東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ローマ書7章1-6節「御霊によって主に仕える」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

最新情報

2024/05/09

ローマ書7章1-6節「御霊によって主に仕える」

 *** 5/8(水)祈祷会 説教概略 ***

 クリスチャンの歩みの尽きない力はどこから、何によって得られるのでしょうか。出エジプト記の3章で「燃えているのに燃え尽きない柴」が出てきました。これから主の働きに召されるモーセに、神様がお示しになったものです。通常、燃えるためには燃料が必要です。この場合は柴と酸素でしょう。柴は燃えれば燃えるほど消費されなくなります。以前、カナダに滞在した時、ほとんどの山火事は勝手に消えるのを待つと言っていました。それは古い木々が燃え尽きれば自然に鎮火するからだと(また、そうやって古い木々が淘汰されることも必要だということでした)。燃料がなくなればやがて鎮火するのです。



 しかし、神様は燃え尽きない柴を見せました。それは、神のもとには無限に力があることを示します。人がやれば必ず燃え尽きていく。燃料に限りがあるし、消耗するのです。しかし、主は無限に際限なく与えるお方。モーセは、主に仕えるということは、そのすべてにおいて、神様ご自身から力を与えられていくものなのだと教えられたのでしょう。

 私たちの「燃え尽きない柴」とは、御霊が与える力です。キリストの御霊が私たちに志を立てさせ、知恵を与え、力を与えます。御霊は消耗することがありません。進むべき道を示し、ふさわしい言動を備えてくださいます。文字に書いた律法ではなく、心の板に記された御霊の語りかけに生きる者であることを教えられましょう。

 

1節 それとも、兄弟たち、あなたがたは知らないのですか──私は律法を知っている人たちに話しています──律法が人を支配するのは、その人が生きている期間だけです。

 律法の効力が一時的であることを明らかにしています。それはどんなに長くても人がこの地上で生きている間しか効力を持たないということです。具体的な例示として、結婚のことが2-3節で語られています。結婚している夫婦があるけれど、片方が亡くなった場合、亡くなった後にも永遠にその相手の夫や妻であるわけではないので、再婚しても姦淫の罪に定められることはないと説かれています。これは、律法というものは、あくまでも地上の生涯においてしか効力を持たないという例示です。ですから、一度死ねば、律法は終わるということをパウロは語ります。それで4節につながるのです。

4節 ですから、私の兄弟たちよ。あなたがたもキリストのからだを通して、律法に対して死んでいるのです。それは、あなたがたがほかの方、すなわち死者の中からよみがえった方のものとなり、こうして私たちが神のために実を結ぶようになるためです。

 ここでは面白いアプローチをしています。「私の兄弟たちよ」と呼びかけます。パウロの兄弟姉妹たちとは誰でしょうか。それは律法に生きている人々ではなく、イエスをキリストであると信じている人々です。ユダヤ人であろうと、ギリシア人であろうと関係なく、ただイエス様を主として信じているなら、キリスト者であり、彼らこそパウロの兄弟姉妹です。彼らに対して、パウロはこう語るのです。「あなたがたもキリストのからだを通して、律法に対して死んでいるのです。」と。先ほど、夫や妻が死んだら、もうその律法の縛りから解放されているとありました。それと同じように、あなたがたはキリストと一緒に葬られたので、もう律法に対して死んでいるのだということです。後半にあるように、キリストにあって死に、キリストの新しいいのちに生きているのだから、もう律法の支配のもとにはないのです。

 ですから今は、律法によって生きるのではなく、キリストによって生きており、その原動力はキリストの御霊です。4節の終わりにあるように、「神のために実を結ぶようになる」という良い目的に生かされています。しかしこれは、御霊によるのでなれければ実現できません。聖霊はクリスチャン生活の力の源、まさに燃え尽きない燃料です。

 5-6節をご覧ください。 5節 私たちが肉にあったときは、律法によって目覚めた罪の欲情が私たちのからだの中に働いて、死のために実を結びました。6節 しかし今は、私たちは自分を縛っていた律法に死んだので、律法から解かれました。その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。

 今、私たちは、生まれたままの肉の状態ではありません。イエス・キリストを信じて、神の聖霊が住まわれる神の宮となりました。律法の文字に従って生きるのではなく、御霊によって神のみこころに生きる者となりました。

 6節にあるように、古い文字によらず御霊によって主に仕えているのです。これは第二コリント36でもこのように語られています。ともに開いてみましょう。

Ⅱコリ 3:6 神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者となる資格です。文字は殺し、御霊は生かすからです。

 古い律法の契約ではなく、新しいキリストによる契約に生きる者となりました。御霊に仕える者、御霊によって奉仕する者になりました。ここでは非常にインパクトのある表現があります。「文字は殺し、御霊は生かす」ということばです。もちろん、律法自体も正しく理解すれば悪いものではないのです。神の恵みでありました。けれども、律法には限界があり、人はそれをことごとく守るなど到底できないと証明されましたから、行きつく先は死、滅びでした。主の教えを守れない人間は、その報いを受けなければなりません。

 しかし、神様はご計画のうちに律法を守れない人間のために、キリストを備えられました。キリストを信じるすべての者に御霊をくださいました。文字は私たちを神のさばきによる死をもたらしますが、御霊はキリストにある永遠のいのちに私たちを導き、生かします。ちょうど、今月はペンテコステがありますね。主の御霊によって生きることの大切さとその喜びを、さらに教えられていきたいと願うのです。

 御霊によって生きる道は、いつでもキリスト中心を意識することです。罪を示されたら、それは御霊が教えてくださったのです。それに従い罪を悔い改め、キリストに従おうとすうならば、御霊が私たちを満たし、力を与えてくださいます。自分の成功のために働くなら肉が働きますが、主の栄光の現れのために働くなら御霊が働いてくださいます。肉の欲はこの世のことを優先させますが、御霊は神の国の働きを優先させるからです。

 御霊に明け渡す祈りをいつでもささげていきましょう。燃え尽きない、無尽蔵の神の力・御霊によって信仰の火を灯らせ続けましょう。聖霊は聖書の真理を私たちに教え、キリストの心をいつも私たちに示してくださいます。そこには主にある平安が豊かにあります。

 

 ですから、日々の歩みにおいても、御霊の導きに敏感になりたいと思います。霊的なアンテナを張り巡らせて、右を選ぶのか左を選ぶのか、進むのか留まるのか、語るのか沈黙するのか・・・。一つ一つを祈りのうちに御霊に聴いて歩みましょう。

例えば、聖書の書物「使徒の働き」は「聖霊の働き」と言い換えることができるでしょう。行くべきところに行けと示し、「そこに行くな、留まれ」ということも聖霊が示しました。自分の感覚ではなく、祈りのうちに、みことばの根拠の上で。それに従う時に守られ、祝され、多くの人々が救われ、恵みが増し加わりました。私たち自身の心の声に聴くのではありません。主の御霊の促しに心を静かにして聴くのです。

神様が「ここだ」と力強い働きをなさるところ。そこに敏感になり、そこに身を置くことによって、私たちはますます主のみわざを体験することができるからです。


引用元聖書
<聖書 新改訳2017
聖書 新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会  

教会へのメールはこちらから

名前

メール *

メッセージ *