東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 伝道者の書7章21-22節「本当に大切なことば」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2024/04/23

伝道者の書7章21-22節「本当に大切なことば」

*** 4/21(日)主日礼拝 説教概略 ***

 ある時の修養会で、講師にこのような質問がありました(少し変えています)。
「不当に傷つけられることがあった。それをいつまでも根に持たずに赦すためにはどうすればいいでしょうか」と。きっとこの事で悩んで来られたのでしょう。ただ、その答えは興味深いものでした。実は「不当に傷つけられているのに、少しも根に持たずに赦す人になること」が、理想のクリスチャン像ならば、そもそも「ゴール自体が違っているのではないか」とのお答えでした。何を言われ、何をされても平気で、全部赦せる人がいたら、その人は心のないロボットのような人になってしまう。その人は、他の人の痛みに共感できないでしょうと。


 個人的には、それを伺って少し気持ちが楽になった気がします。傷つかない人間にならなくて良いのだと知ったからです。傷つくのは人として当然で必要なことですらあるわけですから。

 イエス様も「悲しみの人」でした。ゆえに、私たちの弱さに同情できるのだとあります。ですから、今日のみことばにおいても、傷つかない人を目指そうという話ではありません。

 むしろ、傷つく私たちだからこそ、そこから回復し、本当に大切なことばに心を留める者になっていけるようにと語られているのです。

 最近読んでいる本のキーワードに、「レジリエンス」ということばがあります。それは「回復力」「再起力」といった意味のことばです。キリスト者のあるべき「強さ」とは、堅い鎧を着こんで批判を浴びても傷つかなくなる強さではありません。誰もが傷つくのですが、そこに心を留めず、そこから何度でも立ち直る柔軟な、弾力のある強さということです。この罪に満ちた不条理な世界でどのように生きるべきなのか。それはこの伝道者の書のテーマです。ですから、癒され、回復し、再起していくために、みことばから「神の知恵」を教えられていきましょう。

 

1.人のことばのすべてに心を留めるな

21 また、人の語ることばをいちいち心に留めてはならない。しもべがあなたをののしるのを聞かないようにするために。 

「また」ということばで、前からつながりをやや意識しながら語られています。不条理な世で生かされるために、人のことばすべてに、いちいち心を留めてはならないと教えられています。人はことばにおいて必ず過ちを犯すものだからだと言います。

 直前の20節を見ていただくと、そこでは「罪に陥ることのない人はいない」と語られていました。すべての人が過ちを犯すのです。しかも、新約聖書のヤコブ書では、ことばほど罪を犯しやすい分野はないと語られています。

 ですから、神のことばには全力で心を留めますが、人の語ることばについてはそうではないと語られているのです。

 もちろん、建徳的な良い助言などには謙遜に耳を傾ける必要があります。それは3ページほど戻ると413節で、「忠告を受け入れなくなった愚かな王」の話が良い例です。若くて未熟でも、耳を傾ける王の方がまさるのです。

 このように、今日のみことばで言わんとしていることは、人の言うことに耳を傾けないという極端ではありません。21節後半にあるように、ののしりのことばを聞かないようにするために、「いちいち心に留めるな」と語られているのです。不当な批判や悪意のあることば、罵詈雑言を受けることがあるでしょう。それらに囚われないようにと言います。

 でも、どうでしょうか。実際には批判や悪口を一切聞かないようにするのは、ほぼ不可能ですよね。誰もが聞きたくないものですが、それでも耳に入って来てしまうので苦しみます。では、どうすればいいのでしょう。

 みことばに良いヒントがあります。ここでは「心に留めるな」と語られているのであって、「いっさい聞くな、耳を塞げ」とは語られていないのです。そもそも耳に入らないようにすることは、不可能だからです。嫌でも聞こえてくるものです。そして、傷つくことも避けられないでしょう。

 ただ、たとえ耳に入ってきても、それを心に留めるなと言うのです。この違いは小さくありません。実に「心を留めるな」の部分は直訳的には「心を与えるな」とも訳せます。いくつかの英訳聖書では実際に「do not give your heart」としているものがありました。あなたの心をそこに与えるなと言うわけです。

 私たちのこの傷つきやすい心はとても大切で、一つしかないものです。100個あれば、1個ぐらい悪口にあげてもいいでしょう。でも、一つの心をどこに注ぐのかを私たちは選び取る必要があります。不当な批判のことばに与えてしまうのは「もったいない」ではないでしょうか。そのことばに対して、あなたの時間もあなたの心も与えてしまうのは・・・

 それでも尚、簡単ではありません。傷が深いほどに思い出してしまうのですよね。どうしたら、そこから回復されていくのでしょう。そのために22節とこの書の本旨に心を向けましょう。

 

2.再起、回復のために

(1)自分も他の人を不当に批判したことがあることと向き合うことです

22 あなた自身が他人を何度もののしったことを、あなたの心は知っているのだから。

 少し前の16節で「正しすぎてはならない」とありましたよね。正しいことは良いことだけれど、自分は一つも間違わない、自分はいつも正しいという価値観に立ってはならないと。それは、自分を神のようにし、人をさばく罪を犯してしまう危険があるからでした。

 ですから、ここにあるように、ののしられ、侮辱されて傷ついた時に、自分自身を振り返る機会としたいのです。振り返るならば、思い当たるものがあるのではないでしょうか。感情的になって怒りをぶつけてしまったこと。言うべきでないこと言ってしまったこと。祈ることなく人を不当に非難したことなど。誰もが少なからず思い当たるのではないでしょうか。神様はもちろんそれをご存知ですが、あなた自身の心も知っているでしょう?とみことばは語りかけています。

あるクリスチャンの心理学者はこうおっしゃっています。他人をさばいてしまうということは、「自分の問題を受け止めるのを避けているからである」と。自身も同じような罪人であることを真摯に受け止めているのならば、人をさばくことから守られやすくなると言います。言い換えれば、クリスチャンとして成熟するほどに、自分の罪の問題と向き合わされ、他人をさばくことから守られていくということです。

それは、ヨハネの福音書で、姦淫の罪を犯した女性を皆で批判し、石を投げようとしていた場面からも教えられます。イエス様が「罪のない者から石を投げるがいい」とおっしゃったとき、誰も投げることができませんでした。それどころか年長者から石を置いて、去って行ったのです。なぜ年長者からでしょうか。長く歩んで来た年長者ほど、自分も多くの罪を犯してきたことを知っていたからです。石を投げずに済んだのは幸いでした。人を傷つけたことで、自分もまた傷ついていくからです。神様はそれを悲しまれます。

他の人の罪よりも先に、自分自身の問題と向き合う幸いを教えられます。もちろん、自身の罪深い性質に気づかされることは、決して心地良いものではありません。それ自体が戦いです。けれども、そのゆえに、憎み続けたり、報復したりすることから守られるならば感謝なことです。何より、十字架の赦しの恵みに目を向ける機会になるならば、本当に幸いですよね。

 

(2)神様の声にこそ、あなたの心を留めるべき(与えるべき)

 立ち直る力は私たちの中にはありません。それは主から来るのです。ですから、タイトルにありますように、本当に心に留めるべき大切なことばは、私たちを再起させる神のいのちのことばです。人は罪人であり、間違える者であることを教えられました。不当な的外れな偽りさえ言ってしまいます。ですから、間違いのない、愛と真実に満ちた神のことばにこそ心を注ぎたいのです。トム・ソーヤの冒険を書いたマーク・トウェインは、「私はほめことば一つで3か月生きる」と言いました。それならば、私たちを生かすことば。私たちを幸いにすることば。いのちを与える神のことばなら、永遠に私たちを生かすと言えるでしょう。

 この伝道者の書を通しても神様は、私たちを何度でも立ち直らせるいのちのことばを伝えてくださっています。不条理に満ちた罪の世界にあって、むなしい歩みとならないために!です。 

 この書の最初と最後において、次のように伝えています。11節にエルサレムの王、ダビデの子、伝道者のことば」とあり、1210節では「伝道者は適切なことばを探し求め、 真理のことばをまっすぐに書き記した。」と。

 伝道者とは、「神からの幸いな道を伝える者」です。神からの幸いな道を伝える者が、適切なことばを探し求め、そして導かれて記した「真理のことば」がこの書であります。この書では、ところどころに、小さな結論をちりばめながら、最後の12章にまとめの結論を語っています。それは創造主なる神を恐れて生きることです。それは、すぐに消え去るむなしい偽りのことばではなく、神の真理のみことばに心を注いで生きることです。この方がくださる恵みを大いに喜んで生きることです!神様のみこころから激しく外れた不当なののしりに心を与えず、神様の恵みに心を向けていきたいのです。

 

 ご一緒に教えられて参りました。

深く傷つき、苦しくて仕方がない時、少しも根に持たない完全な人になろうなどと思わなくていいのです。でも、それらの悪意のために、あなたの大切な心を与えてやらないでください。そうではなく、あなたを生かす神のみことばにこそ、心を注いであなたの居場所としてください。

人生の中で、深く取り扱われるみことばとの出会いがあるものだと私は思います。思い悩み、みことばと格闘し、祈り叫び求めながら主のいのちのことばにすがるのです。けれども、それゆえに私たちを生かすことばが与えられます。その時にこそ、一生の宝となるような神様のみことばによる励ましを受けることでしょう。それはいつまでも残り、あなたを生かすことばです。

 そして、みことばの中心にあるイエス様の十字架に目を注ぎましょう。私たちの罪をことごとく赦してくださった神の愛がそこにあります。私たちは赦された。この恵みにしっかりと心を留めた時に、少しずつ他の人をも赦す道が見えてくるでしょう。主の恵みに感謝します。

引用元聖書
<聖書 新改訳2017
聖書 新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会 

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