最初に7-8節をご覧ください。このように語られています。
7節 三つのものが証しをします。8節 御霊と水と血です。この三つは一致しています。
三つのものが、あることを証しし、証言していると言います。それは8節にあるように、一致した証言であり、同じものについての証言です。「御霊と水と血」によって証されているもの。それは何でしょうか。イエス・キリストについての証しです!
ただし、これだけだと少し意味が分かりにくいですよね。その意図を教えられ、この証しをしっかりと受け入れる者とならせていただきましょう。6節に戻ります。こうありますね。
6節 この方は、水と血によって来られた方、イエス・キリストです。水によるだけではなく、水と血によって来られました。御霊はこのことを証しする方です。御霊は真理だからです。
ここではまず、イエス様のことを、水と血によって来られた方であると紹介しています。「水によるだけではなく、水と血によって来られました」と補足しています。それは、水によるだけならば、イエス様が「ただの人間」であるという証拠だけで終ってしまうからです。
しかし、このみことばによれば、「水によるだけでなく、水と血によって」とありますよね。血によるという点がしっかり強調されています。では、それは何を指すのでしょうか。これはこれ以上ないほどハッキリしています。「十字架の血」ですよね。
このように、イエス様は私たちと同じ「まことの人」となられ、同時に、罪なき聖なる「まことの神」であるゆえに、罪のきよめの死をなすことができたのです。神様の側で払ってくださった犠牲はなんと大きなことでしょうか。世界のすべてを手にしているような権力者、大富豪がいたとして、その人が自分に対して失礼極まりない態度を持つ者たちのために、それらすべてを投げ出し、物乞いになることができるでしょうか。神様はそれよりずっと大きな犠牲を、あなたのために喜んで払ってくださったのです。主なる神様は私たちを愛してやまないのです。
さらに、この救いをタダで受けられるように、誰でも受けられるように、みことばによって私たちへの愛の招待状を備えてくださいました。ですからここに、水と血による二重の証し(証拠)が、全世界のベストセラーなる聖書を持って私たちに与えられたのです。神様は、さらに「聖霊による証し」をもって「三重の証し」まで備えてくださったのです。
一つでも、二つでもなく、三重の証しです。先週はペンテコステでしたが、まさにキリストを信じるすべての者に注がれる御霊こそが、「イエス様こそまことの神、キリストである」と証ししてくれるのです。私たちの魂にわからせ、説得し、確信まで与えてくださるのです。「イエスがキリストである!」と告白することを喜びとしてくださるのです!
6節の後半の「御霊はこのことを証しする方です」の部分は、以前の訳(第3版)では、「あかしをする方は御霊です」という訳でした。しかし、原文に忠実に訳すならば、今の訳のように「御霊はこのことを証しする方です」となります。この訳の通り、御霊はご自分のことを話すのではなく、父とキリスト証しする方なのです!
「証し」とは、そもそも何でしょう。「救いの証し」を、洗礼を受ける際に書きますよね。月に一度、礼拝では様々な証しをしていただいています。何を証ししているのでしょうか。私たちの人生ではありません。自慢話や苦労話でもありません。もし、そのような自分中心の話なら、それは証しではありません。少なくとも御霊による証しではありませんよね。承認欲求を満たしたいだけでしょう。しかし、御霊は自分の栄光を求めず、ひたすらにキリストの栄光を現します。
ですから、私たちクリスチャンは、御霊によって、キリストを証しするのです!私の人生に深く関わってくださったすばらしい神様を証しするのです。その神の救いのみわざを証しするのです。神の永遠の愛を証しするのです。だから、聴く者の魂が震えます。深いところで感動します。皆さんの真実な「神についての証し」を聴いて、胸が熱くなること、ありませんか。
私は昨日、青年デイキャンプの中で、講師の先生の証しにて胸が熱くなり、涙する瞬間がありました。先生は学生の頃に統一教会に入信してしまいました。その時、先生のご両親が、そこから救い出すために本当に多くの時間と労を献げて、まことの救い主キリストの救いにあずかったのです。その先生は、結婚され、実のお子さん1人に加え、養子縁組で1人、さらに里親制度で2人のお子さん、合計4人のお子さんを引き受け育てていらっしゃいます。
家庭で生活できず、施設で生活している子たちが、1人でも2人でもキリストの愛を知る温かい家庭で育てられることになるのです。それは、先生がご家族の愛の中で滅びの穴から救い出されたように、今度は先生ご自身が、子どもたちを滅びの穴から救い出しているかのようです。
しかし、先生の奥様がそうしたいと先生に伝えた時、実は先生は重すぎると思っていたようです。「1年祈るから、その間、その話を一切しないで欲しい」と奥様に伝えたのですが、内心では、その間に諦めてくれることを期待していたと言います。ところが、神様からそうするよう示されてしまったのだそうです。でも、先生はこうおっしゃっていました。この子たちを自分の家に迎えることができて、「本当に良かった」と。自分の思いなら「無理」という答えでした。でも、神様の示しに従った時に、「本当に良かった」と心から思える今を歩んでいるのです!
これはまさに、この三重の証しを受け、キリストを心に持っている人の証しなのです。自分の立派さ、自分の美談、自分の苦労話で泣かせようともしていません。むしろ、自分では不可能に思えた。諦めてくれたらと時間稼ぎのような思いで祈り始めた。でも、主が示されたのです!
主の導きに従った時、小さな子どもたちを救う歩みに献身でき、しかも「本当に良かった」と心から言えたのです。御子イエス様の愛がそこに現れています。永遠のいのちがそこにあります。