東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 2019年度メッセージ
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2019/12/08

なぜ、マリアは受け入れることができたのか?


マリアは言った。「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」すると、御使いは彼女から去って行った。(ルカ1:38

まだ10代の若者、そして処女であったマリアにとって、それはあまりにも唐突な話でした。目の前に天使が現れ、「あなたは身ごもり、男の子を産む。名をイエスとつけよ」と言われます。

男性を知らないマリアにとって、ありえない話に思えたはずです。

しかも、その子はいと高き者、この地の支配者、その支配が終わることはないとまで言われるのですから、信じがたい話です。

けれども、彼女は自分の心の「ありえない」という声にではなく、天使が告げた神のことばに耳を傾けました。

「親類のエリサベツを見なさい」とのことばに、神の優しさを感じます。

エリサベツは不妊症かつ高齢でした。
二重の意味で妊娠が不可能と思えました。

しかし、事実妊娠6か月目を迎えていたのです。

神がすでに奇跡を身近でなさり「神には不可能なことはない」という宣言が確かな根拠の中で語られていると気づくのです。

信仰生活とは、一人ぼっちで自分の信仰で何でも乗り越えていくものではありません。

マリアがエリサベツ夫妻に起こった奇跡によって励まされたように、私たちも自分が信じきれない時、弱さを覚える時に、周りで信仰をもって歩んでいる兄姉の姿にどれほど励まされることでしょうか。

人の常識の檻から出て、神のみわざの確かさに立つ時、「おことばどおり、この身になりますように」と信じて歩む者とされ、大いなる恵みを受けるのです。




2019/12/01

ベツレヘムという町


「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で、あまりに小さい。だが、あなたからわたしのために、イスラエルを治める者が出る。その出現は昔から、永遠の昔から定まっている。」(ミカ5:2) 

キリストが生まれた地はベツレヘム(名前の意味は「パンの家」)という小さな町でした。

エフラテと付けてあるのは、当時「ベツレヘム」という地名が他にもあったので区別するためでした。

どこにでもありそうな小さな町ベツレヘムで、救い主がお生まれになるという不思議。

それは神が昔から定めておられたご計画でありました。

人の予想、人間的な期待を見事に裏切るような神の深いご計画がそこにあったのです。

多くの人は聖なる都エルサレムこそメシヤが生まれるのにふさわしいと考えたでしょう。他にももっと大きな都市が選ばれてしかるべきだと考えたことでしょう。

しかし、この救い主は小さな取りに足りない者にさえ目を留め、救ってくださるお方です。

お金持ちや地位の高い者だけでなく、小さな弱い者にさえ栄誉をくださるすべての人の主です。そして、このあまりにも小さな町だったベツレヘムですが、救い主が出た町として大きな栄誉を受けました。

それはキリストを心に持つに至った者の人生を象徴しているのです。

小さい者、弱い者、取るに足りない者と思うならば、ぜひこのキリストを知ったゆえに、神の前にもはや小さな者ではないことを覚えましょう。



2019/11/24

子どものように受け入れる


まことに、あなたがたに言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」(ルカ18:17) 

神の国は不思議です。経済力や発言力、権力や知名度などは、そこに入るために一切役に立たないのです。それでいて、無力で弱くて誰かの世話にならなければ生きていけないような、小さな幼子たちの方が神の国に入りやすいのですから。この世のあり方とは全く異なる世界なのだと気づかされます。

私たちは大人になるにつれて色々なものを持ちすぎてしまっているのかも知れません。

地位や名誉、財産、様々な責任、重荷。

あまりにも背負い過ぎてそれが神の国に入るのに妨げになっているのです。

戦国時代に盛んになった茶室の交わり。面白いことにその茶室には「にじり口」という小さな入口があります。

あえて入り口を小さくしてあるので、武将たちも鎧や刀を身に着けたままでは入れませんでした。
また立ったままでは入れず、身をかがめ小さくして入るものでありました。

神の国はそれに似ていると思います。

色々な物をまだ背負ってなかった子ども時代。
あの頃のように小さな者となって入るのです。
神の前には誰も自分を誇ることなどできないのですから。

背負っている物、自身を守るための鎧、人を傷つける刀を後にして、ありのままのあなたで神の国に入らせていただきましょう。

2019/11/20

野の花を見なさい

ルカの福音書12章27-28節より

27節  草花がどのようにして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装ってはいませんでした。 
28節  今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、どんなに良くしてくださることでしょう。信仰の薄い人たちよ。 

普段から花を見ながら過ごせるのはとても良いことです
 
実にイエス様も、野に咲く草花を見て考えなさいと言われています。
 

2019/11/17

高くする者は低くされ、低くする者は高くされる


一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神様、罪人の私をあわれんでください。』あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。」(ルカ18:13-14) 

最も深刻な罪は、自己正当化の罪だと言えます。

自分はいつも正しいと信じきっているので、罪を認めることができず、悔い改めができないのです。

自分を正しいとする者には、キリストの十字架は不要となってしまいます。神の赦しを必要としないのです。


そのように自分を高く正当化する者はそのままでは救いに導かれることができないので、神はその人を砕き罪に気づかせようとなさいます。それもまた「神の愛」から出ているのです。

私たちがしばしば砕かれるのは、自分の高慢や正当化する罪に気づき、この取税人のようにへりくだって、神にあわれみを乞う者となれるようにするためです。

神の国は、そのように自分を低くする者に開かれます。

自分で必死になって上を目指さなくても、神がその人を高くしてくださるのです。

自力で高く大きくして誇る者は、その門をくぐれません。神の力を拒絶してしまうのです。

神の前に謙虚になりゆだねましょう。必要な時に神が高くしてくださいます。

2019/11/10

次世代へ語り継ぐもの


これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家で座っているときも道を歩くときも、寝るときも起きるときも、これを彼らに語りなさい。(申命記6:7) 

申命記は、約束の地へ入る手前で、モーセが死を目前にして語った告別のメッセージです。

自身はカナンの地に入ることができず、その前で天に召される。

そんな状況の中で、次世代の民へと伝えたいものがあったのです。

それは、あなたの神、主を愛することです。

カナンの地には偶像礼拝、異教の文化の誘惑が多分にありました。しかし、そこで流されることなく、みことばに立って、主だけを生涯愛して仕えるようにと伝えたかったのです。

 
私たちも、次世代に何をどのように伝えたいのでしょうか。

教会学校で子どもたちが教えられ、育てられることはすばらしいことです。ぜひ、子どもたちを教会学校に参加させていただきたいと心から思います。

一方で、教会学校で見てあげられる時間はわずかです。週1回の限られた時間で伝えられるものは多くありません。ですから神は民に対して、それぞれの家庭、日常生活の中で子どもたちによく教えるように言われました。

家でゆっくり座っているとき、道をともに歩いているとき、寝るとき起きるときも・・・。
日常のあらゆる場面で子どもたちに神を心から愛して歩むことを教えよと命じられました。

子どもたちは、大人が普段の生活の中でどのように神とともに歩んでいるかを見て、神の偉大さやすばらしさを知ります。

改まった機会にではなく、つくろった外側ではなく、毎日の歩みの中で親や大人たちから学びます。

子どもたちの祝福を心から願うならば、私たちはこの責任を祈りのうちに全うすべきでしょう。

神はこれを大切なこととして「聞け!イスラエルよ」と注意を呼びさましながら示されたのです。

2019/11/03

神に近づく道


その全焼のささげ物の頭に手を置く。それがその人のための宥(なだ)めとなり、彼は受け入れられる。(レビ記1:4) 

実はレビ記の本来のタイトルは「レビ記」ではなく、「そして彼は呼んだ」というヘブル語一語とされています。

出エジプト記の最後で幕屋が完成しましたが、神の栄光が満ちておりモーセは中に入れませんでした。

それで、レビ記の最初ではその幕屋から主なる神がモーセに呼びかけ語ってくださったのです。

いつでも神の招きが先にあり、招かれて初めて私たちは神のもとへと近づくことができるということを教えられます。


ここで語られたことは、幕屋でどのようにして神礼拝をなすのかということでした。

神に受け入れられる道筋が教えられているのです。

礼拝の初めに「招きのことば(招詞)」というものが読まれます。

それは、神がまず私たちを御前に召してくださるということであり、それなしには礼拝をささげることすらできない私たちなのです。

圧倒的な聖、輝かしい栄光の前に、人は本来そのままの姿で神に近づけば自ら滅ぶことになります。しかし、神が備えられた道、すなわち罪のきよめのささげ物を通して神のあわれみのうちに受け入れられていくのです。

罪ある人間が滅びずに聖なる神に受け入れられるために、動物のささげ物の頭の上に手を置いて祈ることを主は教えておられます。傷のない動物が選ばれ、私たち罪ある人間の身代わりとしてささげられるのです。 


これはまさに神の子羊イエス・キリストの雛型(ひながた)です。

神が聖なる方であるように、私たちもキリストの十字架の贖いによって罪赦され、聖なる者とされて神に大胆に近づけるようにされたのです。

このために神が払われた尊い犠牲に感謝します。

2019/10/27

信じるなら、主の栄光を見る!


そのとき、雲が会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。(出エジプト記40:34) 

 イスラエルの民は、神のご命令の通りに幕屋を建設しました。

自分たちの好むようにではなく、いい加減にでもなく、主がモーセに命じられた通りの材料で、語られた通りの構造に造りました。

そして、いよいよ完成したとき、このみことばにあるように「主の栄光」が幕屋に満ちたのです。

主の栄光がその場に満ち溢れたので、モーセさえその天幕に入ることができないほどでした。人間の栄光のためではなく、ただ主のおことば通りに聞き従い、主の栄光を求めてなした時に、このように主の栄光で幕屋が満ちたのです。

どんなに立派な幕屋を建てようとも、そこに神の臨在がなく、神の栄光が現れないものならば、何の意味もありません。

人の求める栄光はむなしくすぐに消え去ります。

「自分の栄光」ほどむなしく消え去るものはありません。

ソロモンは圧倒的な財力、比肩する者なき知恵があり、あらゆる快楽や事業に取り組みました。
しかし、贅沢の限りを尽くし自分の栄光を現わしたどり着いた結論は「神を離れては何をしてもむなしい」というものでした。

日本でも豊臣秀吉は、自分の栄光をひたすらに追い求め、農民から天下人にまで立身出世した人です。金銀財宝を得て、多くの家臣を得ました。しかし、彼の最後もまたむなしさに満ちていました。
自分の人生は朝露のように現れてはすぐに消えるむなしいものだった。まるで夢を見ていたようにはかない人生であったと、さみしさに満ちた歌を残して世を去りました。

しかし、神の栄光は人に幸福をもたらし約束の地へと導いてくれます。

そして、それは消え去ることのない永遠の輝きです。

イエス・キリストも言われました「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。」(ヨハ11:40)。

私たちは主イエスを信じて生きるならば、主の栄光を見させていただけます。みことばの通りに歩むときに、神の栄光が幕屋満ちたように、私たちもみことばに忠実に歩んで生きましょう。


私たちの歩みが主の栄光を現すものとなるよう切に願います。


あなたはどんな栄光を求め、どのような方法でその栄光へたどりつこうとしていますか。
 

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