少しインパクトのある表現が使われているので、戒めや律法が悪いものに見えます。
先日、中年男性3人で「健康診断って嫌だよね」という話をしておりまして、少し似ているなと感じました。健康診断が有意義なものだとは認めつつも、自分の体が悪いと突き付けられること自体のストレスが大きすぎて、かえって元気を失うという話でした。
診断を受けて励まされたり、努力を褒められたりすることがなく、問題点ばかりを指摘され、かえって調子が悪くなります。問題の指摘は健康診断の目的なのですが、しかし副産物として、「私は病気なんだ。色々問題があるだ」と落ち込ませ、鬱的な症状を引き起こすという課題もあるように思います。それは、私たちのうちにある病への恐れがそうさせてしまうのです。
同じように、律法を知らなければ罪にそこまで気づかないわけです。しかし、律法があることで「あなたは滅び向かう罪人です」という現実を、厳しく突き付けられるのです。
8-11節で語られていることは、簡単に言うとこれではないかと思います。
なお、8節の「罪は戒めによって機会をとらえ」の部分は、擬人法(罪を人間のようにたとえること)が使われています。「機会をとらえ」とのことばは、戦場で戦の流れを読んで攻める(占拠する)という意図で使われたりするようです。罪の力が強いために、律法という良いものさえも占拠し、罪の側の勢力に変えてしまうのです。罪は律法さえも自分の手下に加え、罪の領地をより広く獲得していこうとします。(私たちの目にそう見える)
ただ、パウロはここを明確に区別しています。それでも律法が悪いのではなく、そもそも「罪」が悪く、私たちを滅びに至らせるのだと。それで12節で、こう語るのです。
12 ですから、律法は聖なるものです。また戒めも聖なるものであり、正しく、また良いものです。
ですから、私たちは整理して正しく理解したいと思うのです。やはり問題なのは律法、戒めではなく、私たちのうちにある「罪」なのです。これは間違いないことです。病気や悪いところがないなら、健康診断も恐れる必要がないように、罪が一切ないなら律法も何も怖くありません。13節でこう語られていますよね。
13 それでは、この良いものが、私に死をもたらしたのでしょうか。決してそんなことはありません。むしろ、罪がそれをもたらしたのです。罪は、この良いもので私に死をもたらすことによって、罪として明らかにされました。罪は戒めによって、限りなく罪深いものとなりました。
「罪は戒めによって、限りなく罪深いものとなりました」とあります。戒め、律法だけで終ると、罪深さだけを感じてしまいます。「ああ、私はとんでもない罪人だ」と、厳しい現実を突きつけられることになるのです。それだけを見ると、聖書を学ばない方がいいのではないかと言われるかも知れません。この世のカウンセラーの中には、そうした罪の指摘が精神衛生上良くないのだと主張する方々もいます。
しかしながらそれは、聖書の最も大切な部分を抜きにした極端な話です。「それは罪なのだ」との指摘だけをすることは、神様のみこころではないのです。きちんと治療方針が明示される中で病を指摘されるならば、それは良いものになります。病の自覚は治療の必要性をわからせ、治療の道は希望をもたらすからです。
実際、聖書はいつでもキリストの十字架の赦しが中心であることを教えているのです。この赦し、この救いなしに、律法だけを学ぶために、まさに罪が示され、その結果である死、滅びを意識させられるでしょう。
ですから、救いなしに律法だけを提示するような律法主義、ユダヤ主義の問題はそこでしょう。神の救いこそが聖書の中心テーマであり、一番大切な部分です。
むしろ、確実な救い、完全な救いの約束がセットだからこそ、罪を示されることに大きな意味があるのです!改めて感謝しています。神様の健康診断には、必ず完全な治癒方法がセットになっているからです。つまり、神様はこうおっしゃるのです。必ずわたしが癒すから、私の診断を受けなさいと。
私たちもまた、ただ聖書の道徳的な教えばかりを指導するなら、出来ていない自分に気づかせるだけで終わり、希望がありませんね。しばしば、キリスト教教育が、そのような単なる道徳教育となり、きよく正しく生きるようにとの戒律で終わってしまう危険があります。それはかえって、人を傷つけ悲しませただけであって、聖書の本質から遠ざけてしまうでしょう。それらの歪みも、罪が根っこにあるのかも知れません。