強しました。時間の関係で要約しますが「人はいつ死ぬのか?ピストルで撃たれた時か?不治の病に侵された時か?毒キノコを食べた時か?いや違う。人から忘れられた時さ」 肉体の死よりも深刻な死は、誰からも心配されない、誰からも求められない、誰からも必要とされない事。


肉体は生きていても、愛されること必要とされることを知らない人は「生ける屍」のようです。ですから私たちが、この世界の造り主から必要とされ、お役に立てるとしたら、なんと幸いでしょうか。以前、祈祷会で小さな子どもたちが献金袋を回す役をしてくれていました。献金袋を回すお手伝いができたときの子どもたちの嬉しそうな顔が忘れられません。「お役に立てた!」その喜びです。イキイキしてきます!

 
 でも、疑問があります。なぜイエス様が必要とされたのは馬ではなくろばだったのでしょうか。馬の方がかっこいいでしょう。


第一の理由は、旧約聖書において預言されていた神のご計画だったからです。 ゼカ 9:9 娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。見よ、あなたの王があなたのところに来る。義なる者で、勝利を得、柔和な者で、ろばに乗って。雌ろばの子である、ろばに乗って。 「子ろば」に乗ってエリサレムの入る事は、はるか昔からの神の約束(ご計画)でした。しかし、ろばに乗った王など聞いたことがありません。「王様の耳はろばの耳」ならありますが、「ろば乗った王様」は聞かない。普通、王様は馬に乗ります。立派な馬に乗るでしょう。それは王の権威を示すためでもあります 一方ろばは戦いではほぼ役に立たないし見栄えがしません。しかも子どものろば、小さなろばです。けれどそこにイエス様のご性質を示す意味がありました。  
第二の理由は、イエス様のご性質や使命を最もよく示すのに「ろば」が最適だったということです。ろばは温厚で働き者です。平和の用向きに用いられます。それは、イエス様が柔和で謙遜で誰よりもへりくだる「愛の王」「平和の王」であることを示しています私たちはイエス様の乗られるこのろばのようでありたいと思うのです。

  ろばのようにイエス様を人々のもとに運んでいく者でありたい。ろばのように争わず、平和のご用に用いられたい。馬のように速く走ることができないかも知れません。馬のように足も長くない。見栄えも良くないかも知れない。でも「主がご入用なのです」と主が必要ならば、それだけで誇らしい。それだけでいい。いや、それだからいいのです。むしろ立派な馬ではないからこそ、主イエス様に人々の目が注がれるのかも知れません


 私たちは今、あまり経験したことがないような状況に置かれています。閑散としたイタリア、スペイン、フランスの街並みに驚き、NYの静けさに目を丸くします。この東京でも急激に感染者が増え、ニュースを見るのが段々嫌になってきました。でも、見て把握していないと正しい対処ができない。疲れますよね。でも、この時に「主がお入り用なのです」と私たちは語られました。ロープで縛られつながれたままでは役に立ちません。恐怖に怯えて囚われたままでは、用いられません。しかし、主が必要だと言って、その縄をほどいてくださるのです。主イエス様をお乗せする者になりませんか?


 
 今の時に示されたみことばを分かち合い終わります。

第二歴代誌7:13-14 わたしが天を閉ざして雨が降らなくなったり、あるいはわたしがバッタに命じてこの地を食い尽くさせたりして、わたしがわたしの民に対して疫病を送ったときには、わたしの名で呼ばれているわたしの民が、自らへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求めてその悪の道から立ち返るなら、わたしは親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地を癒やす。 

 
新型コロナウィルスも疫病の一つと言えるかも知れませんね。その時に、神の民はどうすべきなのか問われています。神の民だからこそできること、すべきことが語られているのです。主は言われます。「わたしの名で呼ばれているわたしの民が、自らへりくだり、祈りをささげ、主の御顔を慕い求めてその悪から立ち返りなさい」と。

これが、私たちに今求められていることではないでしょうか。

 キリストの名で呼ばれているキリストの民、クリスチャンである私たち。世の中の人に「へりくだれ」と言う前に、神の民がまず神の前にへりくだる必要があるのです。強いられてではなく「自ら」です。へりくだる者は主にみこころを求め、主の助けなしには生きられないので、心から祈り、主の御顔を慕い求めます。主の御顔を慕い求めるとは、神様がどのようなお方であるかを知ろうと一心に努め、神様と心の通う親しい交わりを持とうとすることです。神様のお心を理解する交わり、生きた交わりを持ち続けることです。

 主はこの祈りにこそ聞いて、罪の赦しと、この地の癒しを与えてくださるのです。

 

 今回、礼拝をどうするか・・・本当に悩み主の御顔を求めて祈りました。みことばを求めました。それでも、これが正解かわかりません。ただ必死に格闘したことで教えられることがありました。それは「礼拝をした(できた)」という事実や記録が大事なのではなく、「ひとりの人が心から主を礼拝すること」が大切なのだと

 

 礼拝の場に行った、参加した、何回通った、何人集まったという記録ではなく、その人が心から主を礼拝できるか・・・そこが大事です。それを考えた時、今回皆さんが、外出自粛要請の中、感染者急増の中、礼拝に集まるのにさえ迷いや罪悪感を持つ。証しにならないのではないか、迷惑をかけるのでは?と。そして、家庭で礼拝することを選んでも「礼拝に行っている人がいるのに、自分は不信行なのでは」と孤独感や罪悪感を持つ。

 
行っても辛い、行かなくても辛い。どちらもモヤモヤしたまま礼拝するぐらいなら、「礼拝に行きたかったのに、牧師が礼拝を中止にし来るなと言ったので教会に行けなかった。仕方ない、置かれた場で心から礼拝するか」と皆さんに迷いなく礼拝して欲しいためでした。 私は皆さんにお会いできないのはやはりさみしいです。主が下さった礼拝堂に人がいないのは悲しいです。でも、集まれなかったことを通して、大切なことを主から教えていただいていると信じます。

そして、今日はお会いできず、離れていても、私たちは同じ主を見上げている。離れていても、同じ主の民、神の家族であることを信じます。





 

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