モーセに告げて言った。「民は何度も持って来ます。主がせよと命じられた仕事のためには、あり余るほどのことです。」(出エジ36:5)
神を礼拝し、神のお心を知るための会見の天幕作りがなされていました。その時、神は召した者をご自身の霊で満たし、知恵を授け、他の人に教える思いも与えてくださいました。やり通す「志」でさえも主が与えてくださったのです。
自分の情熱ではなく、主の霊がくださる熱心によって、私たちは心燃やされていくのです。
そのような者たちが材料を献品し作業をしていった結果、驚くべき事が起こりました。
このみことばにあるように必要な材料が足りないということはなく、なんとか満たされたというのでもなく、「あり余るほど」与えられたということです。
彼らは自分にある物を献げ、自分に与えられている技能を献げただけです。
しかし神の霊に満たされ心からした時、あり余るほど十分であったことがわかります。
多くの場合「足りない」と嘆く私たちではないでしょうか。しかし、物が足りない、人手が足りないのではありません。「主の御霊に満たされる人」が足りないということではないでしょうか。
神の人として自分を献げるときに、神の祝福によってあり余るほど十分与えられるのです。
(2019年10月6日 週報掲載)