あなたは、ほかの神を拝んではならない。主は、その名がねたみであり、ねたみの神であるから。(出エジ34:14)
ご自分を「ねたみの神」だとおっしゃる神が他にいるでしょうか。ねたむほどに人を深く愛し、よそ見をしないように「わたしだけを見よ」と語りかける神が他にいるでしょうか。
「どの神を拝んでもいいよ」という発想は、一見すると気前良く見えます。何でも自由に許可される事が一見幸せに見えるように・・・。
しかし、私たちは無関心、放任主義の相手からは本物の愛を感じられないのではないでしょうか。深く愛しているからこそ、その愛が踏みにじられた時に、深く傷つき悲しむのです。
主は、あなたを深く愛しておられ、興味、関心を持ち続けているので、心が離れていることが悲しくて仕方がないのです。それほどに情熱をもって、親しく関わりたいという神のご性質を現わすために、あえてこの表現が用いられています(擬人法)。
人に伝わる表現を用いて、神がこれをお伝えになることこそ、私たちに対する強い関心の現れではないでしょうか。人の成功をうらやむ「ねたみ」とはかけ離れた、深い愛の情熱を現わす「ねたみ」なのです。
神のねたみとは、まさに真実な愛に人を留まらせるための「優しさ」でもあります。
(2019年8月18日 週報掲載)