彼は、「自分のしていることが分かりません」とまで語ります。『ジキルとハイド』という小説があります。人間の二面性を描いた作品です。二重人格者(解離性人格障害)を描いているとも言われます。ジキル博士は善良な市民ですが、ある薬を飲むことで、欲望を開放し、容貌も大きく変わります。ある意味ではそれを利用して、ハイド氏の時に悪の欲望のままに生きてしまうのです。容貌も違うので、周囲の人は、二人は別人であると思うので、ジキル氏の評判自体は落ちません。隠れた罪深い自分の姿をハイドという別人格に負わせいるのです。
一人の人の善悪の二面性の現れです。パウロは、ある意味では、自分がそのような者であることを告白しているのでしょう。一人のからだの中に二人の自分がいるかのようです。25節の最後に、「こうして、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです」とあります。正しい良いこと、愛のわざをしたいとの思いがあるのに、ことばや行動は罪深いことをしていると。ですから、自分が何者なのか、本当の自分はどういう者なのかが分からないと告白しています。
ローマの詩人のオヴィデウスという人の名言にこういうものがあります。「私はより良いものを知っている。そして、私はそれを肯定している。だが、私は、より悪いものを追求してしまうのだ」と。わかっていることと、それができることは同じではないのです。
17-19節でも、罪の理解を深めるために、このように語っています。
17節 ですから、今それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪なのです。18節 私は、自分のうちに、すなわち、自分の肉のうちに善が住んでいないことを知っています。私には良いことをしたいという願いがいつもあるのに、実行できないからです。7:19 私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。
まさに罪の奴隷として、罪の下にいる状態がこれです。パウロはいい大人です。教養も学び、律法も学びました。正しいことを知っていました。そして、悪いことも知っています。知ってはいるのに良いことができない自分。悪いと分かっているのにしてしまう自分がいることを赤裸々に告白しています。それはもはや、自分というよりも、罪が自分を支配して、そうさせているかのようにさえ感じてしまうほどでした。
幼い頃に、次女が何度注意されても、悪いことを続けて繰り返してしまうことがありました。彼女になぜ、怒られると分かっていて、悪いことだと分かっていてさえ、それをするのかと率直に聞いたことがあります。彼女は言いました「だって、したくなっちゃうんだもん」です。論理的な理由ではなく、したくなっちゃう・・・思わず笑ってしまいまいたが、でも、人の罪の性質を垣間見た気がしました。
「魔が差す」ということばがあります。真面目な普通の人が、罪に囚われてしまうことをよく表していることばです。その時の状況、環境、また心理状態、様々な要素がピタっと合わさって、普通ならしないようなことをしてしまった・・・ということでしょう。それこそが、罪に支配されているゆえでしょう。後悔してしまうようなことなのに、罪を犯す瞬間には心地よく、一時的な喜びさえあるのです。23節で、「私のからだには異なる律法がある」と語られます。正しい良いことをしようとする心の律法に、戦いを挑んでくる罪の性質があるのだと。
これらが自分の中にあるから、24節で、「私は本当にみじめな人間だと」の告白に至ります。罪に対する無力さです。でも、
しかし、パウロがこうして正直に自身の罪に対する弱さを告白していることは、本当に謙虚な姿です。これこそ神の救いの力にあずかるのにふさわしい姿でしょう。御霊によって歩んでいる証拠です。イエス様は、私たちの罪に対する弱さをよくご存知です。
十字架の上で祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分で何をしているのかが分かっていないのです。」と。自分では気づけない私たちのために、祈っていてくださるのです。
真の自由を求めたいと思います。キリストの十字架のもとに真の自由があります。罪ある者であることに気づき、自分が何をしているのかを、御霊とみことばによって教えられる器にならせていただきましょう。