東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 第一ヨハネ5章13-17節「確信を持って歩める幸い」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2024/06/11

第一ヨハネ5章13-17節「確信を持って歩める幸い」

*** 6/9(日)主日礼拝 説教概略 ***

 「ほぼ確かだろう」と思うけれど、確信が持てないというケースがあります。街で知り合いを見かけて「あの人だ。ほぼ間違いない!」と思い、声をかけようと思うことがありました。しかし、マスクをされていたので、「間違いないと思うのだけれど、やはり、違ったらどうしよう」と一抹の不安がよぎります。確信が持てないと声をかけにくいのですよね。



 あるいは、受験生は、学校の内申点や偏差値などから推薦を得て、優遇措置を受けられる場合があります。そして「よほどの事がない限りは合格できるのでは?」などと言われるケースもあります。ただ、「よほどの事」が絶対ないとは言い切れません。それゆえ確信は持てず、合格通知を見るまではやはり不安なのです。

 こうした事を考えると、「確信」と、「ほぼ確かだろう」との間には、限りなく大きな差(溝と言ってもいいもの)があるのではないでしょうか。

私たちの信仰とは、「多分」とか「ほぼ」ではありません。確信を持てることが本当に幸いなのです。本日開いているみことばから、3つの確信について教えられます。改めて、これらの確信を持てることがどれほど幸いなことであるか、教えられていきましょう。

 

1.「永遠のいのち」を持っているという確信

 13節にこうあります。13  神の御子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書いたのは、永遠のいのちを持っていることを、あなたがたに分からせるためです。 この書が書かれた目的として、「永遠のいのちを持っていることを、あなたがたに分からせること」が挙げられています。それほどに、永遠のいのちを持っているという真理は大切なことなのです。

そして、この書き方はとても興味深いものです。同じヨハネが書いたとされるヨハネの福音書の2031節と比べてみたいと思います。そこでは「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。」とあるのです。

今日の箇所との違いは何でしょうか。福音書では「信じるため、いのちを得るため」に書いたとあります。それは、まだ信じていない人が信じていのちを得られるように書いたのです。しかし、この手紙ではどうでしょうか。13節にあるように「信じているあなたがたに・・・永遠のいのちを持っていることを、分からせるため」に書いたのだと語られていますよね。これから持てるように、信じられるようにではなく、すでに「持っている」ことを、分からせるためだと言うのです。「持っている」と訳されたことばには、継続の意味が含まれており、「持ち続けていること」を分かって欲しいのだと言うのです。キリストを信じるあなたは永遠のいのちを既に持っている!この確信を知って欲しいのです。

今日、イエス様が来られ、「世界の終わりです!さあ、父のもとに行きましょう」と言われる時に、取り残されることはないと確信しているでしょうか。ある小説では、教会の副牧師が取り残されるというエピソードがありました。確実に神様のみもとに行ける!という確信です

皆さんはその確信、お持ちでしょうか。その時に、信じたら9割方、天国行けます」と言うのと、「信じたなら確実に天国に行けます」では、全然違いますよね。先日、長女が運転免許を取り、初めて運転しました。その時に冗談で「これは天国行きの車です。確信がない人の乗車はお断りです」なんて言っていました。イエス様の御名を信じる者は、天国でも生き続けられる「永遠のいのち」を持っているのです。この確信をしっかり持って歩みましょう。

 

2.「神が聞いてくださる」という確信

14-15節をご覧ください。 14  何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。15  私たちが願うことは何でも神が聞いてくださると分かるなら、私たちは、神に願い求めたことをすでに手にしていると分かります。 

すばらしい恵みです。私たちはあらゆることにおいて、もっと神様に祈り求めていきたいと思わされます。そして、みこころに従った願いであれば、神様が応えてくださると確信できるので、「すでに手に入れた」も同然だというのです。これは恵みの先取り特権だと思うのです。得る前から、確信を持って楽しみにして歩めるのです。ただし、とても大切な前提があります。「神のみこころにしたがって」ということです。ヤコブ書では、「求めても得られないのは、自分の快楽のために使おうと、悪い動機で求めるからです。」とあります。みこころに従わない願いは、応えられないという真理です。

でも、これは本当に幸いなことではないでしょうか。感情のままに願ったことがその通りになることは、とても責任が重く、恐ろしいことです。でも、悪い動機の祈りについては、神様が「待った」をかけてくださるのです何事でもみこころに従った祈りは応えられる!この確信があるからこそ、応えられない時には、「私は何かがずれていないだろうか?」と、神様から取り扱っていただけるチャンスともなるのです。ですから、私の最善ではなく、神の最善がなされていくという安心がある中で、大胆に何事でも神様に祈っていくことができるのです!

 

3.「死に至ることはない」という確信

 16-17節です。16  だれでも、兄弟が死に至らない罪を犯しているのを見たなら、神に求めなさい。そうすれば、神はその人にいのちを与えてくださいます。これは、死に至らない罪を犯している人たちの場合です。しかし、死に至る罪があります。これについては、願うようにとは言いません。17  不義はすべて罪ですが、死に至らない罪もあります。 

ここでは、16節で「神に求めなさい」とありますよね。これは、みこころにかなう願いの一例でもあります。兄弟が罪を悔い改め、いのちの道に戻れるようにとの願い。これは、みこころにかなっているので「求めよ」と言うわけです。

ただ、ここでは「死に至る罪」「死に至らない罪」とが語られています。これを理解しないとよく分からないですよね。死に至る罪とは、何でしょうか。簡単に言えば、キリストの十字架を拒む罪です。それは、神であるキリストを拒み、そこにある罪の赦しをも拒絶するのですから、もはや救いはない。死に至るしかないですよね。16節最後に「これについては、願うようにとは言いません。」とあるのは、そのためです。

 では、「死に至らない罪」とは一体何を指すのでしょうか。結論から先にお伝えすると、「キリストを信じている人が犯してしまった罪」のことです。それは死に至りません。16節で、「兄弟が死に至らない罪を犯しているのを見たなら」と断ってありますよね。「兄弟」と呼べるのは誰でしょうか。イエス様を信じている者ですよね。「神の子」とされている者、神の家族の一員なので兄弟・姉妹と呼び合います。ですから、クリスチャンである兄弟が罪を犯しているのを見たなら、神に祈り求めよと言うのです。とりなしの祈りです。その人が悔い改めるように祈ることは、みこころにかなっていますし、その人の赦しもみこころにかなっているのです。ですから、「神はその人にいのちを与えてくださいます」とあるのです。この確信がないと、祈っても無駄なのではと思えてしまうことがあるでしょう。

この手紙の19節で、罪の赦しの確かさが語られていました。

19節 もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。 

 この確信は本当に大きなものです。イエス様を信じてさえいれば、あらゆる罪の告白を受け付けていただける。しかも、既に赦されることは確定しているのです。罪の赦しを求めて祈ることは、「みこころにかなうこと」ですから、既に赦されているとの確信さえ持って告白できるのです!また、兄姉のためにも確信を持って祈れるのです。なんと幸いなことでしょうか。 

私たちが他の人に自分の罪をなかなか言えない理由は何でしょうか。それは、「赦されなかったらどうしよう」と思うからです。ひどく責められるかも知れない。見下されるかも知れない。嫌われ、離れて行かれるかも知れない。少しでもその可能性があれば怖くて言えないものです。しかし、主なる神様はどうでしょうか。神様は私たちを罪に定めない!キリストにあって必ず赦してくださる!との確信があるのです。それで正直に告白できるのです。

確信があるとは、なんとありがたいことなのでしょうか!この確信を互いに大切にし、励まし合って歩みたいのです。お互いが罪から守られるように祈ること。罪に陥ってしまった兄姉があるならば、神がいのちをその人に与えてくださるよう、とりなしの祈りをぜひしたいのです。

 

 主はあなたを深く愛しておられます。主がくださるものは、曖昧でアテにならないものではありません。「多分」「きっと」「ほぼ」という不確かなものではありません。愛しているので「不安」ではなく、「確信」を与えてくださるのです。

 

1.キリスト信じている私たちには「永遠のいのち」があります!

もはや死でさえも、神様との永遠の交わりを妨げることのできません。この愛から離されることはありません。天国に確実に入れるとの安心があります。

 

2.主はみこころに従った願いに聞いてくださいます!

ですから、みこころを求めて、期待して祈り続けることができるのです。

 

3.そして、兄姉が互いに罪に定められることはありません!

罪を犯しても確かな赦しがあるのです。赦しの確信があるので、互いのために熱心に祈り合えます。赦しの確信があるので、罪の告白も率直にできるのです。

 

この不確かな世界の中で、確かなみことばの真理の上に立って確信を持って歩んでいける幸いがここにあります。そして、不確かな世界の不安の中に苦しむ人々に、堂々と確信をもってこの福音を伝えていきましょう!





引用元聖書
<聖書 新改訳2017
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