*** 2/4(水)祈祷会 説教概略 ***
今日のところはパウロのBefore&Afterが証しされています。それを通して、いかにキリストによる救いが素晴らしいものであるか、尊く価値あるものであるかを改めて教えられます。パウロはこの直前のでは、肉によらず御霊によって歩むことを教えていました。肉によって見た目をよくする歩みを批判し、外ではなく内なる割礼をこそ大事にせよと教えていました。
しかし、それはなぜかと言うと、実は彼自身が誰よりも人間的な力、肉の力に頼って歩んで来た事実があり、それが間違いであったと知ったからなのです。その結果、神様や人々を悲しませて来てしまったからなのです。その悲しませてしまった人間的なものを誇りにする歩みについて、彼は4-6節で自分の過去を振り返りつつ話しています。
この4-6節では、バリバリのユダヤ主義者、パリサイ派として歩んで来た時の自分を紹介しています。
4節 ただし、私には、肉においても頼れるところがあります。ほかのだれかが肉に頼れると思うなら、私はそれ以上です。
5節 私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエル民族、ベニヤミン部族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法についてはパリサイ人、
6節 その熱心については教会を迫害したほどであり、律法による義については非難されるところがない者でした。
彼は律法に従って生まれて八日目には割礼を受けました。そして、彼はヘブル人の中でも「ベニヤミン族」であることを誇っていました。ベニヤミン族は、ある種のエリート部族。あのイスラエルの初代の王サウルを排出した民族です。しかもパウロの元々の名前は「サウロ」でした。それはあのサウル王にあやかった名前でしょう。
さらに、「ヘブル人の中のヘブル人」と名乗ります。それは血縁上だけのことではなく、ヘブル語を話せる生粋のヘブル人だという意味です。この当時、ギリシヤ文化に置かれる中で、母国語であるヘブル語を話せないヘブル人も一定割合いたからです。そして彼は、律法をとことん重んじるパリサイ派でした。非難されるところがない程だと律法に生きてきたと紹介しました。つまり、パウロは、他のどんな人にも負けないぐらい人間的なものを頼みにしてきたと自分を紹介するのです。そして、それが正しく価値あるものだと思い込んで来たが、全くそうではなかったのだと、証ししているのです。7節。
7節 しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。
なんということでしょうか。キリストを知って価値観が逆転してしまったのです。これまでは「得したな~、自分の自慢だな~」と思っていたことが、キリストを知った時には、かえって妨げになるぐらいに思えたのです。キリストを知ったということは、このような劇的な価値観の逆転が起こるほど大きなことなのです。8-9節にもこうあります。
8節 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。それは、私がキリストを得て、
9節 キリストにある者と認められるようになるためです。私は律法による自分の義ではなく、キリストを信じることによる義、すなわち、信仰に基づいて神から与えられる義を持つのです。
パウロはキリストを信じるようになりました。自分の正しい行いで義となろうと歩んできました。でも彼は、それが結果的に神に反対する罪深い歩みであったことに気づかされたのです。そうして、行によらず、恵みによって義とされる道を歩み始めました。キリストの十字架の恵を知り、信仰によって義と認められる道を歩み始めたのです。
8節には「ちりあくた」ということばもありました。「ちりあくた」と訳されていることばは、不要なだけでなく、全く価値のないものを指す言葉です。彼はイエス様を信じてクリスチャンになった時、色々なものを失いました。多くのユダヤ人たちからの尊敬を失いました。名誉を失いました。経済的な保証や約束された地位や立場をも失ったでしょう。ところが、キリストを知った恵みと比べたら、それらは「ちりあくた」だと思うほどだった。救いの嬉しさ、その喜び、その幸い、その永遠性、そこにある恵みを得た時、失ったこれらのものは全くもって価値のない不要なものであると知ったのです。
まさに「キリストにはかえられません」という有名な賛美の歌詞の通りです。世の宝・富、名声、美しいものさえ・・・キリストには変えられないのです。
戦国時代、日本に宣教師としてやって来たフランシスコ・ザビエルは、早くに両親を失いましたが、とても優秀で聖職者としての出世街道を歩んでいました。彼は哲学と神学を学び、やがてパリ大学で教鞭を執りはじめました。こうして高位聖職者(ハイプリースト)への道を歩んでいたのです。ところが、彼の価値観を大きく変える出会いがありました。それが、イグナシオ・デ・ロヨラとの出会いでした。出世志向の強かったザビエルでしたが、極貧においても主に仕える喜びに生きるロヨラに大きな影響を受けたのです。形ばかりの聖職者ではなく、本気でキリストに仕えることについて問われていくのです。特に、ロヨラが普段から口ぐせのように語っていたみことばが、ザビエルの心を打ちました。
マタイ16章26節 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。
この世の成功、富、知識、名声、たとえそれらをたくさん得ていたとしても、まことのいのちを損じたら、一体何になるのか。それほどに、キリストにあるこのまことのいのちは尊く、何にも代えがたいのです。これを失ったら、この世のあらゆるものを得ても、何の意味もないほどです。ザビエルは、このみことばに示されて、ほぼ手中にしていた高い地位と名誉を捨てて、本当の意味で主に奉仕する者として献身していく決意をしたのです。
パウロはキリストの価値を、そこにあるいのちと救いの価値を知ったのです。だから彼は、キリストを信じるゆえの苦しみが激しくとも、迫害を受けることがあっても、ここに生きると決めました。むしろ、自分自身がキリストの死と復活と一つにされる道に献身したいと祈り求めているのです。それほどにこの宝が朽ちない尊いものだからです。
10節 私は、キリストとその復活の力を知り、キリストの苦難にもあずかって、キリストの死と同じ状態になり、11節 何とかして死者の中からの復活に達したいのです。 ここ
この世でも、一見大成功を納めているかのように見える人々がいます。たくさんの財産を得、地位や名声、人々の賞賛を受けている人々がいます。しかし、まことのいのちを知らない。主の十字架を知らない。その愛も恵みも赦しもあわれみも知らない。天の希望も知らない。その人は本当に幸せなのでしょうか。
最後にヘブル11章24-26節のみことばを味わいましょう。
ヘブル11:24-26 24節 信仰によって、モーセは成人したときに、ファラオの娘の息子と呼ばれることを拒み、25節 はかない罪の楽しみにふけるよりも、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。26節 彼は、キリストのゆえに受ける辱めを、エジプトの宝にまさる大きな富と考えました。それは、与えられる報いから目を離さなかったからでした。
モーセはエジプトの王族でした。多くの富がありました。好きなことも出来たでしょう。贅沢ができ、快楽を楽しめたでしょう。しかし、モーセはそれらのものよりも、キリストのゆえに受ける苦しみ、辱めの方が価値があると考えたのです。それは信仰によることでした。それらがいつまでも残る宝であったからです。
私たちも肉に生きるのではなく、この世の価値観に歩まず、キリストのいのちに歩んで参りましょう。