ですから、皆さんの心をスピーカーに接続して、ミュートを外したら相当騒がしいことになり、きっと私の話など全く聞こえなくなるでしょう。実に、私たちの心の中は、このように様々な自分の声に満ちているので、神様の静かな語りかけに聴けなくなってしまうのです。すると、いつも心がざわつき、混乱し、穏やか平安は消え去ってしまうことでしょう。私たちはまず、騒がしい自分の声に気づき、神様の語りかけにもっと心を開いていく必要があるのです。
これは、諸外国の圧力に苦しむイスラエルの民が、それまでの神様からの多くの御恵みを忘れて、エジプトの助け(世の助け)にすがろうとした時のことです。そして、「ああでもない、こうでもない」と、自分たちの声でいっぱいになっていた時のことなのです。
② 聖書のみことばはもちろん、聖書以外の日常のあらゆることを通しても神様は語りかけておられます。神様が造られたあらゆるもの、あらゆる出来事を通してです。そして、それを聴くにはどうしたらいいでしょうか。
マザー・テレサがこのようなことを言っています。「すべてを通して語りかける神の声を聴くために、心の沈黙が必要です」と。あらゆることを通して語りかける神の声を聴くために、「心の沈黙」が必要であると彼女は言いました。
詩篇77篇12節にこうあります。
ここでは、目の前に神様がいらっしゃるようにして語らい、神様のなさったすべてのことを思い返し、思いめぐらしています。神様のなさったあらゆることから、神様の愛のメッセージを受け取ろうとしているのです。神様がしてくださったことを思いめぐらし、「あの時、あなたはこんなに良くしてくださいましたよね」と、静かな心で考えています。
マザー・テレサはこうした点で本当にすぐれた方であったと思います。たとえば、このように語っています。「ドアを閉める音、あなたを必要としている誰か、鳥たちのさえずり、美しい花々、野山の動物たちを通してさえ神は私たちに語りかけています。」
心騒がしくしていると、これらの音から、神様の語りかけを聞くことができません。
イエズス会の司祭、片柳弘史(かたやなぎひろし)さんは、その著作において、上記のマザー・テレサのこのことばを紹介しながら、ドアを閉める音にも様々なメッセージがあることを説き明かしています。
同じドアの音を聴いても、聴きとれるメッセージが違うという話です。強くドアを閉める音が自分の耳に届くように神様がなさったとするならば、自分にその音を通して、主が語りかけておられるのだと。ドアを閉めた人の疲れ具合、イライラ、様々な感情を読み取ることができ、また、それを自分の耳に入れてくださった神様からのメッセージがそこにあるのだと言うのです。
神様を求めながら静かな心で聴く時に、単なる「うるさい音」で終わりません。
心が傷ついている音なのかな?忙しくて追われている、焦りの音なのかな?と。そして、神様がその音を私に聴かせてくださったのは、どのようなメッセージがあってのことなのかなと。
すると「私に何ができるだろうか」との祈りも生まれますね。
忙しすぎると、心に余裕がないと、花を見ても「ああ、花だ」で終わります。せいぜい「きれいだな」で終わります。私もたいていの場合、毎日の生活の時にはそうなっています。でも、道端の花の前で立ち止まります。教会の花壇の前で立ち止まり、神様に心を向けるのです。そこで、きれいだなの一歩奥へと進むことが許されます。
神様の語りかけがそこに聴こえて来るのです。よく見ると、花は静止していない。かすかな風に揺れ、私が少し見る角度を変えてあげるだけで、違う表情を見せます。どの花をとっても同じものはなく、少しずつ色も形も大きさも違っていることにも気づきます。神様が、これらの一つ一つさえも、デザインなさって思いを込めて造られたと気づくと、ため息が出ます。
たった一枚のお花の塗り絵をするだけでもすごく時間がかかるのに、その本物を色とりどりに造られた神様のみわざは、なんと豊かで深くて大きいことでしょうか。そして、なんと細やかでしょうか。そこに込めた思いは、どれほど深いものであろうかと。花を見て喜ぶ私たちの顔を想像して造られたのです。
今年私たちの教会でアート展を開催する予定の、星野富弘さんは、まさに小さな花の一つ一つから神様のやさしい語りかけを受け取ったクリスチャンでした。首から下がほとんど自由にならないその体ですが、静かに神様の大切な語りかけに聴いて、それを絵と詩で私たちに伝えてくださいました。その詩は何と温かく、豊かでしょうか。ユーモアさえ感じられます。そこから神様の愛が聴こえてくるのです。
もう一か所、静かに味わいましょう。第一列王記19章11-12節
10節 私は万軍の神、主に熱心に仕えました。しかし、イスラエルの子らはあなたとの契約を捨て、あなたの祭壇を壊し、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ、私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうと狙っています。
11節 主は言われた。「外に出て、山の上で主の前に立て。」するとそのとき、主が通り過ぎた。主の前で激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。
12節 地震の後に火があったが、火の中にも主はおられなかった。しかし火の後に、かすかな細い声があった。
「かすかな細い声」・・・でも、そこに神の声はありませんでした。それは、エリヤが耳を澄まさないと聴こえない声です。10節のような、自己憐憫の声、言い訳、不平不満でいっぱいの時には聴こえない声です。それらのつぶやきは激しい大風、地震、そして火でかき消されたことでしょう。これらの後に、エリヤが沈黙した時、「かすかな細い声があった」のです。それは、神様の声だけを聴こうと集中しないと聴き取れない声です。あえて、神様は、かすかな細い声で語りかけたのでしょう。
静まって主に心を向け、そのかすかな細い声をしっかりと聴きませんか。それを聴くために、私たちの騒がしい心の声をしばし沈黙させ、不平不満を少しわきに置いて、主よ、あなたの声を聴かせてくださいと静まりましょう。 この方の声が聴けるようになれば、あなたの心には穏やかな平安が与えられます。