東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ローマ書7章14-25節「真の自由を求めて」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2024/05/22

ローマ書7章14-25節「真の自由を求めて」

*** 5/22(水)祈祷会 説教概略 ***

 今日の個所は、「罪」というものが分からない方々に、「ああ、私もそうかも」と思っていただくのに、良い助けになる箇所だと思います。私自身もこの箇所から本当にそうだな~と心当たりがありまくった一人でした。自分は「自由だ」と思っている気でいるのに、案外不自由で、罪の奴隷になってしまっていることに「はっ」と気づかされるみことばだと言うこともできるでしょう。



 それで、私も初心者の学びや伝道説教の時に度々引用することがあります。自分がしたいと思う良いことができず、かえってすべきでない悪をしてしまったということが、多くの人に当てはまるからです。仲良くしたいという願いがお互いにあるのに、それぞれが自分の主張をするごとに、すれ違い、衝突し、傷ついていくことがあります。

 結婚する時、仲良くしたくない夫婦などいないでしょう。仲良く楽しい家庭を築きたいとお互いに思ってするはずです。それでも、仲良くできない夫婦が随分多いのはなぜでしょうか。まさにお互いに罪人であるからでしょう。 

 クリスチャン小説家の三浦綾子さんが、自由とは何だろうかと著書の中で考察なさっていました。自分の欲のままに生きることが自由ではないと言います。欲のままに生きると誰かを悲しませ、そして後悔が生まれるのです。それは欲望に支配されている不自由です。ですから、その欲望から自由にされて、正しい良いことを制限なくできること。それこそが真の自由ではないかと指摘します。

 確かに、真の自由とは、罪の欲望から自由にされて、本当に良いと思えることを、妨げなくできることではないでしょうか。ただ自分の力ではこの自由を獲得できません。

 それで24節で、パウロはこう言っています。「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」彼はすごく真面目で熱心でしたが、自力ではこの縄目から抜け出せないと分かったのです。そして、この自由を得させてくださる方が、主イエス・キリストであると明確にわかったのです。私たちも教えられましょう。

 

14  私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は肉的な者であり、売り渡されて罪の下にある者です。 

 律法は神から出て、神のご性質を反映させたものなので、霊的なものだと言います。一方で、パウロは自分を「肉的な者」であると言います。「肉的」とはどういうことでしょうか。「霊的」と正反対であり、神から出ていないということ。生まれながらの罪ある自分の姿です。罪の支配の下にあるのだと、率直に告白しているのです。
 
 その証拠としてこう言います。15節です。 

15  私には、自分のしていることが分かりません。自分がしたいと願うことはせずに、むしろ自分が憎んでいることを行っているからです。 

 パウロの偉大さを知る者ならば、「パウロ先生ですらそうなのか!」と、ほっとすることばかも知れません。自分がしたいと願う善ができないと言うのです。私たちはどうでしょうか。良いこと、善なることを思い通りにできているでしょうか。意外にできないものですよね。

 私ももっと感謝や賛美満ちて生きたい。恵みを語りたいと思いながらも、気が付いたら愚痴をこぼしていたり、愛のない行動をしていることがあります。あとで振り返って、「何をしていたんだろう」とガッカリすることがあります。まさにパウロがここで、「むしろ自分が憎んでいることを行っている」と告白している通りです。冷静に振り返ってみると、そこに嫌な自分を発見するのです。

彼は、「自分のしていることが分かりません」とまで語ります。『ジキルとハイド』という小説があります。人間の二面性を描いた作品です。二重人格者(解離性人格障害)を描いているとも言われます。ジキル博士は善良な市民ですが、ある薬を飲むことで、欲望を開放し、容貌も大きく変わります。ある意味ではそれを利用して、ハイド氏の時に悪の欲望のままに生きてしまうのです。容貌も違うので、周囲の人は、二人は別人であると思うので、ジキル氏の評判自体は落ちません。隠れた罪深い自分の姿をハイドという別人格に負わせいるのです。

一人の人の善悪の二面性の現れです。パウロは、ある意味では、自分がそのような者であることを告白しているのでしょう一人のからだの中に二人の自分がいるかのようです25節の最後に、「こうして、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです」とあります。正しい良いこと、愛のわざをしたいとの思いがあるのに、ことばや行動は罪深いことをしていると。ですから、自分が何者なのか、本当の自分はどういう者なのかが分からないと告白しています。

ローマの詩人のオヴィデウスという人の名言にこういうものがあります。「私はより良いものを知っている。そして、私はそれを肯定している。だが、私は、より悪いものを追求してしまうのだ」と。わかっていることと、それができることは同じではないのです。

 

17-19節でも、罪の理解を深めるために、このように語っています。

17  ですから、今それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪なのです。18  私は、自分のうちに、すなわち、自分の肉のうちに善が住んでいないことを知っています。私には良いことをしたいという願いがいつもあるのに、実行できないからです。7:19  私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。

 まさに罪の奴隷として、罪の下にいる状態がこれです。パウロはいい大人です。教養も学び、律法も学びました。正しいことを知っていました。そして、悪いことも知っています。知ってはいるのに良いことができない自分。悪いと分かっているのにしてしまう自分がいることを赤裸々に告白しています。それはもはや、自分というよりも、罪が自分を支配して、そうさせているかのようにさえ感じてしまうほどでした。

 幼い頃に、次女が何度注意されても、悪いことを続けて繰り返してしまうことがありました。彼女になぜ、怒られると分かっていて、悪いことだと分かっていてさえ、それをするのかと率直に聞いたことがあります。彼女は言いました「だって、したくなっちゃうんだもん」です。論理的な理由ではなく、したくなっちゃう・・・思わず笑ってしまいまいたが、でも、人の罪の性質を垣間見た気がしました。

「魔が差す」ということばがあります。真面目な普通の人が、罪に囚われてしまうことをよく表していることばです。その時の状況、環境、また心理状態、様々な要素がピタっと合わさって、普通ならしないようなことをしてしまった・・・ということでしょう。それこそが、罪に支配されているゆえでしょう。後悔してしまうようなことなのに、罪を犯す瞬間には心地よく、一時的な喜びさえあるのです。23節で、「私のからだには異なる律法がある」と語られます。正しい良いことをしようとする心の律法に、戦いを挑んでくる罪の性質があるのだと。

 これらが自分の中にあるから、24節で、「私は本当にみじめな人間だと」の告白に至ります。罪に対する無力さです。でも、

 しかし、パウロがこうして正直に自身の罪に対する弱さを告白していることは、本当に謙虚な姿です。これこそ神の救いの力にあずかるのにふさわしい姿でしょう。御霊によって歩んでいる証拠です。イエス様は、私たちの罪に対する弱さをよくご存知です。

十字架の上で祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分で何をしているのかが分かっていないのです。」と。自分では気づけない私たちのために、祈っていてくださるのです。

 真の自由を求めたいと思います。キリストの十字架のもとに真の自由があります。罪ある者であることに気づき、自分が何をしているのかを、御霊とみことばによって教えられる器にならせていただきましょう。

 私たちもまた、互いに罪の赦しを祈り求めていきましょう。時に、自分のしていること罪に気づけないのが罪人であると学びました。だから、私たちはお互いに対して寛容を示し、祈り合っていきたいのです。私も間違えます。罪を犯しますので、私のためにもお祈りください。イエス様が、祈ってくださったように。しかし、すべての罪への赦しがあることを、私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します


引用元聖書
<聖書 新改訳2017
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