東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 2019年度メッセージ
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2019/10/20

真理と自由


イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8:31-32) 

イエスを信じたユダヤ人たちに、主イエスはこれを語られました。

信仰というものが、決して一時的なものや表面的なものでないことがこの事からわかります。

神の真実の啓示者であるキリストのことばにとどまり、従い続ける人こそ名実ともに、キリストの弟子であり、その人こそ真理を知る者とされていくのです。

「真理を知る」とは、キリストを知ることであり、同時にそれは父なる神を知ることです。

真実な神を知識だけでなく人格的に知る者となり、その人こそあらゆる束縛、支配から解放され自由とされるのです。

それが神がくださる「救い」であり、キリスト者はこの真理をお伝えし、人々を真の自由へと導くために召された主の弟子です。

しかし、私たちの生活がみことばとかけ離れているならば、人々が私たちを見て真理に気づくことは難しいでしょう。

「真理」は、みことばと行いの一致を意味することばだからです。ですから、みことばと行いが完全に一致しておられるキリストから目を離さずに歩んでまいりましょう。

そして、真理を知るということは、自分の本当の姿を知ることでもあります。

聖書という鏡を通して、私たちは自分の本当の姿と直面します。キリストを知るほどに、自分の汚れ、罪深さ、心の闇にも気づかされていきます。愛のない者、飢え渇いている者であると知ります。

しかし、これこそ、私たちが自由にされていくために必要なことです。

「裸の王様」が不幸なのは、自分が裸であるという真実を知らなかったからです。

多くの人が教えてくれませんでした。

でも、王様自身が、そうさせていたとも言えます。

私たちは謙虚になって、自分の罪を素直に認め、そこから解放してくださるキリストに留まり続ける者となりましょう。

そして、この真理を知らず、自分が闇の中にいることも気づかないでいる人々にこの真理を分かち合い、本当の意味であらゆる束縛から解放され、自由になっていただければと願うのです。


2019/10/13

失望せず、あきらめず!祈ろう!


まして神は、昼も夜も神に叫び求めている、選ばれた者たちのためにさばきを行わないで、いつまでも放っておかれることがあるでしょうか。(ルカ18:7) 

たいていの場合、私たちはあきらめるのが早すぎます。そしてすぐに失望します。

「失望」は悪魔が大好きなことばではないでしょうか。

神に祈っても無駄。

神はあなたに心を留めない。

彼はそんな声を私たちに吹き込んでくるのです。

しかし、主イエスは失望せずに祈り求めることを教えてくださいました。

たとえ人でなしの裁判官でさえ、しつこく必死に訴えてくる人にやむなく応じるものであるとのたとえ話を主は語られました。

しかも、その訴えた人は当時の社会的弱者である「やもめ」でした。

多くの場合、軽んじられがちなやもめでさえ、しつこく必死に訴え続ければ、人でなしの裁判官も動かされることがあるのです。

そうであれば、愛と真実に満ちた神が、ご自身が御子キリストを与えた人間のために、すべてを働かせて助けてくださらないはずがありません

ですから私たちは、決して失望せず、あきらめず、期待をして神に祈り求める者となりましょう。

主に信頼する者は、決して失望させられることはないからです。

失望しない!あきらめない!と心に決め、今日も祈りましょう!

(2019年10月13日 週報掲載)

2019/10/06

あり余るほどに


モーセに告げて言った。「民は何度も持って来ます。主がせよと命じられた仕事のためには、あり余るほどのことです。」(出エジ36:5) 

 神を礼拝し、神のお心を知るための会見の天幕作りがなされていました。その時、神は召した者をご自身の霊で満たし、知恵を授け、他の人に教える思いも与えてくださいました。やり通す「志」でさえも主が与えてくださったのです。

自分の情熱ではなく、主の霊がくださる熱心によって、私たちは心燃やされていくのです。

そのような者たちが材料を献品し作業をしていった結果、驚くべき事が起こりました。

このみことばにあるように必要な材料が足りないということはなく、なんとか満たされたというのでもなく、「あり余るほど」与えられたということです。

彼らは自分にある物を献げ、自分に与えられている技能を献げただけです。

しかし神の霊に満たされ心からした時、あり余るほど十分であったことがわかります。

多くの場合「足りない」と嘆く私たちではないでしょうか。しかし、物が足りない、人手が足りないのではありません。「主の御霊に満たされる人」が足りないということではないでしょうか。

神の人として自分を献げるときに、神の祝福によってあり余るほど十分与えられるのです。
(2019年10月6日 週報掲載)

2019/09/29

聖書を知っていれば大丈夫 ~終わりの日への備え~



人々は『見よ、あそこだ』とか、『見よ、ここだ』とか言いますが、行ってはいけません。追いかけてもいけません。人の子の日、人の子は、稲妻がひらめいて天の端から天の端まで光るのと、ちょうど同じようになります。(ルカ17:23-24) 

 キリストの再臨についてはイエス自身が語っているみことばによって正確に知っておくことが大切です。世の終わりに近づくにつれて、キリストを名乗る人が多く現れ、人々を惑わそうとすると書かれています。

あそこだ、ここだと騒ぎ立てること自体、偽者の証拠であると言えます。

ここにあるように、人の子の日、すなわちキリスト再臨の日には、稲妻がひらめき天の端から端まで光るのと同じようにして来られるのです。

それは、どの地域に住んでいようと、誰でもわかるほど明確なしるしなのです。

このように、終わりの日に備える最良の方法は、イエス・キリストご自身のことばをよく心に刻んでおくことです。

世の終わりに関する聖書のみことばを知っていれば、焦ったり動揺したりする必要がありません。

語られている通りのことが、その通りに起こるだけのことです。

神を心から信じて、心を騒がせることなく、聖書のことばがひとつひとつ実現していくことを数えながら備えていきましょう。
(2019年9月29日 週報掲載)

2019/09/24

15分で学ぶ 預言者ヨナの人生 


B.C.8世紀頃の話。イスラエルにヨナという預言者がいました。神様は彼に北東にあるニネベの都に行き、神の救いを知らせよと命じました。ニネベの都に積み重ねられた悪行がひどく、神様が滅ぼされようとしているというわけです。
 
ところが、預言者ヨナはこれに逆らいました。
1:3 しかし、ヨナは立って、主の御顔を避けてタルシシュへ逃れようとした。

2019/09/22

神の国を受け入れる


『見よ。ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。(ルカ17:21) 

神の国はいつ来るのか」とパリサイ派の人々はイエスに尋ねました。

彼らはその時、まさに目の前に神の国を目撃していました

それなのにこの問いをキリストに投げかけたのは、彼らの心の目が閉ざされていたからに他なりません。神の国の王はイエス・キリストご自身であり、キリストがこの地上に来られた目的は神の国に人々を招き入れるためでした。

キリストが悪霊を追い出し、病をいやし、人々を絶望から希望へと導かれている現実こそ、神の国が始まっているという事実そのものです(マタイ12:28)

「あなたがたのただ中にある」と言われたのは、神の御子が人の姿をとって、人の間に住むようになられた事実です。

パリサイ人たちが今見ている、取り囲んでいるキリストがそこにいることこそ神の国の到来であると知って欲しいからです。

子どものように神の国を受け入れる者でなければ、神の国に入れないと語られているように(マルコ10:15)、そこに見ている、聞いているだけで終わらず、心を開いて受け入れる者となりましょう。

神の国は一度入った者を決して見捨てない永遠の御国です。
(2019年9月22日 週報掲載)

2019/09/15

主が喜ばれる姿勢 ~心から進んで~


イスラエルの子らは男も女もみな、主がモーセを通して行うように命じられたすべての仕事のために、心から進んで献げたのであり、それを進んで献げるものとして主に持って来た。(出エジプト35:29) 

ゆがんだ宗教観のゆえに、キリスト信仰もしばしば誤解されることがあります。

戒律を機械的に守ることが信仰生活であるかのような誤解です。

しかし、聖書はとても丁寧に、人の心の動きを描写しています。

この場面もそうですが、「心から進んで」ということばが強調されているのです。

少し前の21節でも「心を動かされた者、霊の促しを受けた者」と語られ、旧約時代の人々もまた、義務感や恐怖心で神に従ったのではなかったことがわかります。

むしろ、神のあわれみ深さに感動し、そのみおしえの素晴らしさに感銘を受け、そこにある真実と恵みに応答するようにして、心から喜んで神に仕え、献身したのです。

むしろ、私たちの心にある固定観念や決め付けが、こうした自発的な歩みを妨げています。

焦る必要はありません。まず神に祈り、神のみことばなる聖書をよく味わいましょう。

キリスト者と語り合いましょう。

その時、不思議とこんな自分でも何かを献げたい。何かをさせていただきたいとの思いが生まれてくるはずです。

(2019年9月15日 週報掲載)

2019/09/08

神をあがめる人生を歩もう


そのうちの一人は、自分が癒やされたことが分かると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリア人であった。(ルカの福音書17:15-16

 ツァラアトという難病をイエスに癒してもらった人々は10人。しかし、そのことで神をあがめ、ほめたたえながら戻って来てイエスに感謝した人は1人だけでした。

しばしば信仰というものを、願いを叶えてもらうための手段にしてしまってはいないでしょうか。

助けてもらいたい時には、今までにないほど必死に祈ります。

しかし、祈りが応えられるとごく短く感謝を済ませ、あっという間に忘れてしまうのです。

何のために癒してくださったのでしょうか。何のために助けてくださったのでしょうか。

私たちがその出来事を通して神のすばらしさを体験し、そのみわざの豊かさを人々に語り告げ、神の栄光を現すためではないでしょうか。

今まで以上に神に信頼し、神をあがめる人生を送るためではないでしょうか。皮肉にもこの時、神をあがめながら感謝しに帰って来たのは、選民ユダヤ人ではなく、彼らが嫌うサマリア人です。

神の前に喜ばれることは、生まれを誇ることではありません。

いただいた神の恵みに心から感謝し、神をあがめて生きていくことです。
(2019年9月8日 週報掲載)
 
 

2019/09/01

輝く日々 神とともに


それから、モーセはシナイ山から下りて来た。モーセが山を下りて来たとき、その手に二枚のさとしの板を持っていた。モーセは、主と話したために自分の顔の肌が輝きを放っているのを知らなかった。(出エジプト記34:29

 現代の世界情勢を見る時、闇が日に日に深まっていると感じます。しかし、神の光の中を歩むよう招かれているキリスト者ですら、希望を見失い暗い表情でギリギリ生きているという人が少なくないように思えます。悪魔はそれを見てほくそ笑んでいることでしょう。

私たちは闇の中で色を失い、闇と同一化してはなりません。世の光として召されたキリスト者こそ、神の御顔の輝きを世に現すひとりひとりでなければなりません。

けれどもそれは、人の血肉の努力によるものではなく、キリストの御霊によることです。

モーセが神の前に時間をささげ、4040夜ともに過ごしたゆえに、その顔が神の栄光の輝きを帯びていたのです。

私たちもまた神の御顔の輝きを求め、御霊によって主と親しく歩ませていただきましょう!

神との時間をどれだけ大切に過ごしているか。

それが私たちの輝きそのものであると知りましょう。闇に長く身をおけば闇に染まりますが、神の御顔の光の中を歩めば、あなたにその輝きが与えられていくのです。

「主から豊かに受け、人に豊かに与えていく」

これこそ、キリスト者の信仰生活の神髄ではないでしょうか?
(2019年9月1日 週報掲載)

2019/08/25

主により頼む時、つまずきから守られる



同じようにあなたがたも、自分に命じられたことをすべて行ったら、『私たちは取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい。」(ルカ17:10) 

 私たちがつまずいたり、つまずかせたりしてしまう原因は、神により頼まず自身の力を頼る高慢が挙げられます。私たちは自分が思っているよりも弱く、罪の罠におちいりやすいものなのです。

それらは「自身の祈りの巧みさ」や「自身の信仰の強さ」によって勝利できるものではなく、主の助けを求め、主より知恵と力をいただき、主の御霊の導きによって勝利すべきものなのです。

そうであれば、私たちが主のことばに従い、豊かな実りを見た時にも、自分の祈りや信仰を自慢するのではなく、上記のみことばのように『私は取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです』と告白すれば良いことです。

逆に、いつでもこの告白が自分のものとなっているならば、多くの誘惑から守られるのではないでしょうか。人のした悪に対して穏やかな赦しの心で接することができるのではないでしょうか。

このように「徹底して主のしもべとして歩むこと」こそ、つまずきから守られる道です。慢心せず、主の恵み豊かな力を存分にいただきながら歩むことができるからです。
(2019年8月25日 週報掲載)

2019/08/18

ねたむ神とは?


あなたは、ほかの神を拝んではならない。主は、その名がねたみであり、ねたみの神であるから。(出エジ34:14) 

ご自分を「ねたみの神」だとおっしゃる神が他にいるでしょうか。ねたむほどに人を深く愛し、よそ見をしないように「わたしだけを見よ」と語りかける神が他にいるでしょうか。

「どの神を拝んでもいいよ」という発想は、一見すると気前良く見えます。何でも自由に許可される事が一見幸せに見えるように・・・。

かし、私たちは無関心、放任主義の相手からは本物の愛を感じられないのではないでしょうか。深く愛しているからこそ、その愛が踏みにじられた時に、深く傷つき悲しむのです。

主は、あなたを深く愛しておられ、興味、関心を持ち続けているので、心が離れていることが悲しくて仕方がないのです。それほどに情熱をもって、親しく関わりたいという神のご性質を現わすために、あえてこの表現が用いられています(擬人法)。

人に伝わる表現を用いて、神がこれをお伝えになることこそ、私たちに対する強い関心の現れではないでしょうか。人の成功をうらやむ「ねたみ」とはかけ離れた、深い愛の情熱を現わす「ねたみ」なのです

神のねたみとは、まさに真実な愛に人を留まらせるための「優しさ」でもあります。
(2019年8月18日 週報掲載)

2019/08/11

キリストに満たされよう



あなたがたは、キリストにあって満たされているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。(コロ2:10) 

キリストを信じた時から、私たちのうちにはキリストの御霊が住まわれています

そのキリストのうちには神のご性質が満ちており、キリスト者は神のうちにある豊かなご性質で満たされる資格を与えられていると言えるでしょう。

キリスト者は、愛、寛容、平安、誠実など、神のうちにある豊かな性質を日々新しく備えられていくのです。こうして、私たちは内側から変えられ、キリストご自身のように変えられていきます。

しかし、しばしば私たちのうちには古い自分の顔があり、昔からの罪深い価値観、人間的なこだわり、聖書とはかけ離れた考え方をしている事があるものです。

せっかくキリストの心をいただいたのに、私たち自身が古い性質にこだわり、神に明け渡すことをせずにいるのです。

ですから、このみことばにあるようにキリストの支配と権威に自身をゆだね、新しい神の価値観にイキイキと歩む者とされましょう。

肉の思いによって歩むのでなく、キリストによって歩むのです。この世の教えに流されず、人間的な知恵によらず、徹頭徹尾、主のみことばに根ざして信仰を堅く保とうではありませんか。

(2019年8月11日 週報掲載)

2019/08/04

神ご自身がアナタを休ませる


主は言われた。「わたしの臨在(直訳:顔)がともに行き、あなたを休ませる。」(出エジ33:14)  


モーセが十戒の板を授かっていた時に、すでに金の子牛を造って堕落していた民。

主はその姿を深く悲しみ、「あなたがたのただ中にあっては上らない」と言われました。

しかし、モーセは主なる神と親しく語り合い、祈り嘆願し続けました。

主の道を教え、主のみこころにかなうように歩みたいのですと訴え、主がこの民のただ中で導いてくれるよう頼みました。自分たちの安心のために目に見える神が欲しいと言った民の姿と対照的です。

その時の主の答えが「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる」でした。

イザヤ書63:11でも、主がともに苦しみ、この民を救い出し、ずっと背負って担われたと語られています。主ご自身がともに苦しみ、どんな困難な時にも見捨てることなく、私たちを背負い担いでくださるのだと励まされます。

見捨てられても仕方がない愚かな者であるのに、主は愛とあわれみによって、あきらめないで何度も救い、その民を休ませてくださるのです。

私たちを造られた主だけが、私たちに本当の休みを与えてくださいます。

神ご自身の臨在が私たちのただ中にいつもあり、その御顔の光が私たちを照らし続けますように!
(2019年8月4日 週報掲載)

2019/07/28

見えるものは一時的、見えないものは・・・


民はモーセが山から一向に下りて来ようとしないのを見て、アロンのもとに集まり、彼に言った。「さあ、われわれに先立って行く神々を、われわれのために造ってほしい。われわれをエジプトの地から導き上った、あのモーセという者がどうなったのか、分からないから。」(出エジ32:1-14)  

 なぜ人は目に見える身近なまがい物に依存してしまうのでしょうか。
 
 それは「楽な方法」だからです。
 
 この時、イスラエルの民も見えない神により頼むのではなく、見える人間モーセにより頼んでいたのです。ですから、モーセが姿を見せなかったら不安になりました。それで、自分たちを先導する「神々を造ってくれ」と言い始めました。本来、人は「神の栄光のため」に造られたのですが、「自分たちの安心のため」に神を造ろうと言い始めたのです。
あべこべです。
 
神の栄光のために造られた人間が、自分たちの都合に合わせた神を求めた時、神を「神でない造り物」におとしめてしまったのです。ゆえに神がわからなくなりました。
 
万物の創造主、全知全能の偉大な神を見失いました。信仰は、見えなくとも確かにおられる神に信頼し、見えない将来をも神にゆだねて生きるものです。見えるものは一時的です。見えない無限の神、永遠の神を信じましょう。
(2019年7月28日 週報掲載)
 




2019/07/21

つながること


わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。(ヨハネ15:5) 

人とのつながりが希薄な現代です。しかし、教会ではつながりを大切にします。先週は新会堂で初めてのお泊り会が持たれ、12名の子どもたちが参加しました。教師の他にも多くの兄姉が時間をささげて喜んで手伝ってくださり、まさに天の御国の前味のようなお泊り会となりました。

このお泊り会は「つながれ!」というテーマでした。枝はそれ単独では、どうやっても実を結ぶことはできないでしょう。一見生きているように見えても、木の幹から離れたままではどうにもならないのです。

同様に、私たちもキリストを離れては神のくださる豊かな実を結べません。

ですから、いつでもキリストの愛に留まり、みことばに生きる必要があるのです。

もし、キリストに留まるならば、「友」というすばらしい実をも結ぶことができます。私たちはキリストなしには出会えなかったひとりひとりではないでしょうか。しかし、キリストとつながる時、人生が変えられ、キリストによる友との出会いも実りとして与えられるのです。
(2019年7月21日 週報掲載)


2019/07/17

心のケアと人間関係  ~神の領域を受け入れる~


伝道者の書 713-14

神のみわざに目を留めよ。
神が曲げたものをだれがまっすぐにできようか。
順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。
これもあれも神のなさること。
それは後の事を人にわからせないためである。

 

ラインホールド・ニーバーという人の祈りは参考になります。


「主よ、変えられないものは、それを受け入れる心の静けさを、

 変えられるものを変える勇気を、その両者を見分ける知恵を私に与えてください。」

  この祈りをいつも心に持っておきたいものです。



「2:6:2の法則」

アリ社会の分析。
 
2割しか働きアリはいないそうです。
6割が邪魔もせずフラフラ。
残りの2割はむしろ反対方向に行ったり、邪魔をしている。
 
でも、このバランスが一番うまくいくし、自然にそうなる傾向がある。 
 
会社において、優秀な精鋭だけを集めていたらどうもうまくいかなかった。
そこであるコンサルタントはこうアドバイスしました。
 
「あまり仕事ができない人を少し入れてみなさい。」
 
すると、なぜか一体感が出てみるみる会社がうまくいくようになったと言います。
 
どんな組織でも、積極的に賛成してやっていこうとする人が2割いたら、6割ぐらいはどっちでもいいよという人。
残り2割はそれに反対する人。
 
つまり、基本的には全員が同じ意見で同じ温度で積極的になるということはあり得ない
 
ということです。

 
もし、10人の集まりがあって、あなたと意見が合う人が1~2名いたとします。
 
その場合、必ずあなたとは合わない人が最低2人はいると思った方がいいのです
 
あなたを褒めてくれる人が2人いれば、
あなたを少しも褒めずむしろけなす人が2人います。
 
勝手に、自分ならもっと褒める人を増やせると思っていると失敗してしまうのです。案外ほめてくれた人が、裏で悪口を言っているということもあるものです。その時にショックを受けるのは、ほめてくれる人が自分にはいっぱいいると勘違いしているだけではないでしょうか。
 
最初から2割は悪口言うんだから、「この人はその中の一人だっただけ」と思えばいいんのです。

 
 逆にこれが社会というものです。それを知っていると、無理に自分の側に引き込む必要もなければ、全員をやる気のある人にする必要もないとわかります。

 むしろそれをやるとうまくいかないという結果さえ出ています。


 環境を変えようとし過ぎるので挫折をします。

 他人を変えようとするから疲れ果てます。

 堅い鉄の棒を力で曲げようとするから・・・できずに失望するのです。

 
 すべての人から好かれる人はいません!
 
 必ず好いてもらえない人が存在するのです
 
 少なくとも2割は絶対いる!
 
 それを減らそうと思わない方がいい。そういう人がいることが必要
 
神様がそういう人の存在を置いているのだと受け入れることにしましょう。
 
その人たちにとっても、あなたが必要なのです。
 
反対意見を持つ人、自分とはソリが合わない人がいることで、そこから様々なメッセージを受け、人は成長するのですから。
 
これでバランスが取れるということをむしろ受け止めたいものです。

もし、みんなをまとめる必要があると感じたら、不満や不安を持つ人に対しても、「そういう意見もあるのですね!」と受け入れていくことから始めましょう。
 
排除すればうまくいくという考えはとても危険で、かえってうまくいきません。

 

じゃあ、変えることのできるものは何でしょう?

あなた自身は変われるし、変えられていくことは大切なのです。


「神のみわざに目を留めよ」とあるように、盲目な人間の目で、歪んだ偏った知識で、すべてがわかると思わないことです。

人間の知恵や努力ではどうにも及ばない神の領域があることを知り、受け入れていくこと。引き受けていくこと
 
これはできるのです。

 

 イエス様は素晴らしい人格のお方でした。愛にあふれ、知恵があり、やさしく、真理を知っているお方。だからファンもいっぱいいました。でも、反対にイエス様は多くの敵がいました。憎まれ、妬まれました。12人選んだ弟子の中でさえ、裏切り者が出ました。どんなに優しく、深い愛で包んでも、裏切る人は裏切るのです。うまくいかないことがあるのです。
 
イエス様でさえ、彼を引き止められなかった。ならば、私たちが人間関係で失敗したり、嫌われたり、裏切られることがあるのは当たり前なのです。

 イエス様はご自分の身に起こることを、否定したり拒んだりせず、それを自ら引き受けて歩まれました

 

 「置かれた場所で咲きなさい」という本があります。

ノートルダム清心学園理事長の渡辺和子さんが書かれた本で、2012年のベストセラー第二位でした。

花は自分で歩いて咲きたい場所を選ぶことができませんね。
だから、それを引き受け、置かれた場所で精いっぱいきれいな花を咲かせることに集中しています。

渡辺さんはこの書の中でこう記しています。
「咲くということは、仕方がないと諦めることではありません。それは自分が笑顔で幸せに生き、周囲の人々も幸せにすることによって、神があなたをお植えになったのは間違いでなかったと、証明することなのです」 

私たちが置かれた所は時には非常に困難で「こんなはずではなかった」と思える場所かも知れません。でも、今置かれている所に神のご計画があることを信じて、そこで精一杯自分らしい花を咲かせるならば、自分らしく平安をもって過ごせるでしょう。神様は間違えて違う場所にお植えになる方ではないからです。


※同じテーマ「心のケアと人間関係」はコチラから。

 

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