東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ローマ書6章6-14節「自分を献げ、キリストが輝く」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2024/04/17

ローマ書6章6-14節「自分を献げ、キリストが輝く」

*** 4/17(水)祈祷会 説教概略 *** 

 先日、娘からこんな質問を受けました。「初めての人や少し苦手なタイプの人とお話をする時に、どうしても緊張してしまう。どうしたら緊張しないで自然に話せるだろうか」というものでした。


 彼女に答えたのは、「緊張がゼロということはなく、私も緊張することはある。ただ、相手の人にイエス様を伝えたいという思いが自分への関心よりまさる時、気が付いたら緊張しないで話せていることがある」ということでした。

やはり、自分はどう見られているのか、自分が上手く話せているか・・・自分にフォーカスが行くほどに実は緊張するものなのだと経験上教えられています。ですから、イエス様にフォーカスし、どうしたらイエス様をこの人にもっと知ってもらえるだろうか、どうしたら神様の愛をもっと理解してもらえるだろうか、伝えることに心を注ぐ時、意外に自然に話せていることがあるのだと。

 みことばにもこうあります。第二コリント45節。私たちは自分自身を宣べ伝えているのではなく、主なるイエス・キリストを宣べ伝えています。私たち自身は、イエスのためにあなたがたに仕えるしもべなのです。 

 自分が目立つと、自分が見られ評価されていると感じるので緊張もします。しかし、私たち自身は「しもべ」となって、イエス様が人々の目にもっと見えるように願うならば、緊張から守られ、結果として私たち自身も主にあって輝かせていただけるのではないでしょうか。私たち自身は、たいして見栄えの良くない「土の器」で良いでしょう。

 でも、その中に入れているキリストという宝が輝き、私たちもその輝きの恩恵をいただくのです。自分自身を証しするのではなく、私たちの生涯に愛を注いでくださった主を証しする器として生きることを教えられましょう。

 

私たちは知っています。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです。

 私たちはもはや「罪の奴隷」ではなくなりました。キリストの死と一つとされ、罪の古いからだが滅ぼされたからです。7節にもこうあります。 

7節  死んだ者は、罪から解放されているのです。 

 もう私たちは罪とその結果である死から支配されない立場をいただいています。解放されたのです。罪から解放され、罪というものが私たちの主人ではなくなったのです。では、私たちの新しい主人はどんな方でしょうか?イエス・キリストという最高にすばらしいお方ですよね。罪と悪魔という私たちを奴隷にする存在から自由にされ、私たちに愛と喜びと平安、その他多くの良きものをくださるイエス様を「私の主」と呼べるようにされたのです。次のみことばを心に刻んで歩みたいと思うのです。 

ガラテヤ2:20 もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。

 キリストが私たちにうちに生きておられる!この方こそ私たちの人生の主である。私のことのからだの主であるのです。この真理をしっかりと心に覚えて歩みたいのです。それは、今日の8節でも語られている通りです。 

8節  私たちがキリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きることにもなる、と私たちは信じています。 

 あるカウンセラーは自分は「小キリスト」であると言います。「小」をつけたのは謙虚の現れでしょうけれど、いつでも主キリストがそこに見えるように働きをしたいと考えてのことでしょう。また、イエス様が「主任牧師」で、私たちすべての牧師は「副牧師」なのだとおっしゃる先生もいます。私ではなくキリストが生きておられるという意識です。

 そこで大切なことは11節のことです。

11  同じように、あなたがたもキリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認めなさい。

 「罪に対しては死に、神に対して生きている者」これが、キリストを信じている者が与えられている恵みのアイデンティティです。これは「神に向かって生きる」と訳しても良いでしょう。私たちが向いている方向は罪や滅びではなく、神様ですいつでも神様の御顔を求め、神様のみ思いの方向にともに歩みます何をするにも人に対してするようにではなく、主に対してするようにするのです

 それらがある意味では「献身」というものです。ただし、「献身」というものを牧師や宣教師になることだと限定しなくて良いでしょう。私たちが日々の生活において、キリストに従ってこの身を献げているのなら、それは立派な献身ではないでしょうか。何をしていても、福音のためにしている。主キリストの栄光のためにしている。そのような歩みこそ献身的な歩みでしょう。12-13節に、献身的な歩みについて語られています。 

12節  ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪に支配させて、からだの欲望に従ってはいけません。 13節 また、あなたがたの手足を不義の道具として罪に献げてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者としてあなたがた自身を神に献げ、また、あなたがたの手足を義の道具として神に献げなさい。 

私たちのこの手足、頭も体もすべて、それらを罪の道具としてはならないと語られています。不義の道具として、罪に献げてはいけませんとあります。先ほど話したように、罪も悪魔も、もはや私たちの主人ではないからです。自分自身でさえ、自分の主人ではないと教えられましたよね。もはや、キリストが生きておられて、私たちはこのキリストについて、キリストを指し示すしもべなのです。

神様が「罪の奴隷」であった私たちを愛し必要としてくださいました。そのために御子イエス様を犠牲にしてくださいました。私たちを救い、この神の国の働きのために召し出してくださったのです。13節の後半にこうありましたね。あなたがた自身を神に献げ、また、あなたがたの手足を義の道具として神に献げなさい。 

ここでは「ささげる」という字は「献身」の「献」が使われていますよね。「自分を」ささげるという意味では「献」という字をあえて用います。物質的な場合に「献」を使うとの説明がありますが、多くの場合、私たちは体もすべて含めて「献げる」のだと思います先日、「献自」という名前の方とお話しましたが、まさに自分を神に献げるようにとのご両親の願いなのかも知れません。手足を献げるという場合も、それは単に手足だけをそうするのではなく、心も考えも時間もすべてを主に向かってということでしょう

W.W.J.Dというストラップがありました。What would Jesus Do? =イエス様ならどうするだろうか」ということをいつも考えて歩むということです。イエス様はいつでも、父なる神様に向かって、そのみこころを行うことを喜びとしていました。私たちもまた、キリストと一つにされ、罪に対しては死に、神様に向かって生きる者とされたのです。小さなことであっても、「イエス様ならどうなさるだろうか?」と思いを向けながら、歩んで参りたいと願うのです。14節にあるように、私たちはもはや罪の支配下にはないからです。律法の支配下にもないからです。今、私たちは「恵みの支配の下」にあるのです。

 ですから、解放され、とても平安に満ちた立場をいただきました。愛を知らなかった時は、自分を多くの人に認めさせるために必死でした。自分で自分のことを証ししないといけないように感じていました。でも、今は自分を証ししないでいいのです。自分を宣教しないでいいのです。私たちはキリストのものだからです。キリストが宝だからです。

見栄えのしない土の器を頑張って無理に輝かせる必要などありません。主が私たちに何をしてくださったのか!それをただ隠さなければいいのです。この宝が見えるように。土の器はボロボロでもいい。中の宝が輝き、それがよく見えればいいのですから!

 キリストが輝く時、私たちもその宝の輝きによって、美しくされるのです。


引用元聖書
<聖書 新改訳2017
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