*** 5/19(日)主日礼拝 説教概略 ***
教会には本当に多種多様な奉仕があります。掃除や整理整頓、日曜大工もあれば、食事作りの奉仕もある。受付、事務、献金・財務、パソコン作業、音響、司会や奏楽。もちろん、みことばを教える働き、説教もそうです。その他にもたくさんあるでしょう。
その中で、信仰によらない奉仕、聖霊に導かれる必要のない奉仕は、あるでしょうか。
実は、一つもありません。
もちろん、まだ信仰を持っていない方に奉仕を手伝ってもらうこともあります。私はそれを認めています。でも、それを肯定する理由は何でしょうか。奉仕の際に、クリスチャンが中心となって、御霊によって奉仕することで、神様の偉大さを知っていただく機会になるからです。
日本福音自由教会の信仰箇条第四条は「聖霊」についてです。その解説では、聖霊はクリスチャン生活の原動力であると教えられています。ヨットが風を受けなければ前進できないように、聖霊の風を受けなければ、私たちの働きは前に進めません。しかし、主を信頼して、主の御霊によって力を受けるならば、私たちはどこででも、キリストを証しすることができるのです。それが聖霊の力だからです。本日のみことばは、教会に問題が起こり危機が迫る時に、御霊によって歩む者たちによって、教会がイキイキと輝き、宣教が前進したことを示しています。
1.問題勃発
1節 そのころ、弟子の数が増えるにつれて、ギリシア語を使うユダヤ人たちから、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して苦情が出た。彼らのうちのやもめたちが、毎日の配給においてなおざりにされていたからである。
ギリシア系ユダヤ人が、ヘブル系ユダヤ人に苦情を申し立てたという問題が起こりました。どちらもユダヤ人ですが、ことばや文化が異なる者同士の間で対立が起こったのです。特に弱い立場の未亡人(やもめ)たちが、食べ物の配給で差別を受けていたようです。この問題が起こった際に、使徒たちはその対応に追われ、教会として大きな危機を迎えていました。どのような危機だったのでしょうか。対立が起こったことが危機だったのでしょうか?
実はそうではありませんでした。では、何が深刻な危機だったのでしょうか。2節で12使徒が弟子たち全員を呼んで伝えていることが語られています。
2節 そこで、十二人は弟子たち全員を呼び集めてこう言った。「私たちが神のことばを後回しにして、食卓のことに仕えるのは良くありません。
一番の問題は、神のみことばが後回しにされることでした。問題が起こったことが問題なのではなく、問題に追われて、みことばが後回しにされる状況こそが大問題だったのです。
「食卓のこと」と訳されたことばには、両替屋(銀行業)といった意味もあります。食事のことだけでなく、財務や管理、事務的な事に仕えるあまり、みことばを備え、語る奉仕が後回しになりつつあったのです。それらのことに使徒たちが多くの時間と労力を取られてしまったのです。結果、みことばと祈りに力を注げなくなっていたことが深刻な危機だったのです。みことばや祈りが軽んじられるならば、教会は霊的に弱ります。外からはそれなりに出来ているように見えても、いのちのみことばからいのちを得られなければ、飢え渇いて枯れ果ててしまいます。
使徒たちが、この本質的な問題に気づかされたのは、まさに御霊の知恵でしょう。もし、私が「最近事務仕事が忙しくて、すいません。今日の礼拝説教は自習でお願いします。ご自分で聖書をお読みください。」と言うようなら、この教会は危機的な状況でしょう。では、この時に使徒たちは、御霊に導かれてどのような対応をしたのでしょうか。
2.御霊によってどのように対処したのか
3-4節です。
3節 そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵に満ちた、評判の良い人たちを七人選びなさい。その人たちにこの務めを任せることにして、4節 私たちは祈りと、みことばの奉仕に専念します。」
使徒たちの他に7人の人を立て、彼らにこの食卓や事務をゆだねるという提案でした。そうして、使徒たちは祈りとみことばの奉仕に専念するのです。この7人の人たちは現在の教会の執事や役員の始まりだと言われています。彼らの存在によって、牧師などの教職者が、みことばと祈りなど、より霊的な働きに専念できるようにしたのです。これは主のみこころにかなったことでした。
では、食事の配給や事務的なことに奉仕する人たちは、どういう人を立てようとしたのでしょうか。3択クイズです。1.計算が早い事務能力に長けた人 2.誰も逆らえないような権力がある偉い人 3.御霊と知恵に満ちた評判の良い人 3番でしたね。
実は、配給や事務を任せるにも関わらず、「そうしたことが得意そうな人を選びましょう」とは言わなかったのです!!これは、教会ならではですよね。そして、これが教会の強みなのです!!
能力や地位、権力や実績など一切触れられていません。生まれがどうとか、これまでの総献金額だとか、そうしたことに少しも触れていませんよね。どうでもいいのです。では、何が大事にされているのでしょうか。「御霊と知恵に満ちた、評判の良い人」であることです。3節では「知恵と御霊に満ちた」と語られ、5節では「信仰と聖霊に満ちた人」として、選ばれた人が紹介されていますよね。
信仰と聖霊に満ちた人は、当然に神の知恵にも満ちた人です。ということは、何かが得意でなくても、心から神様を信じて、御霊に明け渡している人にこそ立って欲しいのです。メッセージなどのみことばのご奉仕でなくても、「知恵と御霊に満ちた評判の良い人」を選びましょうと言うのです。
その点から言うと、実は教会では地位、名誉、権力、能力ではなく、主への信頼、御霊にゆだねること、神様に知恵を求め続けることが、あらゆる良い奉仕、働きの基礎なのですよね。
ですから、ここにある「評判の良い人」という意味も、ウケのいい人気のある人ではありません。世的な評判の良さじゃありません。霊的で、信仰的な人。謙遜で、そうした意味で尊敬されている人のことです。これらは、ゼカリヤ書の4章6節のことばとピッタリ合っています。
彼は私にこう答えた。「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』と万軍の主は言われる。
権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって!主がそう言われているのです。私たちの働きはこれなのです。何をするにも神の霊によってさせていただくのです。ゴミ一つ拾うにしてもです。
ローレンスという修道士は、髪の毛一本を拾うにも神様を愛するゆえに深い喜びに満たされたと言います。神の宮に落ちていた髪の毛1本を拾って、神様への尊い奉仕ができたと心から喜んでいる話です。クリスチャンの世界以外で、そんな話は聞いたことがありません。
こうして、教会ではこの世の価値観ではなく、心から神様を信じて愛する人、聖霊に満たされて神様から知恵を受けて歩む人が、尊敬され、また様々な奉仕を担うのです。だから、誰でも主に喜ばれる奉仕ができるのです。体が不自由でも御霊に満たされることができます。ことばが得意じゃなくても御霊に満たされます。そのようにして、すべてのキリスト者が、信仰と聖霊に満ちたらどうなるでしょう。ワクワクします。どんなにか教会は豊かにされ、輝き、主の栄光で満ちることでしょうか!
3.結果、どうなったのか。
こうして起こった問題に対して、世的な方法で対処せず、御霊に導かれて対応した結果どうなったのでしょうか。
7節 こうして、神のことばはますます広まっていき、エルサレムで弟子の数が非常に増えていった。また、祭司たちが大勢、次々と信仰に入った。
こうしたことによって、神のみことばはますます広まっていきました。教会組織が大きくなったのではありません。教会の権力が増したとも言いません。みことばと祈りが後回しにされなかったので、大事にされたのでみことばが広まったのです。イエス様を信じる本物の弟子が非常に増えたのです。
面白いことに「祭司たちが大勢、信仰に入った」ともあります。それまで信仰なしに祭司の仕事をしていたのでしょうね。職業祭司です。本物じゃなかったのです。けれども、御霊にゆだね、祈りとみことばが大事にされ、事務的なことさえ霊的になすようになった時、大きな変革が起こったのです!信仰が生きたものになりました。形ばかりにキリスト者ではなく、本物のキリスト者が生まれて行ったということです!
ご一緒にみことばに聴いて参りました。主がお語りになっています。「あらゆることを信仰と聖霊に満たされてするように」と。「みことばを大事にし、神の知恵によって生きるように」と。それは、神様の尽きることのない力を受けてなすためです。主のみわざを皆で味わい、キリストを証しするためです。そこに本物のイキイキとした信仰が生まれて来るからです!生まれや地位、能力、財力、権力。そうしたものに依存するのをやめましょう。ただ主の大いなるみわざに期待しましょう。御霊によって知恵と力をいただきましょう!地の果てまでキリストの御名が響き渡るような、エキサイティングな歩みをさせていただきましょう!
引用元聖書
<聖書 新改訳2017>
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