*** 2/11(水)祈祷会 説教概略 ***
私たちの信仰は瞬間的な出来事ではなく、継続的なものです。常に成長していくものです。この地上での日々において、与えられた「まことのいのち」をより豊かにされ、より輝くものとされ、主の栄光を現わしていく器となることを神様は願っておられます。この信仰の成長のことを「聖化」と言います。義とされた者が、聖霊によって少しずつ変えられ、キリストの姿に向かって成熟していくことです。新約聖書の時代、霊的に熱く燃え、成熟しているクリスチャンとして誰がいるでしょうか。パウロの名前が挙がるでしょう。
このパウロという人物は、救われて使徒とされて以来、誰よりも成長し、熱心に宣教に励み、多くの人々を救いに導き、教会を生み出した人です。知識も実績も豊富。非常に尊敬を受けていた人物でした。けれども彼は、12節でこのように語るのです。
12節
私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。
重鎮、大御所と呼ばれるような立場になっていきますと、大抵はプライドが高くなります。自らの業績を誇り高ぶりがちでしょう。しかし、パウロは自分を、クリスチャンの完成形とは全く考えていないと言います。むしろ、未熟で不完全な者であると言います。だから霊的な成長を目指す探求者だと自分を位置付けているのです。
なぜなら、パウロはそのために自分は召されたと理解しているからです。成長してキリストに似た者となって、この福音を世界に広める者となるためです。そのために、「キリスト・イエスが私を捕らえてくださった」と告白します。
自分で得たのではありません。キリストがどうしようもなく罪深い彼を、愛のうちに捕らえてくださったのでした。ヨハネの手紙4章にも、私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛してくださったとありますよね。私たちがここに置かれているのは、ただ主の愛のゆえなのです。誇れるものはありません。
特にパウロは、それを強く実感した人です。元々は迫害する者でしたが、ダマスコの途上で盲目にされ、歩けなくなり、無力な自分とされました。人の手に引かれてようやく町へ入りました。そして、主こそが彼の目を開かれたのです。その時、彼の目からウロコのようなものが落ちました(有名な諺ですね)。彼は神によらなければ、自分が盲目な者だと知ったのです。自分で分かったつもりで突っ走っていた時、彼は明確にしくじったのです。自分の正義感に酔いしれていた時、とんでもない間違いを犯したのです。神様から目のウロコを取ってもらわなければ、物事を正しく見ることさえできないと知ったのです。だから、どんなに用いられて尊敬されても、彼は謙虚さを失いません。今より少しでも成長したい、一歩でもイエス様に近づきたいと願うのです。私たちはどうでしょうか。
続く13-14節にこうあります。
13節 兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、14節 キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。
13節にあるように、パウロは「自分がすでに捕らえた」などと考えてはいないのです。それで、ただ一つのこと、神様からいただける賞を目指して、一心に目標に向かって走っています。その目標とは、イエス・キリストです。霊的に成熟していきキリストのようになることです。私たちはイエス様の弟、妹という立場です。長男である主イエスの姿を目指して歩むよう召されたのです。
また、ここでは「うしろのものを忘れ」と語られています。それは、どういうことでしょうか。端的に言えば、霊的な成長を妨げるものを手放すことです。「余計な過去に縛られるな」ということです。過去の罪や失敗にいつまでも囚われない事です。また逆に過去の栄光にもすがらない事です。ただ主のみこころに集中して、前に進むのだという事です。過去に囚われ、今日与えられている、新しい恵みを見逃すなんてもったいないからです!
カトリックの修道士ラウレンシオは、過去の神による奇跡的な経験さえ、自分の誘惑になる、妨げになると言いました。神様ご自身ではなく、その経験にすがってしまうからだと。だから、それらを忘れて、今、ここにおられる主をただ愛したいと告白します。
パウロは、すべてのクリスチャンが同じような成熟した考えを持ってて欲しいと訴えます。
15節 ですから、大人である人はみな、このように考えましょう。もしも、あなたがたが何か違う考え方をしているなら、そのことも神があなたがたに明らかにしてくださいます。
「大人」というのは、信仰的に成熟した人のことです。真に成熟したクリスチャンは「自分は悟った、もう立派だ」という幼い考えをしないということです。既に得たとか、完成したと考えず、一心不乱に主を求めるのです。みことばを求め、より豊かな人柄のクリスチャンを目指していくことです。ただし、自分の成長を認めてあげることも大切なことです。16節にこう語られていますね。
16節 ただし、私たちは到達したところを基準にして進むべきです。
いつまでたっても自分は成長せず、変わらずダメだなと思うことも良くありません。なぜなら、キリストにあるならば、必ずあなたは変えられているからです。成長しているはずだからです。神様にできないはずがありません。いつまでもゼロなのではないのです。成長している自分も、ちゃんと認めてあげましょう!そして主に感謝しましょう!自分で気づかない時は、兄姉たちのことばに耳を傾けてください。私たちは成長を認め合い、励まし合うことも大事にしたいのです。そうして、育ててくださった主をともに賛美すれば良いのです。主にある成長は、神様の偉大さを証しするからです。自分の成長を健全に受け止め、「こんな者でも一歩、また一歩成長させていただいている!主よ、感謝します!」と、感謝できる者でありたいのです。
主は今日も私たちにお語りになっています。「ただキリストの姿を目指して一心に走りなさい」と。しかし、イエス様からは程遠い自分に、ガッカリすることも多いのが私たちです。よく後悔もします。反省もします。だからこそ、まだまだ成長したいのです。何歳であっても、キリストにあるのならば成長期です!!私もまだまだ成長期です。発展途上です。もっと成長したい。私と話せば、その人が神様を信じたくなってしまうような、そんな魅力ある者になりたい。悩む人、苦しむ人が私とともに過ごしたなら、慰められ、励ましを受け、希望を見出せるような者になりたいのです。
そして私たちは、みことばが示すように、キリストのからだです。共同体です。みことばが示すように、一緒に成長していこうではありませんか。私は今、サンライズ・イキイキプロジェクトの一環として、「一緒に成長する」というテーマを次年度のために示されています。ガラテヤ書6章2節に、こうあります。「互いの重荷を負い合いなさい。そうれすれば、キリストの律法を成就することになります」。キリストの律法の核心は愛です。
愛を実践して、実際に互いに重荷を負い合い、一緒に主の愛を実らせていく群れとなりましょう。
