東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 豊かな人生のための福音「心の沈黙 ~神の声を聴くために~」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2024/05/28

豊かな人生のための福音「心の沈黙 ~神の声を聴くために~」

*** 5/21(火)ほっとカフェ講演 ***

 皆さんの心は、静けさの中にあるでしょうか。慌ただしくとも、なすべきことが多くあっても、平安に満たされた心で日々歩んでいるでしょうか。そのような問いに対して「う~ん、毎日嵐のようです」という方も少なくないことでしょう。嵐ではないにしても、「心に静けさや穏やかさはあまりありません」という方は多いのかも知れません。



 私たちは、本当に騒々しい騒音の中に日々を生きています。あふれるほどの情報が私たちの目からも耳からも入ってきます。また、私たちの心の中に、望まない音が不法侵入して来ることもあるでしょう。勝手に入って来て、そのことで心が奪われ、疲れてしまうこともあります。

 そのために、この「ほっとカフェ」が役に立ってくれたらいいなと思います。心が静かにほっとできる時でありたいと思います。いや、私が願うのは、この時だけほっとするのではなく、その後までも、心の平穏が続くものであって欲しいということです。


1.気づき

 さて、心の平穏のために、一つのことをまず気づかせていただく必要があります。

 先程、騒音の中に生きているとお話しました。しかし、一番の騒音は外からの音ではないのだろうと思います。おそらくは、それぞれの心の中にある自分の声が一番騒がしいのです。皆さん、あまり意識したことがないと思いますが、実に私たちは心の中で、口で話す以上のことを語っているのではないでしょうか。ことばに出していることはその一部であって、心の中ではさらに多くのことを語っているのです

 たとえ無口な人でも、心の中ではきっと雄弁に自分の思いを語っていることでしょう。「これはおかしい」「なんで、こうならないのか」「ああ面倒くさい」「どうしよう、どうしよう」「何食べよう。何を着よう。何をしなければいけないんだっけ」と。

 心の中が、そのような声でいっぱいです。

ですから、皆さんの心をスピーカーに接続して、ミュートを外したら相当騒がしいことになり、きっと私の話など全く聞こえなくなるでしょう。実に、私たちの心の中は、このように様々な自分の声に満ちているので、神様の静かな語りかけに聴けなくなってしまうのです。すると、いつも心がざわつき、混乱し、穏やか平安は消え去ってしまうことでしょう。私たちはまず、騒がしい自分の声に気づき、神様の語りかけにもっと心を開いていく必要があるのです。

 

2.神のかたりかけ

 そこで、神の声を聴くために心の沈黙が必要です。なぜなら、私たちを造られた神様は私たちをわが子のように愛しておられ、毎日、私たちの幸いを願って大切なことを語りかけておられるのです。どのようにして、でしょうか。

① 第一に、神のいのちのみことば、聖書を通してです。 

イザヤ 30:15 イスラエルの聖なる方、神である主はこう言われた。「立ち返って落ち着いていれば、あなたがたは救われ、静かにして信頼すれば、あなたがたは力を得る。」しかし、あなたがたはこれを望まなかった。

これは、諸外国の圧力に苦しむイスラエルの民が、それまでの神様からの多くの御恵みを忘れて、エジプトの助け(世の助け)にすがろうとした時のことです。そして、「ああでもない、こうでもない」と、自分たちの声でいっぱいになっていた時のことなのです。

「立ち返って」とは、向きをかえって戻って来ることです。悔い改めとも言えます。神様以外の方に心が奪われているので、そこから神様の方に戻って来なさいと言われます。

問題が起こると、問題ばかりを見て、神様を見なくなっていることはないでしょうか。そこに平安はありません。そしてここでは、「落ち着いて」ということばと、「静かに信頼すれば」とあります。神様のもとに落ち着き、静かにその御声に耳を傾ければ、救いの恵みの中にあって「大丈夫だ」と言うのです。答えはシンプルです。神様のもとに立ち返り、そこで静かに信頼していればいいのです

 ワーワー騒がず、もっと主の前にことばを控えて、静かに聴きませんか。

 ルカの福音書で、マルタとマリアという姉妹が出て来ますが、マルタはイエス様へのおもてなしで忙しくバタバタして、心騒がしくしていました。でも、マリアは静かにイエス様のもとで、その語りかけをじっくり聞いていました。マルタはイラつき、マリアを叱るようにイエス様に詰め寄りました。でも、イエス様の答えはこうでした。

「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」(ルカ10:41-42

 マリアは心を沈黙させ、静かにイエス様の声に聴いていたのです。イエス様はこれこそが必要な一つのことで、マリアはそれを選んだのだと教えてくださいました。

 しかしながら、私たちが、マルタの立場ならどうでしょう。このイエス様の語りかけに、「でも」と反射的に応答してしまいそうです。自分はこんなにバタバタして大変なのだから、あのマリアに「コラ!働け!」と言って欲しいのです。

 この「でも」が、私たちの騒がしいことばの一つでしょう。

 イエス様はマリアが可愛くて、かばっているのでしょうか。そうではありませんね。よく見てください。「マルタ、マルタ」と二度繰り返して、親しく呼びかけています。

 そして、「あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています」と、マルタを心配して、ことばをくださっているのです。イエス様はマルタのことも愛しておられ、彼女に平安がないのを見て、平安をもって欲しくてこのように語りかけておられたのです。

 

② 聖書のみことばはもちろん、聖書以外の日常のあらゆることを通しても神様は語りかけておられます。神様が造られたあらゆるもの、あらゆる出来事を通してです。そして、それを聴くにはどうしたらいいでしょうか。

マザー・テレサがこのようなことを言っています。「すべてを通して語りかける神の声を聴くために、心の沈黙が必要です」と。あらゆることを通して語りかける神の声を聴くために、「心の沈黙」が必要であると彼女は言いました。

詩篇7712節にこうあります。

詩篇 77:12 私は あなたのなさったすべてのことを 思い巡らし あなたのみわざを 静かに考えます。  

「あなた」とは神様のことです。神様を「あなた」と親しく呼び、私とあなたで語り合うのが祈りです。本当に大切な人との語り合いは、結論や結果が出されることが第一ではありませんその方と静かに語らうこと自体が大切で尊い時間ではないでしょうか。

 ここでは、目の前に神様がいらっしゃるようにして語らい、神様のなさったすべてのことを思い返し、思いめぐらしています。神様のなさったあらゆることから、神様の愛のメッセージを受け取ろうとしているのです。神様がしてくださったことを思いめぐらし、「あの時、あなたはこんなに良くしてくださいましたよね」と、静かな心で考えています。

 マザー・テレサはこうした点で本当にすぐれた方であったと思います。たとえば、このように語っています。「ドアを閉める音、あなたを必要としている誰か、鳥たちのさえずり、美しい花々、野山の動物たちを通してさえ神は私たちに語りかけています。」 

 心騒がしくしていると、これらの音から、神様の語りかけを聞くことができません。

 イエズス会の司祭、片柳弘史(かたやなぎひろし)さんは、その著作において、上記のマザー・テレサのこのことばを紹介しながら、ドアを閉める音にも様々なメッセージがあることを説き明かしています。

 同じドアの音を聴いても、聴きとれるメッセージが違うという話です。強くドアを閉める音が自分の耳に届くように神様がなさったとするならば、自分にその音を通して、主が語りかけておられるのだと。ドアを閉めた人の疲れ具合、イライラ、様々な感情を読み取ることができ、また、それを自分の耳に入れてくださった神様からのメッセージがそこにあるのだと言うのです。

 神様を求めながら静かな心で聴く時に、単なる「うるさい音」で終わりません。

 心が傷ついている音なのかな?忙しくて追われている、焦りの音なのかな?と。そして、神様がその音を私に聴かせてくださったのは、どのようなメッセージがあってのことなのかなと。

すると「私に何ができるだろうか」との祈りも生まれますね。

 忙しすぎると、心に余裕がないと、花を見ても「ああ、花だ」で終わります。せいぜい「きれいだな」で終わります。私もたいていの場合、毎日の生活の時にはそうなっています。でも、道端の花の前で立ち止まります。教会の花壇の前で立ち止まり、神様に心を向けるのです。そこで、きれいだなの一歩奥へと進むことが許されます。

神様の語りかけがそこに聴こえて来るのです。よく見ると、花は静止していない。かすかな風に揺れ、私が少し見る角度を変えてあげるだけで、違う表情を見せます。どの花をとっても同じものはなく、少しずつ色も形も大きさも違っていることにも気づきます。神様が、これらの一つ一つさえも、デザインなさって思いを込めて造られたと気づくと、ため息が出ます。

たった一枚のお花の塗り絵をするだけでもすごく時間がかかるのに、その本物を色とりどりに造られた神様のみわざは、なんと豊かで深くて大きいことでしょうか。そして、なんと細やかでしょうか。そこに込めた思いは、どれほど深いものであろうかと。花を見て喜ぶ私たちの顔を想像して造られたのです。

今年私たちの教会でアート展を開催する予定の、星野富弘さんは、まさに小さな花の一つ一つから神様のやさしい語りかけを受け取ったクリスチャンでした。首から下がほとんど自由にならないその体ですが、静かに神様の大切な語りかけに聴いて、それを絵と詩で私たちに伝えてくださいました。その詩は何と温かく、豊かでしょうか。ユーモアさえ感じられます。そこから神様の愛が聴こえてくるのです

 

もう一か所、静かに味わいましょう。第一列王記1911-12節 

10節 私は万軍の神、主に熱心に仕えました。しかし、イスラエルの子らはあなたとの契約を捨て、あなたの祭壇を壊し、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ、私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうと狙っています。

11節 主は言われた。「外に出て、山の上で主の前に立て。」するとそのとき、主が通り過ぎた。主の前で激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。 

12節 地震の後に火があったが、火の中にも主はおられなかった。しかし火の後に、かすかな細い声があった。

 「かすかな細い声」・・・でも、そこに神の声はありませんでした。それは、エリヤが耳を澄まさないと聴こえない声です。10節のような、自己憐憫の声、言い訳、不平不満でいっぱいの時には聴こえない声です。それらのつぶやきは激しい大風、地震、そして火でかき消されたことでしょう。これらの後に、エリヤが沈黙した時、「かすかな細い声があった」のです。それは、神様の声だけを聴こうと集中しないと聴き取れない声です。あえて、神様は、かすかな細い声で語りかけたのでしょう。

  静まって主に心を向け、そのかすかな細い声をしっかりと聴きませんか。それを聴くために、私たちの騒がしい心の声をしばし沈黙させ、不平不満を少しわきに置いて、主よ、あなたの声を聴かせてくださいと静まりましょう。 この方の声が聴けるようになれば、あなたの心には穏やかな平安が与えられます。



 

引用元聖書
<聖書 新改訳2017
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