東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ローマ書6章15-23節「神からの賜物、永遠のいのち」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2024/04/25

ローマ書6章15-23節「神からの賜物、永遠のいのち」

*** 4/24(水)祈祷会 説教概略 ***

14節で「恵みの下(もと)にある」と語られていました。もはや、罪や死の奴隷ではないし、律法の下に置かれているのでもありません。そうなると、何をしても罰せられない。ならば、「もう自分を支配する存在はない、自由に罪に生きよう」となるのでしょうか。

パウロは15節で「決してそんなことはありません」と明言しています。そして、パウロが言わんとしていることは、「仕える相手が変わった」のであって、「仕える相手がなくなった」のではないということです。


仕える相手が変わったということは、働きの内容も大きく変わります。そして、働きの結果や報酬も大きく変わります。パウロはこの真理を、19節にて「あなたがたの肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています。」とことわった上で、当時の奴隷制度を例に挙げながら、説き明かしているのです。では、奴隷制度を例示しながら、パウロが明確に教えていることについて、具体的に順を追って教えられたいと思います。

 

1.主人が変わると働きが変わる


17  神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規範に心から服従し、18  罪から解放されて、義の奴隷となりました。 

 伝えられた教えの規範とは、イエス・キリストについての福音です。行いによらない、信仰による義です。これによって、今や仕えるべき主人が変わりました。ここにあるように「罪の奴隷」から、「義の奴隷」へと大きく変わったからです。それは罪という主君から、神の義という主君へとまるっきり変わったということです。

 そして、奴隷として仕える主人が違うならば、その主人から求められる働きも、受けられる報酬も大きく変化すると言うわけです。それは至極当然のことですよね。。例えばプロサッカー選手も違うチームと契約すると、違う監督の下で、以前とは異なる役割を与えられ、報酬も大きく変わるでしょう。

 では、働きはどのように変化しているのでしょうか。19節にこうあります。

19  あなたがたの肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています。以前あなたがたは、自分の手足を汚れと不法の奴隷として献げて、不法に進みました。同じように、今はその手足を義の奴隷として献げて、聖潔に進みなさい。 

 罪を主君としていた時代は、汚れと不法の奴隷として、そのために私たちの手足を献げていたのだと言います。これらの体、手足をもって罪深いことのために頭も手足も用いてしまっていたのです。

 ところが、今はどうでしょうか。今はその手足を義の奴隷として献げて、聖潔に進むようにと目標が示されています。汚れや罪深い方向ではなく、神様の聖さのために献げるようにと召していただいたのです。続く20節でもこのように語られていますよね。 

20  あなたがたは、罪の奴隷であったとき、義については自由にふるまっていました。 

 罪の奴隷の頃には、神の義とは無関係の歩みをしてしまっていたので、義についてはまさに「自由」の身でした。しかし、それは放蕩であり、どろどろした罪深いものでありました。

 

2.主人が変わると受ける報酬、実りも変わる

 主人が変わり、働きも変わりました。では、働きへの報酬はどう変化したのでしょうか。「罪の奴隷」であった時には、16節にあるように死という報酬を受ける立場にありました。同じように21節でもこうありますね。

21  ではそのころ、あなたがたはどんな実を得ましたか。今では恥ずかしく思っているものです。それらの行き着くところは死です。 

 罪に仕えていた頃の「実り」は、一体どんなものだったのかと問いかけます。罪というものが自分の主君であった時、罪という主人のためにその手足を献げて労しました。その報酬は死、滅びに至るものであり、罪悪感や怒り、様々な傷もまた付随してついてきました。ですから、今は恥ずかしく思えるものであります。目が開かれ、気づかされた今となっては、罪の奴隷であった時の自分が得ていたものは恥ずかしいもの。そんな報酬は嫌ですよね・・・。

 しかし、キリストによる救いを受けた時、17節で「神に感謝します」と始まっているように、とても良い報酬を受けられる立場とされたのです。それは、18節にあるように神の義に仕える「義の奴隷」とされたためです。仕える相手がまるっきり変わったわけです。それで、神様からの報酬として、永遠のいのちをはじめとする多くの祝福を受け取る者となりました。

 今やあなたがたは、仕える先が無くなったのではなく、神に仕える者となった。神の義に奉仕する者となった。だから、報酬もすべて変わったというわけです。22節です。

22  しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得ています。その行き着くところは永遠のいのちです。 

 神に奉仕する、神に仕えるしもべは、聖さに至る実を報酬として受けています。その最終目的地は「永遠のいのち」なのです。それで23節でも、このように結論を述べています。

23節 罪の報酬は死です。しかし神の賜物は私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

 

3.良い主君のために、良い働きをし、良い報酬を得よう

今読んだ23節で、神の賜物は私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。とありました。神の義に仕える時に得られる報酬、その実りは主キリスト・イエスにある永遠のいのちであると分かります。罪に仕えていた時には、どんな良い働きをしようとも、永遠のいのちという報酬にはたどり着けませんでした。

しかし、義に仕える者とされてからは、賜物としてキリストにある永遠のいのちをいただけるのです。ここではあえて「賜物」ということばを用いていますよね。「賜物」とは、働きの成果が良かった場合にだけ与えられるものではありません。なんと、イエス様を信じて義に仕える立場をいただいただけでも、成果とは無関係にプレゼントしていただける物、それが「賜物」です。つまり、神様は、どんなに罪深い者であっても、信仰が弱い者であっても、ただ神様を「私の主」と信じて従うならば、それだけで無条件に永遠のいのちをプレゼントしてくださっているのだということです。感謝ですよね。

その上で、より忠実に、より主のご用のために献げる者には、もちろんさらに報いてくださる方でもあります。喜んで献げる者を神様はますます愛し、祝してくださるのです。

 

 イエス・キリストを信じて、神様との愛の交わりを回復した私たちです。神の国とその義を第一に求めて、そのために仕える者となりました。むなしく滅びゆくものに仕えるのではなく、いつまでも残る、永遠のいのちに至ることのために仕えることができるのです。ですから、自分の労苦が無駄ではないと言えるのです。同じように働くのならば、滅びに向かう道ではなく、永遠のいのちに至る道で働き、その豊かな実りをともに見る者となりましょう。




引用元聖書
<聖書 新改訳2017
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