東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 伝道者の書7章23-29節「神は人を真っ直ぐな者に造られた」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

最新情報

2024/06/04

伝道者の書7章23-29節「神は人を真っ直ぐな者に造られた」

*** 6/2(日)主日礼拝 説教概略 ***

 普段の生活の中で優先順位というものをどれぐらい意識して歩んでいらっしゃるでしょうか。多くの方が、慌ただしい日々を送っていることと思います。だからこそ、優先順位をしっかり持って歩みたいですよね



 先日、ほっとカフェの交わりで、ルターの話が出ました。多忙を極めたルターは、「毎朝23時間は祈らないとやっていけない」と証ししているということでした。彼は本当に忙しく、多くの戦いがあったことでしょう。しかしだからこそ、神様との交わりの時間をどの時間よりも最優先したのです。優先するということは、そのために時間を取るということです。簡単ではないですが、「爪の垢を煎じて・・」なんてことばもあるように、いくらかでも倣いたいものです。神の国とその義とを第一にしたいのです。

 「少しくらい離れても大丈夫」と思うかも知れません。しかし、イエス様はパン種に気をつけるよう言われました。わずかなパン種(イースト菌)が、パンを大きく膨らませるように、小さな罪のズレから深刻な問題へと発展するからです。ですから聖餐式では「種なしパン」を用いますよね。

 神様は人を、ご自分の前に真っ直ぐ立つ者として造られました。罪で歪んだ私たちですが、主の十字架によって回復させていただいたのです。神様の御顔を真っ直ぐに見つめる歩みをしていきましょう!

 

1.人間の知識の限界  


23 私は、これらの一切を知恵によって試みた。私は言った。「私は知恵のある者になりたい」と。しかし、それは私には遠く及ばないことだった。 

 著者であるソロモン王は、あらゆる事にトライし、検証し体験しました。そうやって「知恵ある者になりたい」と努めたのです。これは単なる願望ではありません。「ぜひとも、知恵ある者になろう!」と自分を励ます表現です(cohortative)。自分を奮い立たせ、意を決して、知恵ある者であろうとしてきたのです

 しかし、神の造られた世界はあまりにも広く、深い。その知識では遠く及びませんでした。24節にこうあります。 

24 今までにあったことは、遠く、とても深い。だれがそれを見極めることができるだろうか。 

 あらゆることに、神様の深く壮大なご計画がありました。その時代の誰よりも賢い知恵を授かった彼ですら、まるで及ばないと言います。神様以外には、その極限までを知る者はいないのです。人には「見極められない」ことを知ることが、神の前に真に賢い生き方であると思わされます。学んでいる方にいつも伝えたいことがあります。知識を得て「わかったつもり」にならないことです。「わかった」と思った瞬間に盲目になってしまう危険を知って欲しいと思います。「もう分かっている」と言う時、自分が分かっていない者である・・・ということに気づいていないのです。私は国語、日本語が得意だと思っていましたので、神学校で学び始めた時、みことばに人生をかけて取り組む人々の姿勢を前にして、わかったつもりでいる自分が恥ずかしいと思いました。先生方が、「は」と「が」の違い一つでさえも、真剣に深く取り組んでいる姿を知って、そう思ったのです。

 得意な分野においてこそ、神の声、隣人の声を謙虚に聴く姿勢を持つ必要があるのだと教えられますね。25節や27節でも、著者は心のすべてをそこに向けて、知恵や道理を知ろうと探求したことが分かります。しかし、自分が発見できたことは思ったほど多くなかったのです。28節の前半にある通りです。必死に探し求めたが、見いだせなかったのです。人は自分の知恵においては、誰も極めることなどできないのだと、著者の証しを通して主が語っておられるのです。どうしたって、私たちは神ではないのです。

 

2.自身の体験から気づいた真理  


 さて、これだけ求めて世界を見極めようとして著者が得たものは何でしょうか。それは、皮肉を込めた表現かも知れませんが、異性にうつつを抜かし過ぎると、我を失いその罠に陥いるという真理でした。ソロモンには300人の妻と700人の妾がいたとされています。日本の江戸時代の「大奥」よりもずっと規模が大きい印象です。彼ほど異性との関係に傾倒し、翻弄された人物は歴史上いないでしょう。

 知恵を求め、この世界の良いことも悪いことも探求しようとした結果、一番よくわかったこと。それが、異性に溺れた自身の「しくじり体験」です。なんとも「皮肉」なことではないでしょうか。あれこれ追及して、極めるに近いところまで至って教えられたことが、「異性の罠」ということなのですから。

 確かに、歴史的にも、強い権力者や英雄の横にはいつも女性がいて、彼らを操っていたという考察もありますよね。ただ、ここではソロモンの個人的な経験の中で知ったことですから、「女性は罠である」と表現していますが、女性が著者ならば「男性は罠である」という体験談になったことでしょう。男性であろうと女性であろうと、やはり異性の誘惑と依存という問題を持っているということです。「恋は盲目」、「恋の病」と言った表現も昔からあります。

ここで教えられることは、異性を偶像にしてはならないということです。それはソロモンが26節で、「神に良しとされる者は女から逃れるが、罪に陥る者は女に捕らえられる」と語っている通りです。私たちの心の王座に、神様ではなく異性を座らせてしまう誘惑は決して小さくないのです。ソロモンは、罪深い異教の習慣を持つ女性を身近に置き、それによって、神様から心が離れてしまうという問題にも陥った人です。

それは、第一にすべきものを第一にできなくなったということです。異性に翻弄されて心身ともに深刻なダメージを受けることも確かにあります。人はどこまで言っても罪人ですから、相手の心を自分につなぎ止めるために、すべきでないことまでしてしまうという弱さを持ちます。嫉妬心から嫌味を言ってしまったり、相手の気を惹こうとして良くない言動をしてしまったり。そして、そのような自分を嫌いになっていくのではないでしょうか。「こんな自分は嫌だな」と気づければまだ良いのですが、盲目になってしまうと、それにさえ気づけません。そして、相手もそれを利用してしまうのです。「こうしてくれたら、もっとあなたに心が向きますよ」と。これは、愛ではないですよね。ある主の「支配関係」です。

 

3.神は人を真っ直ぐな者に造られた  


 私たちが唯一、支配をお願いして大丈夫な相手は神様だけです。ご自身のいのちまで与えるほどの完全な愛のお方だから。100%真実で正しいお方だからです。いや、むしろ、このお方の前に真っ直ぐに立たせていただく時、様々な罪の歪みを正していただけるのです。

著者はこれらを念頭に置いたうえで、こう締めくくります。29節です。 

29 私が見出した次のことだけに目を留めよ。神は人を真っ直ぐな者に造られたが、人は多くの理屈を探し求めたということだ。 

 一つの真理に目を留めよと強調しています。その真理とは、神様は人を「真っ直ぐな者」として造られたということです。私たちが本来立つべきところはどこなのかということです。神様の真正面が皆さんの本来いるべき場所なのです。これを失えば、すべてにおいて歪み、ずれ、満たされることのない日々となります。

 ここに、「人は多くの理屈を探し求めた」とあります。これが人の罪の結果です。神との交わりを失ったので、歪み、混乱し、不要な言い訳でいっぱいです。人間の理性も罪によって歪んでいます。だから、神様についての知識も歪んでしまうのです。自分勝手な神様像をイメージし、神様がそのイメージ通りにしてくれないと、「神様なんているもんか、信じるもんか」と文句を言い始めます。自分の歪んだ理想を神様に押し付けるという行為自体が、傲慢な罪であることにも気づきません。

こうして、第一のものがずれれば、第二のもの以降も全部ずれていきます。曲がった定規では、何度線を引き直しても、真っ直ぐな線は引けませんよね。造り主を見失えば、男女関係、夫婦関係、親子関係、友人関係においても歪みます。何のために働くのか、何のために頑張るのか、何のために生きているのか。それらの大切な問いの答えもまるで分らなくなってしまうのです。

創世記によれば、罪が入る前の人間(アダムとエバ)は本当に幸せでした。隠れることもなく、目をそらすこともなく神様を見つめることができる存在だったのです。まさに神様を真っ直ぐ見て心から愛し、何の妨げもなく交わることが許されていたのです。しかし、人は罪を犯し、神様から離れてしまったのです。創世記38-10を開きましょう。罪を犯した結果、真っ直ぐに神の前に立つように造られたはずの人が、隠れてしまうようになりました。

創世記38 そよ風の吹くころ、彼らは、神である主が園を歩き回られる音を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて、園の木の間に身を隠した。9 神である主は、人に呼びかけ、彼に言われた。「あなたはどこにいるのか。」10 彼は言った。「私は、あなたの足音を園の中で聞いたので、自分が裸であるのを恐れて、身を隠しています。」

 神である主の御顔を避けて、身を隠してしまった人間の姿です。皆さんは今、神様の前に、堂々と胸を張って、真っ直ぐ見つめることができますか。「あなたを心から愛しています」と、やましい心もなく、主の前に真っ直ぐにいられるでしょうか。「あなたはどこにいるのか」との主の問いに、「はい、ここにおります!」と真っ直ぐ応答できる交わりがあるでしょうか。

 

 主なる神様は、私たちをご自身の前に真っ直ぐ立てる者とするため、顔と顔とを合わせて交わりができる者とするため十字架の恵みをくださったのです。イエス様は人々の歪んだ正義の中で、十字架で殺されました。人の歪んだ正義は、罪ある者を見逃し、正しい者を罪に定めてしまいます。それらの歪んだ世界の罪を一身に背負って、十字架にささげられた主イエス・キリストです。私たちと父なる神様とが、最初の交わりに回復するため。真っ直ぐに神様と語り合い、生かされる者となるため。そのために神様は御子を与えてくださったのです。

「神様は私など愛していない。」その思いはあなたの歪みです。「私には価値がない。」それはあなたの価値観の歪みです。「私は何の役にも立たない。」その考えは、神を知らない歪みから来る思い込みです。

主はあなたを愛し、あなたに価値があると言われ、あなたが必要だとおっしゃるのです。主の前に真っ直ぐ立つならば、この真理も真っ直ぐに受け入れているのです。あるべきところに立ち返りましょう。私たちを造られた神様のデザイン、本来の神のかたちを回復したいのです。

 「私が見出した次のことだけに目を留めよ。神は人を真っ直ぐな者に造られた」

引用元聖書
<聖書 新改訳2017
聖書 新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会  

教会へのメールはこちらから

名前

メール *

メッセージ *