東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ローマ書8章5-11節「肉に従う者と御霊に従う者」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2024/06/05

ローマ書8章5-11節「肉に従う者と御霊に従う者」

*** 6/5(水)祈祷会 説教概略 ***

 イエス様を信じた人はクリスチャンです。その人のうちには神の御霊が住んでおられ、そして同時に永遠のいのちも持っています。ですから、天国に行ける幸いな人です。

 でも、同じクリスチャンでも、ねたみや争いに満ちた生活を送る人もいれば、「これぞクリスチャン」と思えるような平安と喜びに満ちた歩みをする人もいます。その違いは何でしょうか。


 その人の努力次第なのでしょうか。その人の信仰の強さによるのでしょうか。そうではありません。信仰生活はそのような肉の努力、人間の強い信念によるものではありません。

 今日のみことばによれば、「肉に従う者」「御霊に従う者」との違いです。もちろん、ノンクリチャンは御霊を持っていないので、自分の肉に従うしかありませんね。しかし、クリスチャンになっても、「肉に従って生きる」ならば、天に国籍を持つ者でありながら、この世に支配され、神に喜ばれることができない歩みをし続けてしまいます

 パウロは第一コリント31-3節で、このように語っています。

1 兄弟たち。私はあなたがたに、御霊に属する人に対するようには語ることができずに、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように語りました

2 私はあなたがたには乳を飲ませ、固い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。

3 あなたがたは、まだ肉の人だからです。あなたがたの間にはねたみや争いがあるのですから、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいることにならないでしょうか。

 私たちはどうでしょうか。

 しばしば、1節にあるような「肉に属する人」、「キリストにある幼子」のように歩んでいることはないでしょうか。3節で示されているように、私たちの周りに、ねたみや争いがあるのなら、否定はできませんよね。

 もちろん、御霊に従えている時もありますが、一方で罪を犯している時は、まさに肉に従ってしまった時であると言えるでしょう。けれども、みことばからしっかり教えられて、御霊に従う道を求めていきたいのです。神様に求めて祈るならば、私たちの歩みは肉に属するよりも、御霊に属する歩みへと徐々に変えられていくことができるのです。


5-6節にこのように語られていますね。

5  肉に従う者は肉に属することを考えますが、御霊に従う者は御霊に属することを考えます。6節 肉の思いは死ですが、御霊の思いはいのちと平安です。 

「肉に属すること」とは、6節によれば「死」に属すること、死へと向かっていく生き方であると分かります。

 例えば、人をねたみ、憎み続ければ自らの心を滅ぼすでしょう。争い合えば、お互いを傷つけますから、死へと近づきますよね。悪いことばという、「見えないナイフ」で心を刺せば、自分も隣人も死へと近づくでしょう。富、名声、異性、ギャンブル、様々なものの「奴隷」となって生きれば、より大切なものを失い、破滅へと向かいます。それらの奥にいる支配者は悪魔です。ですから、7-8節にこうあるのです。

7  なぜなら、肉の思いは神に敵対するからです。それは神の律法に従いません。いや、従うことができないのです。8  肉のうちにある者は神を喜ばせることができません。 

 肉の思いは、「神に敵対する」とわかります。神様が嫌われ、悲しまれることをしてしまうので、自分が望んでいなかったとしても、「悪魔のしもべ」として歩んでしまっていると言えるでしょう。ですから、8節にあるように、肉に従う者は、その中でどんなに良さそうなことをしてみても、神様を喜ばせることができないのです。これはとても悲しいことですよね。神の子どもとされたクリスチャンなのに、父なる方を喜ばせることができないのですから。人は誰でも父・母から認められ、ほめられ、父母に喜んでもらいたいと思うのではないでしょうか。私たちは神様に大いに喜ばれる歩みをしたいのです。それが素晴らしい十字架の愛を受け取ったことへの、私たちの感謝の応答ですよね。

ただ、先ほども話したように、クリスチャンになってからも神を悲しませる歩みをしてしまいます。それは、御霊を持つ者でありながら、御霊を無視して肉に従って生きているからです。御霊の思いよりも、自分の思いを最優先させているのです。けれども、それは・・・とても「もったいない事」だと思いませんか。

 この恵みを受け取れていない人について、このようなたとえ話があります。ある人が豪華客船に乗りたいと思って、必死にお金を貯めてなんとかチケットを購入できました。しかし、一番安いエコノミー乗船券なので、食事は付いていないと思っていたのです。それでこの人は、自分で非常食を沢山持ち込んで船旅をしていました。皆さんが美味しそうなご馳走を食べているのを横目で見ながら、ひもじい旅を続けました。しかし、その食料さえもやがて尽きてしまいました。そこで、「掃除でも何でもするから少し食べ物を分けてくれ」とお願いする始末です。ところが、実際には、そのエコノミー券には3食の豪華な食事がセットでついていたと知らされます。なんともったいないことでしょうか!!彼はその特権を持ちながら、それを知らずに、ひもじい思いをして過ごしてしまったのです。

 しばしば私たちもこれと似たことをしています。御霊を既に受けているのです。そこには素晴らしい神の力を受けられる特権が付いているのです。誰でも自由に御霊に従って、神様に喜ばれる歩みができるのです。なのに、それを用いないで、肉に従い、むなしい歩みをしてしまっているのです。

9-11節では、この真理を繰り返し語っています。

9 節 しかし、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉のうちにではなく、御霊のうちにいるのです。もし、キリストの御霊を持っていない人がいれば、その人はキリストのものではありません。

10節 キリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、御霊が義のゆえにいのちとなっています。

11  イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだも生かしてくださいます。

 少ししつこいぐらいに言います。イエスを信じているなら、あなたは御霊の特権を持っています。死んだ行いではなく、いのちに至る行いに歩めるのです。

 ですから、御霊に従うことができる備えはもう完璧です。あとは、従うだけです。

「御霊に従う」ということがよく分からないという方のためには、言い方を変えましょう。それは、みことばに従うことと同じです。そして、キリストに従うことと同じです。なぜなら、神様は三位一体だからです。みことばは神様の意志、神様の心そのものです。ですから、聖書のみことばに従うことは、神様に従うことであり、御霊の願いそのものです。ですから、御霊は聖書に生きることを助けてくれるのです。あなたがそれを求めさえすれば!キリストもまた、父と聖霊と思いは一つです。ですから、キリストの教えに従おうとするなら、御霊が助けてくださるのです。

 肉に属する歩みを悔い改め、御霊に属する道へと方向転換しましょう。主を悲しませる歩みから、主を喜ばせる歩みへ。子ども服を着たクリスチャンから、大人の服が似合うクリスチャンへと変えられていきたいのです。

 手のかかる子どもクリスチャンが減って、他の人のお世話ができる大人クリスチャンが増えるとどうなるでしょう。宣教は前進することでしょう。クリスチャンのお世話より、クリスチャンではない方のお世話に力を注げるからです。教会が愛と赦しの共同体として成長できれば、内側の問題に多くの時間を取られずに済みます。御霊に従って成長し、外に向かって力を注げる群れを目指しましょう。



引用元聖書
<聖書 新改訳2017
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