東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ローマ書8章1-4節「みじめな人間に与えられた大いなる解放」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2024/05/30

ローマ書8章1-4節「みじめな人間に与えられた大いなる解放」

*** 5/29(水)祈祷会 説教概略 ***

 直前の724節では、「私は本当にみじめな人間です」との告白がありました。一般的に考えれば、このような告白は誰もしたくありませんよね。このような告白しなければいけない者には決してなりたくないでしょう。



 しかしながら、この告白ができたパウロほど、キリストの恵みの深さ、豊かさ、大きさを味わった人はいないでしょう。そして、キリストにあって彼ほど用いられ、イキイキとその福音を証しできた人は他にいないでしょう。

 どういうことなのでしょうか。実に、罪を犯し、神の愛から離れているすべての人は、誰もが「本当にみじめな人間」だからです。そのみじめな自分に気づけないことこそが最も深刻な問題であり、気づいてキリストを求める人には確かな救いがあります。

 

1  こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。 

 この結論は、シンプルながらも、なんと力強く平安をもたらす宣言でしょうか。

 神の基準の前では、私たちは多くの罪が示される者です。自分で自分をきよくしようとするほどに、決してそうできない「絶望」という文字が見えて来てしまいます。キリストなしに自分を見れば、724節にあったように、「本当にみじめな」罪人なのです。「だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか」という嘆きの問いに行き着くしかなかった者です。

 しかし、この嘆きの問いに対する明確な答え、救いの宣言がこの1節です。かつては「本当にみじめな人間」でしたが、今や「キリスト・イエスにある者」とされたからです。今や、キリストを信じて、キリストのうちにいるので、もはや罪に定められることは決してありません。それは、神様という真の裁判官から有罪判決を受けることは決してないという真理です!このように断言できるとは、なんという神の救いのみわざでしょうか。

 イエス様という聖なる最強の弁護人が、私たちの前に立って父なる神様にはっきりと弁護してくださるのです。「父よ、この人は私のうちにあり、私の義によって無罪です! 」と。それゆえに、725節では、キリストを通しての神様への感謝のことばが述べられていたのです。

2節で、その解放の理由と根拠が述べられています。

2  なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからです。 

 「律法」と訳されているのは「ノモス」ということばです。以前の訳・第三版では、「原理」と訳されていました。しかし、同じ「ノモス」」ということばが繰り返し使われ、「律法」と訳されていますから、2017年版では一貫して「律法」と訳したのでしょう。

 古い肉の性質にあった時には、罪と死に定めてしまう「呪い」とも思える律法のもとにいて、その支配原理の中で罪に定められていました。罪の奴隷、死の奴隷でした。キリストなしには、罪と死から自由である人間は誰もいないからです。

 しかし、私たちは、キリストの十字架を信じた時に、その罪と死という呪いの律法から自由にされました。解放されたのです。今や、キリストにある御霊の恵みの律法へと移されたのです。そして、あることに気づきます。パウロは7章の罪の告白においては「私」と語っていましたが、ここでは「あなた」を解放したと変わります。読者にとって、この罪と死からの解放が、より鮮明に響いてきたことでしょう。

 3節では、この点をより詳しく説明しています。

3  肉によって弱くなったため、律法にできなくなったことを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです。 

「肉によって弱くなったため、律法にできなくなったこと」とは、どういうことでしょうか。人は、造られた当初は罪を持たない存在でした。ですから、何の問題もなく神様と親しく交わり、幸いな日々を送っていたのです。ところが、神の命令に背き、罪を犯して堕落してしまったために、律法の要求がまるで満たされず、律法の効果もまるで無いもののようになったということです。

 ですから、代わりに神様がしてくださったのです!後半にこうある通りです。

神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです。

 このみことばを思い巡らしながら、二男の現在の姿を思いました。実は一昨日、二男が学校の球技大会で右足首をケガしてしまい、人生初のギプス・松葉杖生活をしています。3週間その状態だそうです。それはもうとても不便です。着替えも大変、落ちた物も拾えない、お風呂も長男に手伝ってもらって・・・。つまり、自分では無力で出来ないことだらけなのです。家族や友達の手を借りて、代わりにやってもらわないと、生活ができないと言って良いでしょう。でも、それゆえに、周囲の人の助けのありがたみも痛感していけると思います。二男を迎えに行った時、3人の同級生が付き添ってくれていました。松葉杖代わりに肩を貸してくれて、あるいは自転車を運ぶのも手伝ってくれました。本当にありがたいことでした。二男も、彼らに「ありがとう」としっかりと伝えていたのは良かったと思います。 

 人が罪を犯して神様から離れてしまった時、一見自由なように見えて、実はとても不自由になり、本来できることもできなくなり、律法の効力さえ無に等しくなりました。人も律法も無力になったので、神様が一切を代わりに用意してくださったのです。そこには御子のいのちの犠牲までもありました。特に、罪と死の律法、支配原理の中にいた私たちのためには、神様の側で本当に大きな痛みをもって、救い出す必要があったのです。無力な人間を救うために、神である方が人となられ肉体を持たれました。無力な私たちのために、同じ肉の姿において罪の処罰を受けられたのです。私たちの隣人となられ、いや、私たちと一つにさえなられて。深い愛の「寄り添い」です。

私たちは、その神様に、心から「ありがとう」という感謝の心で歩みたいのです。パウロは、自分の罪深さ、無力さを痛感したからこそ、この救いをくださった神様に、心から「ありがとう」という思いを抱いたのではないでしょうか。「本当にみじめな人間」なのだとの自覚を強く持てたからこそ、25節の「神に感謝します」との思いが、心の奥からあふれてきたのでしょう。

 そして、キリストにある者となった私たちは、もはや肉に生きるのではなく、御霊によって霊的に生きる者となりました。4  それは、肉に従わず御霊に従って歩む私たちのうちに、律法の要求が満たされるためなのです。 律法の効力を無にしてしまっていた私たちですが、こうして御霊の助けによって、律法の要求が満たされるようにしてくださったのです。驚くべき神様のみわざです。すべては神様のなさった救いのみわざです。

 こうして、結果的に律法の要求が満たされていくことは、なんと不思議で圧倒的な神様のみわざでしょうか。クリスチャンは、もはや律法の下におらず、律法を守ることに必死に生きてはいません。それでありながら、イエス様とともに歩み、御霊の導きに従順に歩む時、結果的に律法の求めているものが、ことごとく満たされていくのです。

 これが神の救いの力です。律法を守ることに必死になる人よりも、「本当にみじめな人間です」と認め、キリストの御霊により頼む者ほど律法を守れていくとは、ホントに不思議な主のみわざです。しかし、この人こそ、自分の力を証しするのではなく、ただただ主の御力を証しする者となれるのです。私たちは、自分を見ればみじめな者だけれども、キリストにあっては、神に喜ばれ、その栄光を現していける者とされたのです。


引用元聖書
<聖書 新改訳2017
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