東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: マタイの福音書11章28~30節「安息日の主から学ぶ安息」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2024/05/06

マタイの福音書11章28~30節「安息日の主から学ぶ安息」

*** 5/5(日)主日礼拝 説教概略 ***

 この秋に私たちの教会では、星野富弘さんのアート展を開催予定です。それが決まった矢先に召天の報がありました。星野さんは若い頃に大きなケガで両手足の自由を失いましたが、それを通して救いに導かれました。そして口に筆をくわえて詩と絵を描き続けた生涯です。一昨日葬儀が行われました。昨年度私たちの教会で奉仕していた阿部神学生が、今年度遣わされている教会での葬儀でした。個人的には何かとお世話になった恩師の内田先生が司式をされ、本日の聖書箇所と同じみことばが語られていたので驚きつつ、神様の不思議な導きを感じています。


 さて、新しい年度が始まり1か月が過ぎました。五月病、とのことばもありますように、様々な疲労が出て来る季節です。その一方でなかなか休むことが得意でない私たちです。GWも十分に霊肉ともに休み、バッチリ充電できたという方は案外多くないかも知れません。手帳に空白が多いと「怠け者」のように思えて、つい忙しくしてしまう方もいらっしゃるでしょう。
 
 ですから、本当の意味で安息を過ごし、神様に疲れを取っていただきたいと願っています。そのためには、安息の主であるイエス様のもとに行き、この方に休ませていただきましょう。そして、これからのためにも、主ご自身から安息を学ばせていただきたいと願います。

 

1.休ませるのは自分ではなく、私の羊飼いなる主である。

28  すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。 

 ここにある「疲れている人、重荷を負っている人」とは、どういう人なのでしょうか。特に当時は、律法主義の重荷が人々を苦しめていました。例えば、安息日は本来、仕事も家事も休んでゆっくり主とともに過ごす喜びの日です。でも、人を助けたら律法違反ではないか、荷物をある距離以上運んだら違反ではないかと、皆気を遣って疲れていました。

 私たちも、神様が「負いなさい」と与えたのではない重荷を、勝手に背負い込んで、疲れてしまっているということはないでしょうか。 神様が「負わなくてよい」とおっしゃっているのに、自分で背負い込んでいる重荷、心当たりありませんか。失敗をしてはいけない。完璧にやらなければいけない。良い子でなければならないとの律法主義に生きてしまいがちです。本当はそんなにできるはずがないのに、「自分がやらなければ」と必死です。 

 時に神様の領域にまで自分で入って行き、「自分のせいだ」と責任を背負い込みます。あの人が教会に来れないのは私が悪いからだ。あの人が救われないのは私のせいだと。その発想に立つことは、反対にあの人を教会に来させたのは私だ、あの人は私が救ったのだという話になります。背負い過ぎです。ゆだねたいですよね。

 イエス様は背負い過ぎている私たちを見て、救いたいと願い、わたしのところに来て学びなさいと言ってくださいます。わたしが休ませてあげるとおっしゃいます。多分私たち全員、招待客になることでしょう。

 聖書では、たびたび人間が「羊」に例えられますよね。羊は目が悪く迷いやすいので、自分で良い牧草地や水場を安全に見つけることができません。ですから、羊飼いが緑の牧場へと導き、そこでゆっくりと休ませてくれるのです。守られ、休ませてもらう動物なのです。人は神様の目には、その動物そっくりなのでしょう。イエス様は私たちが疲れているのを見て、どうしても休ませてあげたい!と思い、ご自分の安息のもとに来なさいと招いておられるのです。だから、素直に主のもとに行きましょう。

 主は、「もっと働き、もっと得よう!」と欲にかられる私たちを止め、「その手を止めよ」と語りかけてくださいます。歪んだ慌ただしさや、責任を負い過ぎる私たちを、その重荷から解き放ち、心も体も財産も守ってくださるのです。

 最近読んでいる本ですが・・・豊田信行師は『イエスとともに過ごす安息日』という著書の中で、こう指摘します。安息日は人に向かって『あなたは神ではない』と言い続けているのだと。「あなたはそんなにできないのだ。そんなに責任を負えないのだ。神にはなれないのだ」と。この境界線を引いていただけるのが、安息を守ることの大きな恵みであると豊田師は指摘します。

 神様の責任をまるで自分の責任であるかのように背負うことから、解放させていただきましょう。私たちは、主の日の礼拝の安息の中に十分に安らぎたいのです。主の安息のもとに荷を降ろしたいのです。「主よ、あなたの慰めと癒しが本当に必要です。休ませてください」と率直に祈り求めませんか。そして、豊田師の興味深い表現として次のものがありました。

「キリスト者は労苦することだけでなく、休息することによって神をあがめることができるのです。いや、休息するキリスト者こそ、真の礼拝者なのではないでしょうか。」
考えさせられますね。

 

2.安息日の主から学ぶ安息

 イエス様は、私たちが真の安息のうちに歩めるように、わたしから学びなさいともおっしゃいました。イエス様の弟子となって、「安息の達人」となるように教えてくださるのです。そして、安息の達人こそが、同時に良い働き手であることもここから分かります。「人の子は安息日の主です。」と言われる主イエス様から教えられましょう。

29節で主イエス様はこうおっしゃいました。 

29  わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。 

 イエス様は「心が柔和である」と言います。どういうことでしょうか。それは、力を適切にコントロールできる資質です。自分がしなくていいものには、あえて手を出さないでいられる資質です。ということは、先ほどの、「何でも自分がやらなければ」という考えとはまるで正反対の資質ですね。必要に応じて力をセーブできるのです。「父なる神にゆだねる」ということを誰よりもご存知なので、やり過ぎないのです。イエス様ほど、父なる神様が働かれることを大歓迎なさっている方はいませんでした。ゆえに、強引に事をなしたりしません。力や奇跡で人を従わせようとしませんでした。

 そして、へりくだっているとは、自分の弱さや無力さを受け入れる資質です。イエス様は人となられた弱さを受け入れ、いつでもご自分を遣わした父なる神の御力にゆだねていました。だからリラックスしており、疲れ果てないのです。パリサイ人から攻撃されても、自分の接し方が悪いに違いないと自分を責めませんでした。弟子の中から裏切り者ユダが出てさえも、私の教えが悪かったのだとそこに囚われ続けたりしませんでした。それらが、自分の負うべき領域ではないと受け入れていたからでしょう。本人たちの意志を尊重し、そこに父なる神のご計画があることを信じ、ゆだねていました。ゆえに、自分がすべきことだけを父なる神様とともに忠実になしていたのです。

このイエス様が「わたしから学びなさい」と言うのです。イエス様の「安息の達人学校」に、みんなで入学したいですよね。自分を責めず、焦らず、気負わず、いつも落ち着いておられる主イエス様です。たとえ嵐の湖の中であってさえ、舟の先端で安心して眠っておられました。その秘訣を教えてくださるのです。

その教えの一つがここにあります。29節でわたしのくびきを負うようにと、教えておられます。それは、簡単に言うと、イエス様の弟子となって、イエス様が任せてくださることをせよということです。なぜなら、30節にあるように、「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いから」です。ここにある「負いやすい」とのことばは、その人に「ぴったり馴染む」という意味です。イエス様が私たちに与える奉仕や働きは、私たちにぴったり馴染むもの、私たちにぴったり合うものなのです。新改訳2017の脚注では「心地良い」という訳もありました。イエス様のくださるくびき、その荷は心地よいものでさえあるのです。

手足の自由を失い、自分でほぼ何もできなくなった星野富弘さんは、病室で聖書を読み進め、次のみことばに出会いました。第一コリント12:22「それどころか、からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです。」 聖書が言うように、本当に神様がいるとすれば、神様は私のような者でも認めていてくれるのだと教えられたのです。そして、こんな者にも役割を与えて何かをさせようとしていると気づきます。星野さんは、こうしてみことばから「今の私の役割は口で字を書くことなのかもしれない」と示され始めたのです。イエス様から与えられたこのくびきは、生涯彼の喜びとなりました。こうして生み出された作品たちは、ご夫妻の子どものようにさえ思っておられたそうです。


それともう一つ。イエス様は一人で負わせない方です。私たちと一緒にそのくびきを負ってくださるので、孤独ではありません

 こうして、主イエス様のもとで間違った重荷に気づき、負うべき荷を得る時にどうなるでしょうか。「たましいに安らぎを得ます」とイエス様は宣言されました。肉体どころか、心どころか、たましいまで安らがせていただけるのです。星野さんはこれを得たのです。実は28節に出て来た「休ませる」ということばと、29節のこの「安らぎ」とは同じことばです。つまり、主が休ませてくださるのでなければ、私たちのたましいはどうしたって安らがないということです。逆に言えば、主が休ませてくださるから、たましいまでも安らぐのです。

 ご一緒にみことばに教えられて参りました。主は私たちに語っておられます。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

 本当に主は休ませてくださいます。そして、間違った重荷に気づかせ、私のために備えられたぴったり馴染む相応しい荷をくださり、喜びの中に歩ませてくださいます。

 間違った重荷を必死に負っていませんか。イエス様のもとに行きましょう。たましいの安らぎを十二分に味あわせていただきましょう。

 

最後に、最近心に残った星野富弘さんの詩を一つ紹介します。

「見ているだけで何も描けずに一日が終わった。そういう日と大きな事をやりとげた日と、同じ価値を見いだせる心になりたい。」 頑張ったけれど、自分で納得できるような成果が何も得られなかったと思える日があります。そういう日でも、何か大きな事を成し遂げた日と同じぐらいの価値を見いだし、感謝できる心・・・素敵ですね。本当の安息を得ていると、きっとそう思えるのではないでしょうか。



引用元聖書
<聖書 新改訳2017
聖書 新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会  

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