東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 第二歴代誌7章11-22節「わたしの目と心はいつもそこに」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2024/05/13

第二歴代誌7章11-22節「わたしの目と心はいつもそこに」

*** 5/12(日)主日礼拝 説教概略 ***

 焼肉屋とカラテ道場に挟まれたビルの3階。そこが少し前の私たちの教会堂でした。礼拝堂とキッチンとラウンジが同居し、すべての催しが同じスペースで行われました。牧師室も変幻自在です。礼拝前はJYLCのスペース、礼拝後には会計部屋。ゲストがいらっしゃると「ゲストルーム」へと早変わりしました。



 夕方4時頃になると下の焼き肉屋さんからポップな音楽が流れて来ます。夜の祈祷会をしていると、ガタガタとテーブルが揺れるのです。当時の神学生が「先生、地震じゃないですか!?」と驚きました。しかし、カラテ道場の稽古が始まったサインでした。見つけにくい「隠れ家」のような教会でしたが、駅からとても近く、ワンフロアですべてが完結する便利さもありました。楽しかった思い出がたくさんありますね。

 そこから、主が次の段階へと導いてくださり、新しい会堂が与えられました。早くも5年が経ちます。ここでは焼き肉の匂いもせず、音楽も聞こえて来ず、ガタガタ揺れることもありません。経済的に守られていることも感謝なことです。でも、それらは決して当たり前ではありません。神様がすべてを備えてくださったので、落ち着いて礼拝し、過ごすことができるのです。会堂移転1年後に、パンデミックに見舞われることは、誰も予想できないことでしたね。それでもこの会堂であったからこそ、様々な対応ができました。多くの方が加わってくださったことは本当に感謝です。本日はこの教会堂が建って5年の節目にあたります。これまでの5年の感謝はもちろんですが、これからの歩みにおいて、神様に喜ばれる道をともに求めていきたいと思います。神様が「その目と心をいつもそこに置く」と言いたくなるような教会とは、どういう教会でしょうか。

 今日のみことばは、神殿が完成した時のものです。ソロモンが献堂の祈りを終えると、主の栄光がこの神殿いっぱいに広がりました。建てた人たちも、神様も、皆で喜んだことでしょう。その夜、主はソロモンに語りかけました。それが12節です。 

12 その夜、主はソロモンに現れ、彼に言われた。「わたしはあなたの祈りを聞き、この場所をわたしにいけにえを献げる宮として選んだ。

 建てた神殿が神様に受け入れられ、喜ばれたのです。苦労して建て、献げた者としては、この上ない喜びではないでしょうか。神様は、ソロモンの祈りを聞き、この宮をいけにえを献げる宮として選ばれたのです。それは神様が親しく交わってくださる聖なる宮として、お認めになったということです。この教会堂もそういう場でありたいと思うのです。神様ご自身がこの会堂を喜び、ここでのご自身との交わりを楽しんで下さるような、そのような教会堂とされたら嬉しいですよね。

 13-14節は、飢饉や疫病などの災害に遭う時に、この宮で神の民なるあなたがたが祈りなさいという主の招きです。あなたがたが、へりくだって主の御顔を慕い求めて祈るなら、本当に親しく祈りを聞いてくださるというのです。私たちもただ遊ぶ、ただ交わるだけで終わらず、ともに祈る交わりを大切にしたいと思います。祈祷会にもまだまだ多くの方の参加を心待ちにしております。本当に祈りが聞かれていることを体験し、励まされます


そして、特に今日心を留めたいのは15-16節です。

15 今、わたしはこの場所でささげられる祈りに目を開き、耳を傾ける。16 今、わたしはこの宮を選んで聖別した。それはとこしえにわたしの名をそこに置くためである。わたしの目とわたしの心は、いつもそこにある。 

 このみことばが私たちの教会の上に、いつでも実現するようにと願います。神様が選んで聖なるものとしてくださるように。いつでも、いついつまでも、主がその御名を喜んでここに置いてくださる教会、教会堂でありたいのです。この秋に星野富弘さんのアート展を開催しますね。これは非公式に勝手にするものではありません。案内には富弘さんの作品を堂々と掲載します。都合が合えば富弘美術館の館長さんにも来ていただけるよう依頼しています。言わば「お墨付き」をいただいてするものです。変な団体、異端的な群れであっては断られてしまいます。その名を冠して行うとは、そういうことです。

 それと同じように、私たちが主キリストを愛さないような偽物の教会なら、主がそのお名前をそこに置くことを決して許されないのです。

 ですから、私たちは、これから先も神様が喜んで「わたしの名をそこに置こう」と言ってくださる教会を目指したいですね。私たちの正当性は、私たち自身が決めるのではありません。主がその名を喜んで置いて、主が目を注ぎ、主が心を置いてくださることによるのです。「わたしの目とわたしの心は、いつもそこにある」そのような教会となったら、祝福に満ちた神様のみわざが豊かに起こりますね。

 今回、献堂5年の節目でもあります。この会堂で始まった「教会開放日」のノートを最初から全部見ていました。来てくれた子どもたち(高校生まで)全員の名前が毎回記されていました。開放日以外でも来てくれた記録もありました。それらの記録によるとこの5年間、延べ人数で、何名来てくれたと思いますか。コロナで1年お休みしましたので、実質4年間ですが・・・。クイズです。1.220人 2.420人 3.620 正解は3です。

 普段のCSCSイベント以外でこれだけ来てくれました。記録できなかった日もありますので、これ以上です。本当に多くの子を迎えることができ、嬉しく思います。無料で場所もおやつも遊び道具も提供できたのは、皆さんの尊い献げ物と愛の祈りがそこにあったからです。本当にありがとうございます。そして、これからもよろしくお願いいたします。

 ただ、ノートを見ていると所々、こういう記録があることに気づきました。「〇月〇日、子どもは誰も来ませんでした」。「0ゼロ」の日も少なからずあったわけです。でも、私は、この「子どもは誰も来ませんでした」という記録こそが、宝物だと感じました。この働きのすばらしさを物語っていると思いました。

 なぜか?

 途中で帰ったら、この記録は書けないからです。誰も来なくても、ずっ~と終わりの5時まで待ち続けたから書ける記録ではないでしょうか。兄姉の皆さんが夕方5時まで「来ないかな~、来ないかな~」と、そこに待ち続けてくださった愛の記録です。誰も来ないのは本当にさみしいです。でも、そんな日も、待っていてくれる人がいるから、子どもたちが来られるのです行けば誰かが待っていてくれるから、行けるのです。 

 先週、菅原兄の葬儀がありましたが、教師をされていた菅原兄のすばらしいエピソードを伺いました。家に帰ると、つっぱり&不良学生たちがいっぱい家に来ていた。菅原先生に家まで愛に来ていた。そういう生徒たちからも慕われていたのだそうです。リアル金八先生ですね。来るのを喜んでくれるから行けるのです。

教会はなぜすばらしいのでしょうか。それは主がそこにおられ、どんな時でも待っていてくださるからです。教会にその名を置き、その目を注ぎ、その心をいつも置いてくださっているからです。建物が荘厳でも、主の臨在を感じられないような教会は、行く意味がありません。主がここにおられるから、私たちは喜び勇んで集まるのです。確かに神様はどこにでもおられます。でも、私たちは神様を礼拝し祈る宮としてこれを建て主に献堂したのです。これは主のものです。あなたがここに豊かに臨んでくださいと真剣に祈りながら。だからこそ、主イエス・キリストの名が隠れるような教会、また会堂であってはなりません。そうではなく、「あそこに行けば、十字架の主にお会いできる!」、「主の語りかけを聞ける!」そういう教会でありたいですよね。

 

そのために、大切にすべきことが一つあると語られています。その大切な一つのことは17-18節にあることです。何でしょうか。 17 もしあなたが、あなたの父ダビデが歩んだように、わたしの前に歩み、わたしがあなたに命じたことすべてをそのまま実行し、わたしの掟と定めを守るなら、18 わたしが、あなたの父ダビデに『あなたには、イスラエルを支配する人が断たれることはない』と言って契約を結んだとおり、わたしはあなたの王座を確立しよう。 

神様がはっきりおっしゃったことはこれです。ダビデのようにわたしの前に歩み、命じたことをそのまま実行しなさいということでした。神様とともに歩み、その教えをそのまま実行するなら、その王座を確立するとおっしゃいました。しかし、反対に19-20節にあるように、神様のみおしえを捨て去り、偶像礼拝に生きるなら、神様もこの宮を投げ捨て、物笑いの種、嘲りの的とするとおっしゃいました。

残念ながら、イスラエルの民はこの通りになってしまいました。ソロモンは晩年に神様のみこころを損ない、その後、国は南北に分裂しました。偶像礼拝は盛んになり、どんどん神様から離れ弱体化していきました。そして、どちらも滅び、囚われ、神殿は破壊されてしまったのです。 

では、17節にあった「ダビデが歩んだように、わたしの前を歩む」とは、どういうことなのでしょうか。もちろん、みことばを実行することですが、もう少しダビデの信仰に着目しましょう。

第一に、何よりもダビデは神様を愛していました。「『神様愛』があふれてしまっているような人」だと個人的には思います。隠しても隠し切れないほど、神様への愛が「ダダ洩れ」のような人です。ある時、ダビデは人目をはばからず、主の前で跳ねたり、踊ったりしました。奥さんから「今日は大変威厳がございましたね!ごろつきが恥ずかしげもなく裸になるように、裸で踊るなんて!」と、嫌味を言われても気に留めないほど、神様にゾッコンなのです。もしかしたら、奥さんのミカルは、ダビデが自分以上に神様大好きだったので、神様に嫉妬していたのかも知れませんね。私たちも、「あのサンライズチャペルの人たちって、神様愛がダダ漏れだよね!イエス様大好きすぎるよね!」と言われるぐらいの群れでありたいのです。 

そして、ダビデのように神の前に歩むとは、第二に何度でも主に立ち返る、悔い改めの姿勢を持つことです。ダビデは聖書中、もしかしたら最も失敗の多い人物だったかも知れません。多くの罪を犯しました。夫としても、父としても、王としても、欠点だらけでした。不貞を働き、妊娠させ、さらに隠すために不倫相手の夫(自分の家臣)を死なせました。息子たちのケンカの仲裁もできず、しつけも不十分で、息子が息子を殺してしまいます。息子から恨まれ憎まれ、反乱を起こされ、結局その子も死なせてしまいます。晩年には軍隊を誇る「高慢さ」の罪を指摘されました。まさに、ダビデはいっぱい失敗した「失敗王」です。

でも、神様からとても愛されていました。「ダビデが歩んだように歩め」と言われるほどに、ダビデは神様の目にかなっていたのです。なぜでしょう?ソロモンと何が違うのでしょう?

ダビデは何度でも立ち返ったのです。失敗しても、罪を犯しても、神様に心から「ごめんなさい」をしました。悔い改め、やり直しました。いつも神様の方に心が向いていたのです。悪いことをしてしまった時でさえも、神様を意識していました。神様の前で苦しみ、神様の前に涙し、神様にすがっていたのです。これが主のみこころです。

私たちのこの群れも、神様の前に歩みたいのです。失敗もするでしょう。問題も起こります。でも、主の前に歩みたいのです。悔い改め、何度でもやり直しつつ。主の目がいつもここに、主の心がいつもここにある群れであり続けたいのです。



引用元聖書
<聖書 新改訳2017
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