東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ローマ書7章7-13節「罪と律法の理解、そして救い」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2024/05/17

ローマ書7章7-13節「罪と律法の理解、そして救い」

*** 5/15(水)祈祷会 説教概略 ***

 病気の告知というのはとても難しく、デリケートな課題です。例えば、明確に治療法があり、完治する病であれば告知しやすいでしょう。しかし、良い治療法がないものを告知すると、告知自体が悪いものになりかねません。知らない方が良かったということもあるのかも知れません。

 それでも明確に区別すべきは、健康診断や病の告知が問題なのではなく、病自体が問題なのだということです。医療従事者を責める方が多いですが、彼らは敵ではなく一緒に病やケガと戦う味方ではないでしょうか。


 罪の問題も似ているように思います。

 パウロはこれまで律法主義の問題に触れてきましたが、本当は罪自体が悪いのであって、罪を教えてくれる戒め(律法)自体が、死に至らせてるわけではないのです。

 ただ、罪があまりにも悪く、恐ろしいものなので、罪を明らかにしてくれる律法(戒め)自体も悪いものに見えてしまうという一面もあります。また、戒めだけを強調するユダヤ主義の場合、救いが提示されていませんから(もしくは提示されているものの、実質達成できないので)、まさに律法が死刑宣告をするだけに終わってしまうのです。

 罪だけを提示して、救いを提示しないのであれば、戒め自体が悪いものにさえ見えてしまうのです。何より私たちには、励ましや希望も必要ですよね!今日のみことばは、罪と戒めの区別を明確にし、14節以降の「罪の自覚」への備えとしています。


7  それでは、どのように言うべきでしょうか。律法は罪なのでしょうか。決してそんなことはありません。むしろ、律法によらなければ、私は罪を知ることはなかったでしょう。実際、律法が「隣人のものを欲してはならない」と言わなければ、私は欲望を知らなかったでしょう。 
 律法自体は人を罪に定めるものであることが語られてきました。けれども、この7節にあるように、律法自体は良いものです。律法がなければ、罪に気づくこともなかったと言っていますね。

 具体的には、十戒のうちの「隣人のものを欲してはならない」との教えを例に挙げています。この教えを学んだからこそ、自分の中にある他人の物をあれこれ欲してしまう欲望が、罪深いものであると学んだと言います。確かにこの点こそが律法が与えられている恵みです。心やたましいの健康診断です。罪という病の告知だと言えます。

 しかし、8-11節でこう語られています。

8  しかし、罪は戒めによって機会をとらえ、私のうちにあらゆる欲望を引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。
9  私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たとき、罪は生き、
10  私は死にました。それで、いのちに導くはずの戒めが、死に導くものであると分かりました。
11  罪は戒めによって機会をとらえ、私を欺き、戒めによって私を殺したのです。 

 少しインパクトのある表現が使われているので、戒めや律法が悪いものに見えます。

 先日、中年男性3人で「健康診断って嫌だよね」という話をしておりまして、少し似ているなと感じました。健康診断が有意義なものだとは認めつつも、自分の体が悪いと突き付けられること自体のストレスが大きすぎて、かえって元気を失うという話でした。

診断を受けて励まされたり、努力を褒められたりすることがなく、問題点ばかりを指摘され、かえって調子が悪くなります。問題の指摘は健康診断の目的なのですが、しかし副産物として、「私は病気なんだ。色々問題があるだ」落ち込ませ、鬱的な症状を引き起こすという課題もあるように思います。それは、私たちのうちにある病への恐れがそうさせてしまうのです。

 同じように、律法を知らなければ罪にそこまで気づかないわけです。しかし、律法があることで「あなたは滅び向かう罪人です」という現実を、厳しく突き付けられるのです。

8-11節で語られていることは、簡単に言うとこれではないかと思います。

 なお、8節の「罪は戒めによって機会をとらえ」の部分は、擬人法(罪を人間のようにたとえること)が使われています。「機会をとらえ」とのことばは、戦場で戦の流れを読んで攻める(占拠する)という意図で使われたりするようです。罪の力が強いために、律法という良いものさえも占拠し、罪の側の勢力に変えてしまうのです罪は律法さえも自分の手下に加え、罪の領地をより広く獲得していこうとします。(私たちの目にそう見える) 

ただ、パウロはここを明確に区別しています。それでも律法が悪いのではなく、そもそも「罪」が悪く、私たちを滅びに至らせるのだと。それで12節で、こう語るのです。

12  ですから、律法は聖なるものです。また戒めも聖なるものであり、正しく、また良いものです。  

 ですから、私たちは整理して正しく理解したいと思うのです。やはり問題なのは律法、戒めではなく、私たちのうちにある「罪」なのですこれは間違いないことです。病気や悪いところがないなら、健康診断も恐れる必要がないように、罪が一切ないなら律法も何も怖くありません。13節でこう語られていますよね。 

13  それでは、この良いものが、私に死をもたらしたのでしょうか。決してそんなことはありません。むしろ、罪がそれをもたらしたのです。罪は、この良いもので私に死をもたらすことによって、罪として明らかにされました。罪は戒めによって、限りなく罪深いものとなりました。

「罪は戒めによって、限りなく罪深いものとなりました」とあります。戒め、律法だけで終ると、罪深さだけを感じてしまいます。「ああ、私はとんでもない罪人だ」と、厳しい現実を突きつけられることになるのです。それだけを見ると、聖書を学ばない方がいいのではないかと言われるかも知れません。この世のカウンセラーの中には、そうした罪の指摘が精神衛生上良くないのだと主張する方々もいます。

 しかしながらそれは、聖書の最も大切な部分を抜きにした極端な話です。「それは罪なのだ」との指摘だけをすることは、神様のみこころではないのです。きちんと治療方針が明示される中で病を指摘されるならば、それは良いものになります。病の自覚は治療の必要性をわからせ、治療の道は希望をもたらすからです。

 実際、聖書はいつでもキリストの十字架の赦しが中心であることを教えているのです。この赦し、この救いなしに、律法だけを学ぶために、まさに罪が示され、その結果である死、滅びを意識させられるでしょう

ですから、救いなしに律法だけを提示するような律法主義、ユダヤ主義の問題はそこでしょう。神の救いこそが聖書の中心テーマであり、一番大切な部分です

むしろ、確実な救い、完全な救いの約束がセットだからこそ、罪を示されることに大きな意味があるのです!改めて感謝しています。神様の健康診断には、必ず完全な治癒方法がセットになっているからです。つまり、神様はこうおっしゃるのです。必ずわたしが癒すから、私の診断を受けなさいと。 

私たちもまた、ただ聖書の道徳的な教えばかりを指導するなら、出来ていない自分に気づかせるだけで終わり、希望がありませんね。しばしば、キリスト教教育が、そのような単なる道徳教育となり、きよく正しく生きるようにとの戒律で終わってしまう危険があります。それはかえって、人を傷つけ悲しませただけであって、聖書の本質から遠ざけてしまうでしょう。それらの歪みも、罪が根っこにあるのかも知れません。

 罪の歪みが、良いものさえ悪いものにしてしまう。このことにも注意をしたいと思います。そして、罪の恐ろしさや本質の理解をするとともに、あるいはそれ以上に、罪に対する赦し、キリストの十字架の救いの大きさをますます教えられていきましょう。





引用元聖書
<聖書 新改訳2017
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