*** 5/1(水)祈祷会 説教概略 ***
マタイ18章では小さい者を軽んじないことや、自分に罪を犯した者と和解して友となることを教えています。そして、二人でも三人でも信仰の仲間と祈る大切さも教えられています。私の時代に神学校の校長であった舟木信先生がこんなことをおっしゃっていたとある方から伺いました。「教会はイキイキしていて、問題があるところ」だと。面白い表現です。主にあってイキイキしている。しかし同時に「赦された罪人」の集まりなので、問題だらけ。もしかしたら、イキイキと豊かに活動しているからこそ、様々な衝突や問題さえも起こりやすい場所なのかも知れません(そこに主が働かれる!)。
そのような交わりの中で、「主にあって赦し合う」ことは、イキイキした姿を保つための最大の秘訣でしょう。二度と赦されないという交わりでは、針の筵(むしろ)になり、イキイキはできないですよね。かえって息苦しくなるでしょう。人も育ちません。「赦し合う交わり」があるからこそ、教会の交わりは人々の居場所になるわけです。今日は、神様から赦された者として、他の罪人を赦していくことを信仰のうちに教えられていきましょう。
1.何回まで赦すべきなのか
イエス様の一番弟子のペテロみもとに来て言いました。
21節 そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか。」
彼はイエス様に、信仰の仲間たちが自分に罪を犯した場合、何回まで赦すべきでしょうか?と質問します。しかも、そこに「7回まででしょうか。」という自分なりの解答をも含めて尋ねています。おそらくペテロは、イエス様から「あなたは寛容な人だ」とほめられたくて、多めに言ったのでしょう。というのも、当時のユダヤ人社会では、3回までは赦すべきだと考えられていたからです。もはや4回目は赦されるべきではないと。
ですからペテロとしては、7回という、ある意味相当寛大な数字を言ったつもりだったのです。ところが、イエス様からは、全く予想外の答えが返ってきました。
22節 イエスは言われた。「わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです。
7回と言ったペテロは、自分なりにはかなり、「数字増し増し」で言ったものだと思います。けれども、イエス様の答えは、その70倍でした。しかも、その意味は無限に赦しなさいということなのです。計算して490回までという意味ではなく、赦しに限界を設けてはなりませんという教えです。
この時のペテロの表情を見てみたいものです。
けれども御父のみこころを知るイエス様は、ごく当前のこととして語られたのです。「無限の赦しを受けた者なのだから、あなたも赦しの人生を歩みなさい」と、主はお示しになったのです。
ある牧師さんは、以前はある他宗教の信者さんでした。でも、そこからまことの主イエス様を信じて自由になった時に、「自分さえ助かればそれでいいのか」との迫りを受けたそうです。それで牧師になりました。自分が受けたあわれみを、他の人にも示す。それがキリスト者の歩みですよね。そのことは、イエス様の語るたとえ話からさらに明らかにされ、心を探られていきます。
2. 借金を帳消しにした王様
23節から、イエス様はたとえ話を始めます。それは、王様と家来のお話です。王様に対して巨額の借金のある家来がいました。24節では「1万タラント」の借りがある家来が登場します。1万タラントって、どれぐらいでしょう。脚注に「1タラントは6千デナリ」とあります。1デナリが1日分の給与相当です。現代風に考え日給1万円とすると、1タラントは6千万円。ここでは1万タラントですので、6千万円の1万倍=おおよそ6千億円でしょうか。途方もない数字ですね(大谷選手の通訳さんよりずっと大きな額です)。
王様はこの人が返済できずにいたので、家族総出で持っているもの全部を売り払って返済するよう命じました。家来は必死になってこう言います。
26節
それで、家来はひれ伏して主君を拝し、『もう少し待ってください。そうすればすべてお返しします』と言った。
王の前にひれ伏して、必死に懇願したわけです。どうか、もう少し返済期間を延ばして下さい。家族で必死に働いて、全部お返しします。なんとか、ご猶予下さい。この必死の懇願を見て王様はどうしたのでしょうか。27節です。
27節
家来の主君はかわいそうに思って彼を赦し、負債を免除してやった。
なんという寛大な王様でしょうか。彼を赦し、この莫大な借金を免除してあげたというのです。本当にこれは驚くべき大きな赦しです。王の犠牲により一家全部が救われたわけです。生涯奴隷の身となって借金を返すためにだけ暮らさなければならなかったでしょう。でも、これで一からやり直せる。「命の恩人」と言っても過言ではないでしょう。
ただ、この話には残念な続きがありました。生涯尽くしても返せない多額の負債を赦してもらった家来ですが、彼自身も他の仲間にお金を貸していたのです。その仲間に対して100デナリ貸していたことが28節で分かります。しかも、寛大な赦し、免除を受けて王の元を去った時にバッタリと貸している仲間に出会ったのです。
彼はどうしたでしょう。
なんと、28節にあるように、その人を捕まえ首を絞めて「借金を返せ」と迫ったのです。しかも、この相手もどうかもう少し待ってくださいと懇願しましたが、彼は少しも赦さず、牢に放り込んでしまいました。100デナリは、現代の日本円で100万円です。自分は6千億円の負債を赦されたのですから、そこからしたら圧倒的に小さい額です。それを赦せなかったのです。
31節で仲間たちがこの一部始終を見ていて王にこれを知らせたという話です。この時に、仲間たちが「非常に心を痛め」とあります。赦しがないと周囲の者たちも胸を痛めるのです。王は彼にこう言います。 赦しの無い交わりは証しにならないのだと改めて教えられます。
33節 私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか。』
そして、それこそ負債を返すまで牢に入れられてしまうというたとえ話です。
3.私たちの応答として
イエス様は何をおっしゃりたいのでしょうか。35節にこうあります。
35節 あなたがたもそれぞれ自分の兄弟を心から赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに、このようになさるのです。」
私たちが心から兄弟姉妹を赦さないなら、私たち自身神様から同じ扱いをされるのだと、厳しい内容が語られています。自分は神様から途方もないほど大きな罪、多くの罪を赦されているのだから、他の人の小さな罪を赦しなさいという招きです。私たちの赦しのために神様が払ってくださった犠牲は代わりのきかない大きなものです。神の御子のいのちです。キリストを十字架に磔にし、あれほどむごい目に合わせた私たちです。けれど、その罪をことごとく赦されました。愛のない罪人の私たちが「神の子」としていただけました。なんという神様の愛の深さでしょうか。
私たちは毎週主の祈りをささげます。その中の罪の赦しの部分は、他の部分と異なっています。主の祈りの多くの部分は神様への願い求めです。ところが罪の部分においては、確かに「我らの罪を赦したまえ」とお願いもありますが、そこには「我らに罪を犯す者を、我らが赦すごとく」ともあるのです。つまり、私たち自身の「赦しの決意」が加わっていることを忘れてはいけません。それは、私たちも自分に罪を犯した者を赦しますから、だから、私たちの罪をも赦してくださいとの祈りです。自分だけ赦されればそれでいい・・・これほど自分勝手な考えはありませんよね。
引用元聖書
<聖書 新改訳2017>
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