東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ローマ書8章12-17節「神の子どもとする御霊」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2024/06/12

ローマ書8章12-17節「神の子どもとする御霊」

*** 6/12(水)祈祷会 説教概略 ***

 先日、ある方がイエス様を信じる告白のお祈りをしました。「神の子ども」とされたということを聖書から確認すると、とても喜んでいました。「神の子ども」とされることは、本当に光栄なことです。神様の祝福を豊かに受け、その多くの恵みや特権に満ちた人生を歩めるという幸いがここにあります。



 今日のみことばにおいても、神の子どもとしてくださる神の御霊の助けが示されており、神の子どもであるゆえに、御霊に生きる義務と責任について語られています。ただ、「義務」や「責任」と聞くと、私たちは否定的な印象を持ちがちですよね。けれども、それは与えられている者にしか行使できない特権があるということであり、それはとても嬉しく光栄なことなのです。ですから、御霊を受けた者としての義務や責任ということを、光栄な特権として受け止め、そこにある使命を少しでも果たせていけたらと願っています。みことばに聞きましょう。

12節 ですから、兄弟たちよ、私たちには義務があります。肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。 

 私たちには「義務」があると語られています。しかし、それは決してこの世的な義務ではありません。なぜなら、「兄弟たちよ」とクリスチャンである読者を対象にしています。また、肉に対する義務ではないと断ってあるからです。では、どのような義務なのでしょうか。13節にあるように、御霊によってからだの行いを殺し、いのちの御霊に生きるという義務を持っているということでしょう。神様から御霊の恩恵を受けているのだから、その御霊に生きる義務もあると言うのでしょう。

なぜならば、それは持たざる者にはできないことだからです。御霊を持っていない未信者の方々には、どんなに努力しても御霊に生きることはできません。マザー・テレサは言います。私たちが何かを持っているということは、それを分かち合うために与えられているということなのだと。つまり、与えられている者には、それらを用いる特権とともに、それらを用いる義務や責任もあるのだということです。

同じローマ書の151節ではこうあります。私たち力のある者たちは、力のない人たちの弱さを担うべきであり、自分を喜ばせるべきではありません。」と。力を受けている者には、力のない人たちの弱さを担い、カバーする義務と責任があるという考え方です。神様はできない人に無理やりにでも「せよ」とはおっしゃいません。体が不自由なのに、飛んで跳ねて奉仕せよとは言われないでしょう。でも、力があるなら、力がなくて困っている人を助ける責任も、神様はそこに与えているということです。

 先に救われた者には、まだ救われていない人々のために仕える使命があります。御霊の力を持たない彼らのために、御霊の力を持つ私たちだからできることをさせていただくのです。クリスチャンは、神様を知らないノンクリスチャンのために、何をすべきなのでしょうか。祈ることができるでしょう。愛することができるでしょう。福音を伝えるべきでしょう。あるいは、聖書の教えや道徳を伝えることも私たちの使命でしょう。実際、ミッション系の学校はその使命を帯びて歩んできたのではないでしょうか。それらは神を信じている者、御霊を持つ者にしかできないことです。

 

 そして、14-15節では、御霊によって神様との親密な親子関係を歩むことができることが教えられています。 

14節 神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。
15節 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。 

 奴隷の霊ではなく「子とする御霊」を受けていると語られています。私たちを神の子とする御霊。それは、神様を「アバ、父」と叫ばせてくださる御霊です。全知全能の神様、世界を造られた偉大な神様を、「天のお父様」と親しく呼べることは、実に当たり前のことではないのです。キリストの十字架の赦しを受け、「子とする御霊を受けた」ゆえに、初めてできることです。

15節にあるように、御霊によって、私たちは「アバ、父」と呼ばせていただけるようになったのです。「アバ」とは、幼子が心から信頼する父親に対して「お父ちゃん」と安心して呼ぶ時の言い方です。主の御顔を見れば、一瞬で滅んでしまうような汚れた私たちでした。しかし、顔と顔とを合わせるだけでなく「お父ちゃん」と親しく呼べる交わりをいただいたことは、なんと大きな恵みでしょうか。受けるに値しない者に、ここまでの親しい関係と交わりを主はくださったのです。16節にあるように、御霊がそれを証ししてくださるのです。 

16 御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。 

 さらに、神様を親しく「アバ、父」と呼べるだけに留まらず、神様というあらゆる物をお持ちのお方から、相続できる資格まで受けるのです。

17 子どもであるなら、相続人でもあります。私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。 

 イエス・キリストが長男だとするならば、私たちはその弟、妹です。でも、神様から、このような共同相続人という立場までいただき、「わたしのものはお前たちのものだ」と言っていただけるほどの関係です。神様のものを何でも求めることができるのです。礼拝でも教えられたように、父のみこころにかなうものであれば、何でも求めて祈ることができ、父もまた与えてくださるのです。イエス様は、ご自身についての信仰告白を表明したペテロに、次のようにおっしゃいました。マタイ16:19にこうあります。

「わたしはあなたに天の御国の鍵を与えます。あなたが地上でつなぐ(禁じる)ことは天においてもつながれ、あなたが地上で解く(許可する)ことは天においても解かれます。」 

キリストを信じる教会に、イエス様が天の御国の鍵を与えていると言います。その意味は、この地上でキリスト者はなすことは、天に直結しているのだということです。この地上に歩みながらも、キリスト者は天的な働きができるという特権です。とんでもない力、とんでもない権威が私たちには与えられているのです。それだけの特権があるからこそ、また、それを正しく用いる責任も与えられているのです。「相続人」となる場合、相続する権利があると同時に、相続に関連する様々な義務や責任も発生しますよね。それだけのものを受け継ぐのですから。神の国の相続人であるならば、キリストと一緒に神の国を保持、管理していく者とされているのです。

ローマ書8に戻ります。17節では、「栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから」と語られていました。終わりの時には、イエス様と一緒に栄光をともに受ける私たちです。しかし、栄光を受けるためには、苦難を通る必要があることを聖書は確かに語っています。イエス様は十字架の苦しみを耐え忍ばれたので、復活の栄光をお受けになったのです。約束のものを受けるのに必要なものは「忍耐」ですとも、ヘブル書で語られています。

 私たちには、神様を「アバ、父」と呼べるほど親しい親子の交わりをくださった御霊が与えられています。それは本当に幸いな特権です。それと同時に、その力を受けている以上、そこに生きる義務と責任があるとも教えられました。それを持たない人々を導く使命があると言っても良いでしょう。そこには苦難もあります。その苦難を通ることもまた、私たちへの神様からの召しなのです。しかし、その苦難の先には、神の子どもたちのために用意された栄光が約束されているのです。



引用元聖書
<聖書 新改訳2017
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