東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 毎日の聖書【6月分】
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2024/06/01

毎日の聖書【6月分】



1日 出エジプト記15章
 イスラエルの民は葦の海を後にして、シュルの荒野へ向かった。三日間歩き続けたが、彼らには飲める水を見つけることができなかった(22)。そして、マラに着いたが、ここの水は苦くて飲めたものではなかった(23)。実にそれゆえにこの地域は「マラ(苦いの意)」という名で呼ばれるようになった。名は体を表すとは、まさにこのことだ。イスラエルの民はこのように飲み水に困っていた。深刻な問題だ。24節では、お決まりのように民が不平をモーセにもらす。だが、ここでもモーセは主に叫ぶ!!すると、25節にあるように、主はモーセに1本の木を示され、その木を水の中に投げ入れると、なんと水が甘くなったのだ!彼らは神の偉大な力をこうして何度も体験できた幸いな民だ。神はこれらの奇跡を体験させたうえで、御声に従うようにと教える(26)。主の声に聴き従うならば、エジプトで起こった様々な病からも守られる。「わたしは、あなたを癒す者だから」と主は言われた。私たちは、神のおことばに従い、神の目に苦い者にならないようにしたいものだ。吐き出されてしまっては、神の癒しを受けられなくなるのだから・・・

2日 出エジプト記16章
 イスラエルの民は旅を続け、シンの荒野に入った(1)。だが、ここでも民は不平を言い始めた(2)。エジプトで肉鍋を食べていた時、パンが満ち足りていた時が良かったと(3)。荒野での歩みにおいて、彼らは飲食の不安にとらわれていた。そして、モーセやアロンに向かって、あなたがたは自分たちを「飢え死にさせようとしている」とさえ非難した(3)。神への信頼の欠如が見えて来る。
 神がエジプトを脱出させ、荒野に導いた以上、そこには神の備えがあるのだ。アブラハムに「主の山には備えがある(アドナイ・イルエ)」と言わせた神である。事実、4-5節で、神は毎日、天からパンを降らせるとおっしゃった。このように食べ物のことで、いつも心配ばかりする私たちだが、主イエスは、人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのみことばによると教えられた。むしろ、糧について不安がある時こそ、神のことばに信頼して、主は与えてくださる!との信仰で歩む時である。

3日 出エジプト記16章
 肉鍋のあったエジプト、パンがたくさんあったエジプト。もはやエジプトで死んでいた方が良かったと不平を言うイスラエルの民。これらの不平を言う民に対してさえも、神はご自身を現わし、与えてくださるのであった。夕暮れには肉を食べられるようにし、朝にはパンで満ちたらせると主は言われる。主はその通りになさり、うずらの肉を山ほど、また朝にはマナというパンを備えられた。民は自分たちの不信仰を学ぶ機会となっていく・・・
 モーセは一言、民に対して釘を刺している。8節の最後で「あなたがたの不平は、この私たちに対してではなく、に対してなのだ」と語っている。不平や不満ではなく、「主よ、どうしましょうか。どうしたら良いでしょうか。あなたに従います」と、神に相談し、その声に聴こうとする姿勢を持てたら、どんなにか良かっただろうか!不平を言うにしても、その出来事の中にある神のご計画に目を向け、神に尋ね求めてからでも遅くはないのではないか。なお、15節では、落ちているパンを見て「これは何だろう」と民は言った。実はこのことばが「マナ」の語源ととなっている。

 4日 出エジプト記16章
 神が備えられた「マナ」というパンについて、19節でモーセは言った。「だれも、それを朝まで残しておいてはならない」と。実際、残しておいた者たちは、あっという間に虫がわいて臭くなるのを体験し、モーセに怒られている(20)。つまり、面倒くさらがらず毎日、毎日、マナを集めることが求められたということだ(ただし、22-26節にあるように、6日目にのみ2日分集め、7日目に労働をしないで済むようにされた。安息日のためだ)。これは、神のみことばに生きる私たちの信仰生活そのものだ。1か月前のみことばによって生きようとせず、日々、聖書を開き、主が語られることばに聴く必要がある。もちろん、一つのみことばが一生の宝になるということがある。だが、それだけで生きようとすべきではない。いつでも主は新しいことをなさり、新しい導きを語られる。日々、みことばの糧を求めて歩もう!

5日 出エジプト記17章
 神の命令によってシンの荒野を旅立ち、レフィディムに滞在した(1)。しかし、そこには水がなかったので、2節にてあるように、また民が騒ぎ始めた。モーセはそれに応じて、こう言った。「なぜ私と争うのか。なぜ主を試みるのか。」。主を信頼していないために、主をテストする・・・それが試みるという行為だ。子どもが親の愛情を疑っている時に、わざと悪いことをして親の反応を試すという「試し行動」と言うものがあるが、まさにそれに近いことだろう。このモーセに問いに対して、反省し、へりくだることができればいいのだが、そうではなかった。3節で民は、なぜ自分たちをエジプトから連れてきたのだ!渇きで死なせるためか?と強烈な不平を言っている。人間はどうしてこうも、真っ直ぐに歩もうとしないのであろうか。伝道者の書7章に、神は人を真っ直ぐな者に造られたとあるが、罪の影響で歪んでしまい、神に真っ直ぐ求めず、不平不満であふれてしまう。試すのではなく、真っ直ぐに神に「助けてください」と求めようではないか!

6日 出エジプト記17章
 神を疑い、試してばかりいるイスラエルだったが、6節で神は求めに応えておられる。ホレブの岩から水を出してくださると言うのだ。モーセはこの通りに行い、岩から水を出すことになる。しかしながら、これはイスラエルの不信仰の記録として後世に伝えられることになる。なんとも不名誉なことだ。7節で、「それで、彼はその場所をマサ(試み)、またメリバ(争い)と名づけた」と語られている。イスラエルの民が争い、また主を試みたからだ。
 この時のことは、申命記6章16節「あなたがたがマサで行ったように、あなたがたの神である主を試みてはならない」警告として語られている。私たちの今の信仰生活はどうだろうか。不信仰な記録、信仰の反面教師として、次の世代の人々に語り継がれるのは残念である。そうではなく、「あの人の信仰に学ぼう!」と思われる信仰の記録を残したいものだ。ただし、このような不信仰な民にも水を与えてくださったやさしい神であることも、ぜひ記憶にとどめたい!

7日 出エジプト記17章
 おそらく湧水が出たことを聞きつけ、略奪しようとアマレクが襲ってきたものと思われる。この地域の遊牧民にとって水場は非常に貴重なものだった。それでイスラエルはアマレクと戦うことになったのだ。11節にこうある。「 モーセが手を高く上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を下ろすとアマレクが優勢になった。 
 不思議なことに神の杖が高く挙げられている時は、イスラエルが優勢になった。しかし反対に、手が下りてくると劣勢になった。これは、神の力が完全に現れる時には私たちはあらゆる面で勝利できることを象徴している。しかし、すなわち神により頼むことが少なくなると、私たちは敗北に陥いるのだ。言うなれば、神の働かれるのを妨げず、主に心から信頼し続けるならば、主はもっと豊かに働かれるということだ。 きよい手を挙げ神に祈り続けよう。神の力に完全により頼むために!

8日 出エジプト記17章
 12節にこうある。 モーセの手が重くなると、彼らは石を取り、それをモーセの足もとに置いた。モーセはその上に腰掛け、アロンとフルは、一人はこちらから、一人はあちらから、モーセの手を支えた。それで彼の両手は日が沈むまで、しっかり上げられていた 
 疲れ切ったモーセが座る石を用意し、さらに右から左から、それぞれアロンとフルがモーセの両腕を支えた。その結果、両手は日が沈むまでしっかり上げられ、勝利をもたらしたのだ!!支える仲間の存在の大切さに気付かされる。 私たちも一人では立ち続けられない弱さを持っている。祈るにしても福音を伝えるにしても、一人では心が折れそうになることがあるだろう。あきらめかける時があるのだ。しかし、もし、右から左から支えてくれる友がいるならばどうだろうか。一緒に祈ってくれる仲間がいるならばどうだろうか。自分が祈れない時でさえ、祈ってくれている仲間があるなら、私たちは強くされる

9日 出エジプト記18章
 モーセの妻ツィポラの父の名はイテロであった(1-2)。彼は娘のツィポラと孫のゲルショム(3)とエリエゼル(4)と一緒に、荒野にいたモーセのもとに合流した(5)。7節では、彼らは互いに口づけし、安否を確認し合った。そこでモーセは、道中の様々な困難やそこで主がどのようにしてイスラエルを救ってくださったのか、これらをしゅうとに語っている(8)。このように神がどのように救ってくださったのか、どのような困難の時に助けてくださったのかを伝えることはとても大切である。それは単なることばで終わらず、実体験を伴った「証し」だからだ。私たちは普段から、自分の身内や友人に、主がしてくださった良いことを証ししているだろうか。沈黙してはいないだろうか。9節にイテロの反応があり、すべての良いこと、特にエジプトから救い出してくださったことを喜んだとある。神のなさった良いわざ、救いのわざを、私たちももっと語り告げる者とならせていただこう!

10日 出エジプト記18章
 13節で、モーセは民の様々な問題をさばく必要があり、民は「朝から夕方までモーセの周りに立っていた」とある。ただ、それを見たモーセのしゅうとであるイテロは、問題に気がついて、事情を尋ねた(14)。民が神のみこころを求めてモーセのもとに来ること、モーセがすべてをさばいて、対応しているということだった。
 イテロは心配して言う。「あなたがしていることは良くありません」(17)。その理由として、あなたも民もきっと疲れ果ててしまうということだった。また、あなたには「荷が重すぎる」「一人ではできません」ということも、イテロは率直に指摘をした。それで彼は、他の人々にも助けてもらうよう助言したのだった。これはとても大切なことだ。私たちは神ではないのだ。一人では弱いのだ。自分で何もかも背負い込む歪んだ万能感から解放される必要がある。

11日 出エジプト記18章
 どんな時でも人は一人では弱い。モーセにも多くの助け手が必要であった。イテロは助言し、民の中から誠実な人々を千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長として立てるように導いた(21)。こうして、モーセと「ともに重荷を負う」者たちが立てられたのだ(22)。そして、これは単なる人の考えでははない。23節で「もし、あなたがたこのことを行い、神があなたにそのように命じるなら、あなたも経ち続けることができ、この民もみな、平安のうちに自分のところに変えることができるでしょう」と語られているからだ。モーセは謙遜にも、この助言を聞き入れ、その通りに実行していった。神もこれに反対することなく、これをさせ、そしてこれによってモーセの負担も減り、民も安心して歩むことができたと言える。現代の教会、様々な組織でも一人の人が負い過ぎることは、良くないことだとわかる。「ともに重荷を負う」という恵みをもっと大事にしたい!

12日 出エジプト記19章
 イスラエルはレフィディムを通ってシナイの荒野に入り、山を前にして宿営をした(1-2)。そこでモーセは神のみもとに上って行き、神の声を聞いた。そして、この民に告げるようにと語られたのだ(3)。それはとても尊い内容だった。神のエジプトからの救い」を、すでにその目で見て体験してきた民である。そのことを確認した上で、主のことばに従うよう命じられたのだ。もはや実績は十分すぎた!そして、これは単なる命令ではなく、祝福を伴った幸せな命令だった。神は愛する民に幸せになって欲しいのだ。5節で、「わたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。」と主は言われている。「神の宝」とまで言ってもらえるとは、なんと幸いなことだろうか。大事にされないわけがない。しかも、このすぐあとに神はこう語っておられる。「全世界はわたしのものであるから」と。全世界のあらゆるものを治めておられる方が、その中であなたがたは「わたしの宝」となると言われるのだ。なんと光栄なことだろう!

13日 出エジプト記19章
あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。』これが、イスラエルの子らにあなたが語るべきことばである。」】(6
 「祭司」の中心的な役割は何だろうか。それはなんと言っても神と人との「仲介」である。神の偉大さや聖さを人々に示しつつ、人々の訴えを神にお伝えし、彼らの罪のなだめの儀式を行うのだ。「とりなし手」ということでもある。そのような「祭司たちの王国」ということなのだから、イスラエル全体が、全能の神と人類との仲介をする親善大使、架け橋のような役目を委ねられるということだ。これはキリストが十字架で死なれ、御霊が注がれた者において、特に実現している。御霊を持つ者は、持たない者の代わりに祈り、愛を示し、福音を語る使命があるのだ。これは第一ペテロ2章9節で、鮮明に説き明かされている。
しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためなのです。

14日 出エジプト記19章
 十戒を授かる際に、神はご自身の聖さを民に現わされた。21節にこうある。主はモーセに言われた。「下って行って、民に警告せよ。彼らが見ようとして主の方に押し破って来て、多くの者が滅びることのないように。 罪の汚れを帯びたまま、興味本位で神に近づき、自ら滅びを招くことがないように。神はこのような警告を与えられた。神の聖さは、人が考えるそれよりも聖なるものであり、人は自分が思っている以上に汚れた罪人なのである。例えに過ぎないが、白いと思っているTシャツがあったとする。しかし、新品で純白の白いTシャツと並べてみると、実は黄ばんでいたりして、純白ではないことに気づくものだ。この神の圧倒的な聖さを知ることによって、人は自分の汚れを改めて知ることになる。そして、神はこのような汚れた者を、ご自分の前にまっすぐ立てるように御子をくださったのだ。この恵みに感謝して、聖なる神のみそばに歩ませていただこう!

15日 出エジプト記20章
 十戒が与えられた場面だ。3節では第一戒として、「あなたは、わたし以外に、ほかの神があってはならない。」と語られている。人は自分たちの考えや都合を出発点として、数多くの神々を生み出したがるが、事実はどうであるのかが大事である。人が思いや考えで生み出す神は、所詮人が生み出した想像上の存在に過ぎないからだ。そして、事実は神ご自身から発信されたものであり、ここにあるように、世界の創造主「ヤハウェ」なる神以外にはいないということだ。この唯一の神を信じて歩むことが、第一のみ教えなのである。ただ主だけを礼拝し、ただ主だけに信頼する。それは、このお方が唯一生けるまことの神、主(ヤハウェ)だからである。

16日 出エジプト記20章
 4節 あなたは自分のために偶像を造ってはならない。 偶像というものは神が造るものではない。人が神のような物を造る時に出来上がるのが偶像だ。だから「自分のために」という説明がなされている。つまり、偶像は結局、自己中心の象徴のようなものだ。英語では「アイドル」であって、自分の好みの没頭できる相手を造り上げていくのだ。そして、4節の続きには、どこにおいても「いかなる形をも造ってはならない」とある。形があり、材質があり、見ることも触ることもできるのは、人間にとって「わかりやすい」ので、楽できる。でも、当の本人である神は、そんなことを少しも望んでいないのだ。錆びたり朽ちたりしていく材質に変えられてしまったら、永遠不変という神の最高の性質を台無しにしてしまう。神を、自分の祈りに何でも聞いてくれる存在だとするなら、人のワガママに「ノー」と断ることのできない、人に忖度する性質を造り上げることになる。偶像は、神を分からなくしてしまう罪なのだ。

17日 出エジプト記20章
 5節で、「偶像を拝んではならない」と語られている。4節では、造ってはならないだったが、誰か他の人が造ったものを拝むことも間違っているということだ。そして、きちんと理由まで教えられている。「あなたの神、であるわたしは、ねたみの神」だと言われたのだ。もちろん、いわゆる「ねたむ罪」を神が犯すという意味ではない。だが、神には不似合いで、不名誉とも思われる「ねたみ」ということばをあえて用いて、人のためにご自分の深い愛を表してくださったと言える。神はねたみを起こすほどに、人を大切に、熱く愛してくださっているということだ。熱々の恋人のように、新婚の夫婦のような関心を持って、人を愛しておられる。だから、浮気をしないようにと偶像に走ることを禁止されている。
 この神といつまでも相思相愛で、親密に歩めるならなんと幸いだろうか。神からは熱烈なラブコールを受けているのだ。私たちはどう応じるのだろうか。

18日 出エジプト記20章
7節 あなたは、あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない。 私たちが誰かを呼びつけるとしたら、その人を軽んじてはいないだろうか。特に聖書において、名前にはその人の人格や性質が深く関わっていると理解されている。主の名は聖なる御名畏れ多い偉大な御名である。だからそれを、自分の都合のために軽々しく呼び、お願いリストを叶えさせるために神を利用するならば、それは神への不遜であり、神ご自身が嫌われる行為なのだ。自分の発言の正当性を裏付けるために神の名を用いることも、禁止されていることである。
 そして、そのように神への畏敬の念を常に持っているからこそ、主の名をお呼びする時には、畏れと愛と信頼とをもって、慎んで・・・ということができるだろう。神を恐れることが知恵と知識の初め。この方を恐れる姿勢が、この世界で謙虚に、着実に歩める道である。

19日 出エジプト記20章
8節 安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。 安息日は、神が休みたいからと造られたものではない。神に休みは不要だ。だが、人には休みが必要であり、神は人のために意図して安息の日を造られたのだ。9節によれば、この日は働いてはならないと教えられている。人は働けば、そのことに心も体も奉仕することになる。そして、休むことのなく働けば、自滅する。自滅するだけでなく、神を忘れる。「聖なる日とせよ」とあるように、この日を神を覚えることに心を注ぎ、聖なる神の前で安息するようにと教えられているのだ。人は神には決してなれない。24時間、365日、働き続けることは誰にもできない。それは人は神ではなく、「造られた人間」だからだ。安息日を持つということは、私たちが神の被造物であり、神なしには生きていけないことを毎週教えられ続けるということだ。つまり、これは神を知る教え、神を愛する教えであることを心に刻みたい。

20日 出エジプト記20章
 十戒の第四番目とみ教えとして、「安息日を聖なる日とせよ」という教えがあった。七日目を聖なる日、安息の日として、仕事をしてはならないと教えられていた。10節では、「男奴隷」「女奴隷」も休ませるようにと教えられている。さらには「家畜」までそこに含まれており、「寄留者」へも配慮されている。これはある意味では、不当就労を防ぐ教えでもある。強い者が、休みなく弱い者を働かせるのは、いつの時代でも実際に起こっていることだ。労基法があっても、様々な方法や屁理屈で不当に働かせることはある。でも、神を恐れる者は、社会にバレなければ・・・ではなく、神の前にどう生きるかが問われる。神ご自身が率先して安息の日を休まれ、栄えある日とされた。皆がしっかりと神の前に安息し、力をいただいて元気になり、新しい週へと活力をいただいて歩めるようにしたい!

21日 出エジプト記20章
 十のみ教えのうち前半4つが神を愛すること。残りの6つは隣人愛を教えるものだと言える。ただ、それらは別物ではない。神を愛することは、隣人を愛することでもある。
12節 あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしているその土地で、あなたの日々が長く続くようにするためである。 後半のみ教えの最初がこれだ。エペソ書ではこの教えを「約束を伴う第一の教え」と呼んでいる。第一の教えと呼ばれるほど、根本的なものであり、特に「隣人を愛しなさい」という教えの出発点でもあろう。そして、神が祝福してくださるという約束が伴っているのだ。「親を知らない」という人はあっても「親がいない」という人はいない。そして、親を敬うことなしには、隣人を愛しているとは言えないだろう。なお、これは「尊敬できないと思える親」であっても、変わらない教えである。もし、罪深い親であるなら、子はその親を尊敬するゆえに、救われ、悔い改められるよう祈るべきである。

22日 出エジプト記20章
 13節から15節まで、「殺してはならない。」「姦淫してはならない。」「盗んではならない。」と続く。現代の私たちにとっては当然の倫理だが、時代は今から3400年も前である。当時の社会においては、これらの倫理がまだ当たり前とは言えなかった時代。神からこれらがイスラエルの民に与えられたことは非常に大きな意味を持った。当時のどの民族もこうした罪や争いが多い中で、イスラエルの民の高い倫理観は際立っていたと言える。そして、「殺してはならない」との教えには、自分のいのちも含まれるだろう。なぜ、自殺をしてはいけないのか。それは、神が与えられた命であるからだ。自分の所有物なら、自分の好きにすればいいが、私たちのいのちは神の所有であり、神の許しなしに終わらせるものではない。神だけが、その権限を持つことを、私たちは厳粛に受け止めたい

23日 出エジプト記20章
 14節の「姦淫してはならない」という第七のみ教えは、単なる禁欲主義とか品行方正であれといった薄っぺらい教えではない。もう少し肯定的にとらえるべきではないだろうか。神が定められた結婚が尊ばれ、家庭が守られるようにという教えであると言えるのではないか。特に、夫婦はこの世界を構成する最小単位。最小単位の夫婦がうまくいかないなら、家庭全体・社会全体が壊れていくことになる。だからこそ、夫は妻を、妻は夫を自分自身のように大切に愛するよう命じ、この教えはそれを支えていることになる。一夫多妻制が当たり前のようにあった時代に、夫がひとりの妻を、妻がひとりの夫を大切にするように教えられていることは大きい。やがてそれが世界基準になっていくのだから、聖書の教えが果たした役割がどれほど大きいことかと思わされる。確かに誰にとっても快楽の誘惑はある。見つからなければいいのでは・・・との悪魔の声がある。だが、神の教えはことごとく正しく、私たちを幸せにする!惑わされず、主の教えを大事にしよう。

24日 出エジプト記20章
 第八のみ教えは、「盗んではならない」(15)だ。これは単なる盗みだけではなく、略奪することを禁止している教えでもある。戦争で勝った方が、負けた相手を捕虜にしたり、略奪したりすることが当然の権利のようになされて来たことは、歴史が物語っている。日本も戦時中、多かれ少なかれそうしてきた。どんなに正しそうな理由を並べても、やはり相手の何かを武力で奪うのが戦争だ神は「盗んではならない」と教えられた。勝っても略奪をしないように、その人の尊厳を奪わないように、そういう意図もここには込められている
 これらは現代でもなくならない罪だ。ある人々は、堂々と盗める法的道筋を作り、裏金を作ったりする。ある人は他の人のアイディアや作品を盗む。ある人は架空請求をして盗む。そして、ある人々は、人の尊厳を奪う。人の人生を奪う。冤罪がある。ネットでの誹謗中傷が起こる。神が人に与えられたいのち、尊厳、人生を誰も奪ってはならない

25日 出エジプト記20章
 第九のみ教えは16節にある。「あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない。」これは裁判で耳にする「偽証罪」のもとになった教えである。ウソの証言で人の人生を大きく左右してしまうことがあるのだから、当然である。ウソほど手軽で手間いらずでありながら、時に絶大な効果をもって人を貶める罪はないだろう。現代では、ネットにおいて事実と異なる情報を拡散するならば、深刻なダメージを負わせることになる。その重さを私たちは知らなければならない。気軽にできるものではないのだ。それは重い。時にそれは、殺人罪並みの重罪にもなりえると思うのは私だけだろうか・・・。その意味では、神が、十のみ教えの中に、これを含めてくださった配慮には頭が下がる。現代のネット時代においてはより重要度が増している。未来までも見通す神だからこそのご判断だ。特に人の人生を大きく狂わせ、時に死に至らせるダメージさえ与えるという意味で、これは重大なものなのだ。私たちも心しよう。

26日 出エジプト記20章
 第十のみ教えは、隣人の物を欲しがってはならないだ。17節であなたの隣人の家を欲してはならない。あなたの隣人の妻、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを欲してはならない。」と語られている。前半に隣人の家、妻、奴隷、家畜と具体的に挙げられているのは、当時の人にとって非常にイメージしやすかったことであろう。そして、最後に主は、「すべて」ということばをもって、他人の所有物を何であろうと欲してはならないと教えておられる。こうして十戒の第五のみ教え以降は、人間関係についてだが、それらは隣人が嫌がることをしてはならないということであり、むしろ隣人を愛するということだとわかる。それらは、お互いの幸せのためであり、「今自分に与えられているもの」の恵みをしっかりと知るための、神のご愛であることを知ろう。与えられているものを感謝しよう!

27日 出エジプト記20章
 18節「民はみな、雷鳴、稲妻、角笛の音、煙る山を目の前にしていた。民は見て身震いし、遠く離れて立っていた。」 十戒が与えられ、そして神のこのような偉大さと聖さが現わされていた。厳粛な場面である。この時民は恐れ「死」を意識した(19)。神の偉大さ、聖さを前にする時、人は恐れ身震いし、死さえ意識する。それでモーセは20節で「恐れることはありません」と語りつつも、これが「罪に陥らないよう」にするためのものであり、「神への恐れが生じるため」であると教えた。少し矛盾を感じる表現だが、恐れを否定的に捉えず、肯定的に神のみこころして捉えよということである。これは本当に大切なことである。神をも恐れない・・・この不遜な生き方が、罪を犯すことを正当化し、開き直り、おごり高ぶることにつながる。神はあえて、ご自身の偉大さや聖さを現わされ、人々に滅びや死を意識させ、恐れを生じるようにしておられるのだ。健全な恐れを悪いものとしてではなく、罪や滅びから守られる幸いへの道として理解しよう!

28日 出エジプト記21章
2節 あなたがヘブル人の男奴隷を買う場合、その人は六年間仕えなければならない。しかし七年目には自由の身として無償で去ることができる。 奴隷がヘブル人男性だった場合、どんな奴隷でも7年目には無償で去ることが許された6年働けば、7年目には解放されるのだ。その他にも「ヨベルの年」という規定があり、「ヨベルの年」が来た場合には、奴隷になって何年目であろうとも解放された。さらに、20章の安息日規定では、奴隷も7日目は働いてはならなかったから、必ず休みを取ることができた。神の教えは絶対であり、どんな威張っている主人であろうと、これに従う必要があったので、その意味では弱い立場の人がしっかりと守られていた。なお、女奴隷の場合は、それ以上に弱い立場なので、別の規定で守られている。神は、社会的弱者、弱い立場の者が守られ、生活できるように細かな配慮をしている。私たちも自分たちのことばかりで忙しくならず、弱い人のためにできることを祈りながら考えてみよう!

29日 出エジプト記21章
 奴隷には、主人のもとを去らない自由があった(5)。自由になるよりも、この主人のもとで働かせてもらう方が、自分も家族も幸せだと考えた場合、それができた。奴隷がそれを明言するならば、主人はその奴隷を神のもとに連れて行き、きりで耳に穴を開けるという義式を行うことで、いつまでもその主人に仕える道があったのだ(6)
これらはイスラエルの奴隷制度が残酷で野蛮なものではなかったことを示す。人は誰もが同じではない。起業してどんどん働きを展開できる人もあれば、誰かのもとで従順に従うからこそ、生活していけるような人もいる。多様性が許容されている。そして、私たちも、いつでも神に逆らう自由や神から離れる自由も持っているが、真のキリスト者であれば、それをしたいとは思わないだろう。こんなにも大きな恵みと愛を自分から捨てるなど、考えられないからだ。神のしもべ(奴隷と同じことば)であることを、いつでも誇りとしたい!

30日 出エジプト記21章
8節 彼女を自分のものと定めた主人が、彼女を気に入らなくなった場合は、その主人は彼女が贖い出されるようにしなければならない。主人が彼女を裏切ったのだから、異国の民に売る権利はない。 聖書における奴隷は、私たちが通常イメージする強制労働者のような立場とはだいぶ異なる。特に、社会的弱者の救済手段的な要素があったと考えられる。ここでは、男性の奴隷以上に弱い立場の女性の奴隷について、愛のない態度を取ってはいけないことが教えられている。気に入らないからという自己都合で異国民に売るなど、決してしてはならなかった。主の愛の教えを持たない者の奴隷は、文字通りの奴隷となってしまうからだ。だから、「彼女が贖い出されるように」しなければならず、正当な立場の者に責任をもって、必要な物をきちんと受けて生活できるようにすべきであった。また、自分の息子と結婚させるような場合は、もはや「自分の娘」として扱うべきことも教えられている(9)。忠実に働く女奴隷の場合には、そういう道も開かれていた。


引用元聖書
<聖書 新改訳2017
聖書 新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会


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