東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 毎日の聖書【5月分】
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2024/05/01

毎日の聖書【5月分】


1日 出エジプト記8章
 続いて神がエジプトに与えた災いは、蛙まみれにすることだ。寝台、かまど、こね鉢に至るまで蛙だらけだ(2-3)。さすがファラオもこれには困ったようだ。蛙を生み出すまねごとを呪法師にさせたのだが(7)、何の益にもならなかった。張り合ったところで環境はより悪くなるだけであった。何より、エジプトの呪法師は災いをもたらすマネはできても、それを取り除き、救いをもたらすことは何もできなかったのである。力がある者であっても、破壊や破滅は簡単にもたらせるだろうが、救いをもたらすことは難しい。それをなされるのは、救い主なる神だけである。ここでは、やむなく、蛙を除くように「に祈れ」とモーセとアロンに頼むよりほかなかった(8)。私たちはその罪によって人を傷つけたり、破滅させることはできるだろう。このことばで、この態度で。でも人を救う力を持たない罪深い者であることを覚え、いつでも主に祈る者でありたい。

2日 出エジプト記8章
 【15節 ところが、ファラオは一息つけると思うと、心を硬くし、彼らの言うことを聞き入れなかった。が言われた通りであった。】 蛙の問題が片付くと、ファラオはこのような態度を取った。「一息つけると思うと」とあり、この解決が、ごく一時的なものであることを示している。だが、その一時的な部分だけを見て生きている、「刹那的な生き方」であることがわかる。神を侮って生きる人の姿の象徴のようである。苦しい時だけ神頼みをするが、一難去って落ち着くと、またフェードアウトしていくということがある。そうやって、徐々に徐々に、さらなる苦しみへと自ら進んで行ってしまうことに早く気づきたい。「が言われた通りであった」とあるように、主はすべてご存知であるからだ。

3日 出エジプト記8章
 次の災いは「ブヨ」の大量発生だった(16)。エジプトの呪法師たちもこれをまねて、秘術を使って同じようにしてみたが、今度は「できなかった」(18)。ついに人のどんなわざでも、まねできないことが神から発せられたのだ。それで呪法師たちはファラオにこう言った。「これは神の指です」と(19)。つまり、人の手のわざではなく、神の指のわざであると彼らも認めたことになる。しかし、それでもファラオの心は頑なで、それを受け入れようとはしなかった。事実が目の前に起こっていても、それで受け入れないのはもはや「意地」や罪深い頑固さであろう。さらに翌日には、主なる神は、頑ななファラオに対して、今度は「アブ」を大量発生させた。それでファラオはついに、イスラエルの民を去らせようという話をし始めた(28)。それでモーセはに祈り、アブは一匹残らず民から離れた(31)。ファラオは今度は「去らせる」とウソをつき始めた。どこまでも神を侮っている姿だ。私たちも神の御力を侮ってはいけない。どうせ何もなさらないだろうと軽んじてはならない

4日 出エジプト記9章
 ウソをついて神に従わなかったファラオに対して、神の災いはさらに強く甚大な被害をもたらすものとなっていく・・・。3節によれば、ついに非常に重い疫病をもたらすことが語られている。第二歴代誌7章13-14節にこうある。「わたしがわたしの民に対して疫病を送ったときには、わたしの名で呼ばれているわたしの民が、自らへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求めてその悪の道から立ち返るなら、わたしは親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地を癒やす。」と。人は様々な災害に遭う時、それをただ嘆くだけの機会としないで、世界を造られた神の前にへりくだり祈るべきことを教えられる。自然を侮るなとよく言われるが、それらは神の被造物であって、それらすべての管理者は神であることを忘れてはならない。 さて、この災いは、主がエジプトとイスラエルを区別されるために、イスラエルの子らの家畜は一頭も死なないと断られている(4)。そして明日、これが行われると語られ、予告をしてくださっている主である。猶予を与え、ファラオに悔い改めの機会を与えているのだ。

5日 出エジプト記9章
 神は、同じ地にもたらす災いの中ですら、その災いを受ける人やその所有物まで明確に区別することができる。これはすごいことである。7節にあるように、なんと同じエジプトにいながらも、イスラエル人の家畜は何の疫病にもならず、ただの一頭すら死ななかった。私たちならば、他の人を巻き込んでしまうことはよくあることである。激しい戦乱の中では同士討ちというものが当たり前に起こったことだろう。神はまた、時を自らの支配のもとに置いている。5節にあるように「は時を定めて」、明日、この地で行うとおっしゃった。6節では、その通りになされたことが記録されている。神は時を明確に定め、0.1秒すらずれることなく、また、その対象を何ら間違えたり、巻き込んだりすることなく、ご自分のみわざをそこに正確になさる。これらを見ても、ファラオの心はなお頑なであった(7)。ただし、それらもまた、「神の計画通り」であった。人は神を恐れなければならない!

6日 出エジプト記9章
 「わたしのような者が地のどこにもいないことを、あなたが知るようになるためである」(14)と、主は強情なファラオに言われた。神はご自身が、全知全能のまことの神であることを、この地で現わそうとしておられた。そして、15節で、主はこうも語っておられる。「実に今でも、わたしが手を伸ばし、あなたとあなたの民を疫病で打つなら、あなたは地から消し去られる」と。神には、いつでも人や世界を一瞬で滅ぼす御力がある。しかし、それをなさらないのはなぜなのか。人の罪があまりにも多く、ひどく、滅んでも仕方がないほどなのに、そして、それができるのに・・・。そこには神の愛のご計画があるということだ。主の力が現わされるためである。ただ、それをファラオに告げているのは親切に他ならない。神は当時、神を信じないでいたエジプトの民であろうとも、不用意に滅びることなど望まない。主は、ひとりでも多くの人が悔い改め、立ち返ることを待っておられる。主は忍耐深く待っておられるのだ。『わたしの民を去らせよ』と主は繰り返し言い続けたのだ。

7日 出エジプト記9章
 次の災いは「非常に激しい雹を降らせる」というものだった。それでも神はファラオらにこれを告げ、避難させるように語っているのだ。神がエジプトを滅ぼしたいわけではないことがわかる。むしろ、神のことばを聞いてその通りにするなら、守られることを体験する機会にもなった。その意味では、20-21節のことばは興味深い。「ファラオの家臣のうちでのことばを恐れた者は、しもべたちと家臣を家に避難させた。しかし、のことばを心に留めなかった者は、しもべたちと家畜をそのまま野に残しておいた。」と。
 降ってきからでは間に合わないほどの激しさであっただろう。だから、「降る前に」、ただ主のことばを信じて従うことが必要であった。こうしてエジプト人においても、ただ神のことばを恐れ従う者は守られた。見えないけれど、そのおことばを信じて従うのが信仰である。私たちは主イエスをこの目で見たことはないが、神のことばから信じられるのだ。

8日 出エジプト記10章
 雹の災いで神の力を痛感したファラオであったが、その苦しみが喉元を過ぎると再び罪深い考えに陥った(9:35)。私たちにも似たような部分があることに心を留める必要を覚える。ただ、そこにも神の御手があり、「わたしは彼とその家臣たちの心を硬くした」とも語られていることに気をつけたい(10:1)。それを許しているのは、この地で神がさらに大いなることをなさるゆえであった。そして、10章の2節によれば、「あなた(モーセ)が息子や孫に語って聞かせるためである」と言われている。神は、後の時代の者たちに、神のみわざを語り聞かせることをみこころとされている。この神こそが、生けるまことの神、主(ヤハウェ)であることを知るためであると教えられている。私たちが神の奇跡を経験する時、様々なみわざを味わう時、それは自己満足のためではないとわかる。むしろ、それを人々に宣べ伝え、人々が神を知るためなのだ

9日 出エジプト記10章
 雹の次は「いなご」の被害だ。奴隷としているイスラエル人を追放すれば済む話なのだが、ファラオは自分の支配欲やプライドを後にすることができなかったのだ。どこかで神を侮り続けているのだろう。雹からいなごの流れにおいて、連続性があることがわかる。5節では、「雹の害を免れてあなたがたに残されているものを食い尽くし」とある。雹の被害を免れた部分を、いなごが強襲することになる。しかも、これは今までに「見たことがないものである」と語られている(6)。神のみわざの強さをおも知らされる。さすがにこれらを経験してきたファラオの家臣の中には、もうこの者をたちを去らせ、彼らの神、に仕えさせて欲しいと望む者も出てきた(7)。これにはファラオも応じる姿勢を見てた。それで、全世代は行かせないが、壮年の男子だけを行かせるという許可となった(11)。ただし、この中途半端さはほとんど意味をなさない。神を信じるか、信じないか。従うか従わないか。「従うそぶり」は、主の前には見抜かれてしまうものだ。この災いはエジプトを襲うことになる。地は暗くなり、緑も残らないほどのものとなった(15)。

10日 出エジプト記10章
 ファラオも慌てた。16節にあるように「急いで」モーセとアロンを呼んだ。そして、その時のことばによれば「おまえたちの神、主とおまえたちに対して過ちを犯した」と言っている。「どうか今、もう一度だけ私の罪を見逃してくれ」とも。これも一時的な姿勢であり、ポーズに過ぎないのだが、それでもモーセはこれに応じて、主に祈っている。人間の場合、その相手のことばがウソかも知れないと思っても、心の中身のすべてを知ることはできない。だから、モーセも疑わしいとも思えども、ファラオのことばを一度は信じて応じるしかない。人の限界だ。モーセの祈りを聞かれた主によって、いなごはいなくなった・・・。
 だが、さらなる神のみわざのために、お決まりのパターンでファラオの心は頑なになった。これらの表現が次の災いへの序章となっている。神はすべてをご存知の上で、こうして人の意志を支配したりせず、尊重した上でことをなさる方だ。人を洗脳しないのだ。神のみわざは、常に各人の意志や選択に自由を持たせつつ、なおご自身のみわざを前進させる!

11日 出エジプト記10章
 9番目の災いは、3日間の暗闇であった。暗いだけなら、そんなに問題ないのではないかと思いがちだ。だが、23節を読むとそれがかなり深刻なのものであったことがわかる。 【人々は三日間、互いに見ることも、自分のいる場所から立つこともできなかった。しかし、イスラエルの子らのすべてには、住んでいる所に光があった。
 この暗闇は特殊なものであったのだろう。自分たちで灯りをともす、火を起こせば済むというものなら、このような記録にはならないだろう。すぐ近くの人を見ることも出来ないほど深い暗闇。目が慣れて行動できるというものではなかった。自分の場所から立つことさえもできないというのだ。それも3日間、その場から立つことすら出来ないと思えるほどの闇。食事も排泄もままならない。凄まじいストレス、恐ろしいものであったに違いない。ただ、イスラエルの地域だけ光があった。こうして、神の声を拒むほどに、事態はより深刻になっている。私たちは強情だ。追い詰められても、苦しくなってもなお、むなしい自我、プライド、罪に囚われていることがある。神に敵対してはならないと教えられる。

12日 出エジプト記11章
 ついに最後の災いを下すと言われた主。その後でイスラエルをエジプトから逃す際には、「本当に一人残らず」追い出すと言われた(1)。神の徹底した導きである。そして、ここには神の完璧な備え、やさしい配慮があることに気づく。2節で神は、隣のエジプト人たちに高価なアクセサリーなどを求めるようにと言われた。何のことやらと思うが・・・3節によればは、エジプトがこの民に好意を持つようにされた」とある。これからの旅路への備え、これまでの労苦への報い、報酬であろう。そして、モーセもファラオの家臣と民にたいへん尊敬されたと語られている(3)。人から尊敬されたり、好意を持たれたりする時、私たちは自分の「日頃の行いの成果」だと考えたり、人徳だと思うかも知れない。それはもちろん、間違いなわけでもないだろう。でも、よく考えたら、心のうちに潜む汚れた思いや、人には見られなかった裏の顔なども、全部主が明らかにされれば、私たちへの敬意は地に落ちるだろう。やはりすべては、主のあわれみによることなのだ。今日も謙虚に生きよう。

13日 出エジプト記11章
 幾度にも渡る神の警告があったが、ファラオは心を固くして、神に逆らい続けた。それでついに、最も過酷な災いを神は与えることになる。その場合も、いきなり起こるのではなかったモーセを通して宣告がなされているのだ(4)。ファラオの長子も奴隷の長子も、さらには家畜の初子に至るまで・・・「みな死ぬ」と語られている(5)。それはかつて経験したことがなく、二度はないものであるとも語られているのだ(6)。同時に、7節によれば、イスラエルについては、人だけでなくその家畜までも守られる。神の徹底ぶりがわかる。それでも、くどいようだが、神はこれをまず前もって伝えてから事を起こされる。それは、最後まで人にチャンスを与えているということだ。この神のやさしさ、あわれみに感謝しなければならない。そして、心を頑なにしないようにしたい。それでもファラオは聞き入れないと神は言われ、それが現実になる。エジプトで神の奇跡が大いなるものとなるためであった。

14日 出エジプト記12章
 最後のわざわいについては、神はイスラエルに十分な準備をさせ、羊を用意させている(3)。なお、この羊は傷のない一歳の雄である必要があった(5)。そして、その羊の血をそれぞれの家の門柱と鴨居に塗る。さらに、その羊の肉をその夜に食べるのだ(7-8)。これは主への「過越(すぎこし)のいけにえ」であった。神はこれらの家にはわざわいをもたらさず、さばきを過ぎ越せた。後の時代に至るまで、この出来事は語り継がれ、いつでも神の救いを覚える民であった。これは新約時代のキリストの十字架の「ひな型」となった。ご自身を完全な「過越のいけにえ」としてご自分を献げ、こうしてキリストを信じるすべての人に罪の赦しをもたらされた。神のさばきを完全に過ぎ越すことができるようにされたのだ。こうして神のご計画は、永遠に渡ってムダのないものであることも明らかになる。キリストの十字架は、旧約の様々な所作、儀式を通して現わされていたのだ。

15日 出エジプト記12章
 「この日は、あなたがたにとって記念となる」(14)。私たちは色々な機会に「記念」となる儀式、「祭儀」を行いながら、神とその救いのみわざを覚える。人は弱く、マンネリ化していき、新鮮さを失いやすい者である。それゆえ神は、一定期間ごとに、様々な祭りや儀式を通して、神のみわざを思い起こさせてくださった。また、それらは子どもたちでも体験的に学びやすいものであって、神のご配慮を感じるものである。
 なお、ここでは「パン種」を食べてはならないと厳しく語られる(19-20)。新約聖書において、キリストはパン種を罪のたとえとして語られた。わずかなパン種(イースト菌)から、パンが大きく膨らむように、小さなわずかな罪を許すことが、さらなる罪を招いてしまう。示された時にはすぐに悔い改めよう。

16日 出エジプト記12章
 旧約聖書の時代、神は信仰継承についても様々な場面で教えている。24節で「あなたがたはこのことを、あなたとあなたの子孫のための掟として永遠に守りなさい」と命じられた。そして、その具体的な方法として「この儀式を守らなければならない」と言われ、目に見える儀式を通して、神の救いを伝承することを教えられた(25)。子どもたちが、この儀式にどんな意味があるのかと質問してくるとき、大人たちは丁寧にそれを教えることができたはずだ。27節にあるように、過越しというものについて、教えていくようにと神は命じておられる。神の救いをどの時代の人々も思い出すようにだ。
 この世の「祭り」は、人が楽しむことがメインになっているように思う。けれども、聖書における祭儀は、神を知る機会、神の救いを覚える大事な機会だった。祭りが人間中心のものとならないように願う。私たちもイースター、クリスマス、その他の礼典なども含め、神中心であり、キリストによる救いを覚えるものであることを忘れないようにしたい!

17日 出エジプト記12章
 ついに最後のわざわい、エジプトのすべての人間の長子、家畜の初子が死ぬという恐ろしいことが現実になった(29)。国中に激しく泣き叫ぶ声が起こった(30)。悲惨な現実だ。ここまで、数えきれないほどの警告、促しがモーセを通してなされてきた。神のことばを何度伝えても本気で従うことはなかった。あるいは、一時的に悔いて従ったとしても、心底神を恐れて従順になるということはなかったのである。この点は、私たちも問われている。一時的に、口先で「悔い改めます」と言うが、舌の根も乾かないうちに同じ罪に向かって歩いているということはないだろうか。神はその悔い改めが真実がどうか、ご存知なのだ。
 だが、ついにファラオはモーセとアロンを呼んで、彼らを国から出て行くように言うのだった(31)。それどころか、「私のためにも祝福を祈れ」と言うまで言う始末(32)。神の力を認めながらも、神を心からあがめない、信頼しない人間の姿だ。イスラエルはこうしてエジプトをようやく出て行く。この時、36節にあるように、はエジプトがこの民に好意を持つようにされたので、エジプト人は、金目の物や衣服などをイスラエルに与えた(35-36)。神のなさることはあまりにも不思議だ。

18日 出エジプト記12章
 こうして、徒歩の壮年男子だけで60万人ものイスラエルの民がエジプトから旅立った(37)。「女、子どもを除いて」とはっきりあるので、実際の民の人数はこの数倍であったであろう。さらにそこには、異国人や家畜も一緒だった(38)。なんとも大掛かりな民族大移動である。こうして430年のエジプトでの奴隷生活は終わった(40-41)。
 この夜、イスラエルの民は安全に守られてエジプトを無事に出ることができた。先に記したように、子どもや家畜も一緒なのだから、軍事力で抑え込まれればひとたまりもない。だが、42節にこうある。「それは、彼らをエジプトの地から導き出すために、が寝ずの番をされた夜であった。」と。主が寝ずの番をされる・・・私たちの時代でも、主なる神は毎日、毎日、寝ずの番をして私たちを守っていてくださるのだ。なんという安心、なんという幸いであろうか。

19日 出エジプト記12章
 イスラエルの民の中には異国人が混じっていた。過越については、異国人がその立場のままではあずかってはならなかった(43)。ただ、神は彼らがこの神を信じて、神の民となることを決して拒まない。むしろ喜ばれるお方だ。だから44節にあるように「割礼」を受けることで、加わることができるようにされている。とはいえ、主はそれを強要されていない。だから、在留異国人がそれを望まないなら、それをせずに寄留することができたということだろう。49節のみことばは、神の公平性を感じさせられる。「このおしえは、この国に生まれた者にも、あなたがたの間に寄留している者にも同じである」。人を差別するのは、神ではなく人間である。差別とは言わずとも、異民族を受け入れない心が私たちのどこかにあるのではないだろうか。キリストの愛は民族も国境も超える。時間さえも超越しているのだから(永遠の愛であるゆえに)
 
20日 出エジプト記13章
 エジプトから救い出された民は、カナンの地に向かって歩んで行く。だが、その前に神の民に、備えをさせている。過越のいけにえのゆえに、イスラエルの長子や家畜の初子は守られた。でも、神が守り生かしてくださったゆえに、神のみこころに生きることが求められる。神は、最初に生まれた者を「聖別せよ」と言われた(1)。彼らは「わたしのもの」であると(2)。私たちが献金を献げる時、残り物ではなく、最初に「主のもの」として取り分け聖別して献げるのである。また、私たちのためにキリストが長子として献身され、その犠牲のゆえに救いに与っていることを忘れてはならない。何をするにしても、初物をもって主をたたえる姿勢を大事にしたい。後回し、残り物ではなく、「最初に」という姿勢がとても大切なのだ。私たち、キリストを信じてバプテスマを受けた者たちもまた、「神のもの」とされた。私たちを通して、主が栄光をお受けになるためであり、私たちによって救いが広がるためだ。私たちは自分を主のものとしてささげているだろうか。また、「余り物」ではなく、最初に主のものを取り分けて献げる姿勢を持っているだろうか。

21日 出エジプト記13章
【9節 これをあなたの手の上のしるしとし、あなたの額の上の記念として、のおしえがあなたの口にあるようにしなさい。力強い御手で、があなたをエジプトから導き出されたからである。】 私たちは毎週日曜日に礼拝をささげる。そこでみことばを聴く。説教を聴く。ノートを取る人もいるだろう。だが、忘れる
 人は忘れる。でも、忘れることができるから、新しいことを吸収できる。忘れることができるから、立ち直れる。だから、良いものは繰り返し、何度も味わい、かみしめ、深いところに大事にしまう必要がある。主はエジプトからの救出とその時になさったみわざを、人に忘れないで欲しいと願った。それが人の幸いな道だからだ!いつでも、私たちの頭に、私たちの口に、それらの救いのことばがあるように神の力強い御手を思い出すように、神は9節のように語っておられる。繰り返し思い起こし、繰り返しことばにしよう。

22日 出エジプト記13章 
【17節 さて、ファラオがこの民を去らせたとき、神は彼らを、近道であっても、ペリシテ人の地への道には導かれなかった。神はこう考えられた。「民が戦いを見て心変わりし、エジプトに引き返すといけない。」】 神がイスラエルの民に対して、わざわざ遠回りをさせた場面である。エジプトを旅立ち、追手もやって来るであろう状況の中、神は明らかな近道を行かせず、遠回りをさせたのだ。それは、追手のエジプト軍よりも、イスラエルの民の心変わりの方が危険だと主がご存知であったからだ。それで、18節にあるように、神は葦の海へと続く荒野の道を回らせたのだ。
 敵は外にではなく、自分たちの内なる声にある。目の前には恐ろしい民族がいる。そこを通ることは無理だから、エジプトに帰ろう・・・そのような神を信頼しないで、目の前の敵ばかりを恐れる声である。私たちはどうだろうか。外敵の前に、自分の心が誘惑にあい、あるいは恐れて進もうとしないことはないだろうか。さあ、主の声に聴き従おう!

23日 出エジプト記13章
【21節 は、昼は、途上の彼らを導くための雲の柱の中に、また夜は、彼らを照らすための火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。】 昼は雲の柱、夜は火の柱が民を導いた。夜も昼も「同じではない」ということに注目したい。これらは、神のなさることが「時にかなっているふさわしい」ということを示している!この地域は、昼には温度が上がり、一方で夜はかなり冷える、寒暖の差が激しい地域性だ。昼に火の柱で暑く、夜に雲の柱では見えないし寒いし。だから、は雲の柱によって熱い日差しをさえぎり、は火の柱によって明るさを確保しつつ、寒さや危険な動物から守られるのであった。 しかも、22節では「民の前から離れることはなかった」と、いつも主の臨在がともにあったことを語る。神はこうして、時にかなったふさわしい助けをくださり、しかも見捨てることなく、ともにおられるのだ。神の助けは本当にカンペキだ。

24日 出エジプト記14章
 ファラオがイスラエルを追うことは、神のご計画の中にあった。ファラオの目には「荒野は彼らを閉じ込めてしまった」と見えた(3)。だからファラオにはチャンスに見えたのだ。だが、神の目にはむしろ罠に捕らえられているのはファラオであった。4節を見れば、神の計算通りであることがわかるのだ。
 神はこうして、ファラオの悪意ある追走さえ用いて、ご自分の栄光を現される(4)。神に敵対することはなんと愚かなことかと、繰り返し教えられる。神に勝負を挑もうなどと決して考えてはならないのだ。「わたしがであることを知る」とのことばは、恐ろしささえ感じられる・・・。主であることを、恐ろしい奇跡を通して知るのは御免こうむりたいのだ。平和な出来事を通して神を知る者とならせていただきたい。

25日 出エジプト記14章
 ファラオはイスラエルの民を軍隊によって追走し、あっという間に追いついてきた(6-9)。当然、イスラエルの子らはそれを知って非常に恐れた。それでも、大いに恐れただけでなく、「に向かって叫んだ」ことは良いことだった(10)。実際の内容を見ると、恐れのゆえにモーセに対して不平をぶちまけている(11-12)。そこは不信仰であり、エジプトに居た方が良かったとさえ言い、これ自体は問題だ。しかし、モーセのことばに教えられる。「しっかり立って、今日あなたがたのために行われる主の救いを見なさい」と(13)。主の救いを期待する心を失ってはならない。ピンチの時こそ、主の救いが起こる時だ。期待して
祈り求めて、しっかり立って、それを見逃さないようにしたい。何よりも、14節にあるように、戦うのは私たちではない。があなたがたのために戦われる」のだ。恐れず信じて歩もう。

26日 出エジプト記14章
 エジプト軍が追いついて来ることなど、神は最初からご存知だった。なぜ、わたしに叫ぶのか。イスラエルの子らに、前進するように言えと、神はおっしゃった(15)。迫るエジプトを気にしてしまい、後ろばかりを見てしまう民であっただろう。主は最初から用意されているので、ただ前進するようにと言われた。私たちも後ろから迫るもの、追いついてくる存在を恐れることがあるだろうか。だが、後ろを振り返らずに前進させてくださる主だ。人を恐れるのではなく、ただ主を恐れて前に進みたい
 そして、モーセに「あなたの杖を上げ」「海を分けなさい」と当たり前のように言われるのだ(16)。もう最初から決まっていたように!海を分けるなどと、考えたこともないようなことを主が平然と告げられた。神にとっては、それは特別な奇跡ではなく、できて「当たり前のこと」なのだ。こうして、「わたしの栄光を現す」と神は言われた(17)。エジプトが「わたしがであることを知る」のだと(18)。私たちもこのお方の圧倒的な偉大さ、その力をもっともっと知っていきたい。

27日 出エジプト記14章
 イスラエルの陣営の前を進んでいた神の使いは、移動して彼らのうしろを進んだ。それで、雲の柱は彼らの前から移動して彼らのうしろに立ち、エジプトの陣営とイスラエルの陣営との間に入った。それは真っ暗な雲であった。それは夜を迷い込ませ、一晩中、一方の陣営がもう一方に近づくことはなかった(19-20)。雲の柱は、導くだけでなく、こうしてエジプト軍の視界を奪った。それは夜であったので、一晩中あまりの暗さにエジプト軍は前進することができなかったのだ。さらに、21節によると、一晩中、主が強い風を吹かせて、海を乾いた地とされた。どれをとっても、主がすべてを整えておられることがわかる。すべての準備を神が整えられたので、イスラエルは陸地となった海を歩いて渡ることができた(22)。追ってきたエジプト軍を海の中に飲み込まれるようにされたのも主なる神であった(26-28)。

28日 出エジプト記14章
 非常に強い軍隊であったエジプトの戦車部隊。しかし、それらを主はあっという間に退け、海の中に呑み込んでしまった。30節にあるように、こうして主はイスラエルをエジプトの手から救われたのだ。そして、それを目撃した民は、主を恐れないではいられなかった
31節で、「イスラエルは、主がエジプトに行われた、この大いなる御力を見た。それで民は主を恐れ、主とそのしもべモーセを信じた」とある。神はエジプトに対して、ご自身が力ある神であることを示されたが、当然それを実体験したイスラエルも、神の偉大さ、恐ろしさを間近で見て、恐れおののいた。それでイスラエルの民も、「主とそのしもべモーセを信じた」と記録されている。神を信じるとは、神の存在をただ信じることではない。神がこの世界を治める圧倒的に力ある方、偉大な恐るべきお方であると確かに信じることが必要だ。このように神への畏敬がないと、私たちは神を軽んじ、侮り、結局自分を不幸にするのだ。

29日 出エジプト記15章
 エジプトの手から救い出された時、モーセとイスラエルの子らは、主に向かって歌を歌った(1)。それは神の偉大さ、その救いのみわざをほめたたえる歌であった。2節では「主は私の力、また、ほめ歌。主は私の救いとなられた。」と歌われる。ここでは他人事のようには語らず「私の」ということばで、イスラエルにとって親しく身近な存在として歌われている。この「私の」という表現は重要で、私たちと神との関係性がこうしたところに現れるのではないかと思う。神のこと、キリストのことを他人事のように語る場合もあれば、親しい父親や親友の話をするように、あるいは愛する恋人の話をするかのように語ることもある。イスラエルはこの時、神の臨在を豊かに体験していたのだろう。目の前で様々な奇跡も目撃し、神の偉大さ、神の救いを味わったのだ。私たちもどこか遠い神としてではなく、「私の神」として、親しく、誇らしく、この方のことをほめ歌いたい

30日 出エジプト記15章
 モーセとイスラエルは、この章で神のみわざをほめ歌っている。11節「主よ、神々のうちに、だれがあなたのように、聖であって輝き、たたえられつつ恐れられ、奇しいわざを行う方がいるでしょうか。」 神は聖なる方であり、栄光に輝くお方であることが示されている。神の強さや恐ろしさを語る宗教は多いが、意外にも「聖」であるということをここまで強調する信仰はあまりない。神は聖なる方であり、汚れや罪や悪意が一切ないのだ。13節では、神が救い出したこの民を、恵みと力をもって導き、「聖なる住まい」に伴われたとある。ファラオやエジプトの汚れに対して、神は圧倒的に聖(きよ)く正しい方である。14節以降出てくるのは、ペリシテ、エドム、モアブ、カナンの住民などだが、彼らは汚れているゆえに、聖なる神の前に恐れ、震え、戦慄することが語られている。この汚れた世界にあって、神が聖であることを知り、神の聖さの中に導かれ、歩んでいきたい。

31日 出エジプト記15章
 神への賛美は、歌だけでなく、様々な楽器や踊りを用いたことがわかる。20節によれば、アロンの姉ミリアムが、タンバリンを用いて、他の女性たちと一緒に踊りながら賛美をささげていることがわかる。全身を使って主を賛美することは、みことばの中で教えられており、現代の私たちももっとそうして良いのではないかと思わされる。特に、日本人の賛美は良くも悪くもおとなしい。人目を気にする文化のゆえだろうか。ミリアムは民に応答して、賛美の歌を歌っている。「主に向かって歌え。主はご威光を極みまで現され、馬と乗り手を海の中に投げ込まれた。」(21)。主がそのご威光を「極みまで現わされ」という表現は印象的だ。それほどに、海を二つに分け、強大なエジプト軍を一瞬のうちに呑み込んだ神のみわざは圧倒的であったのだろう。神の威光の大きさを豊かに味わいたい。



引用元聖書
<聖書 新改訳2017
聖書 新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会

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