1日(月)Ⅰコリント1章1-9節
コリントの教会は賜物の豊かな教会だった。知識のある優秀な者が多い都市であった。一方で、信仰が世俗化していたという問題があったことも否めない。そのような状況にある教会に対しても、パウロは感謝を伝えている。その感謝の理由は、神から来るものだった。4節にあるように、「神の恵みのゆえに」彼らのことを感謝していたのだ。私たちも、その人のゆえにではなく、神の恵みのゆえに、その人を感謝する者になりたい!人間的には感謝しにくい時であっても、神の恵みを見る時に感謝し得るのだから、キリスト者は不思議である。様々な知識やことばの巧みさが、コリント教会の課題になっていたとしても、本来それ自体は主からのすばらしい賜物である。だから、パウロは主を見て喜んでいた。そして、彼らの存在を感謝しつつ、彼らの間違いを正そうとする愛がそこにあった。問題だけを責めてもほとんどの場合良くはならない。存在を心から感謝する愛から始まり、彼らの幸いを心から願う愛に満たされていることが必要不可欠である。誰かの問題を指摘するとき、そこに愛はあるだろうか。その人の幸いを願う愛はあるだろうか。
2日(火)Ⅰコリント1章10-12節
コリントの兄弟たちの間に「争いがある」と、パウロはクロエの家の人々から聞かされていた(11)。彼らはパウロのつく、アポロにつく、ケファにつく、キリストにつく・・・と、割れていたようだ(12)。キリストと、その弟子である彼らを同列扱う時点で、何もわかっていないし、非常に人間的な発想になっているとわかる。だが、人間がとても陥りやすい罠ではないだろうか。強い人、有能な人、守ってくれそうな人、人気な人、そういうリーダーのもとにいることで、自分もそのような者になれた気になったり、その恩恵を受けられると思ってすり寄ってしまう。そのような面はないだろうか。これをしてしまうので、しばしば私たちは、キリスト者でありながら、互いに足を引っ張り合ってしまうのではないだろうか?私たちの真の一致は一つしかない。全員がキリスト派になることだ。全員がキリストのことばに従い、キリストだけに栄光を記することではないか!
3日(水)Ⅰコリント1章13-17節
○○先生の教会という言い方をしばしば耳にする。深い意味はないのかも知れない。だが、やはり「キリストの教会」であることをいつも大切にしたい。13節では「パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか」と問われている。また、パウロの名によるバプテスマでもないのだ。むしろ、パウロはわずか数人にしかバプテスマを授けていないことを感謝していると敢えて言っている。パウロを通して救われたとしても、「パウロの名によってバプテスマを受けた」と言えないことを感謝しているのだ。パウロの願いは、キリストの名が広められることだ。自分の名ではない。私たちも気をつけよう。つい自分の名を宣伝したくなるのだが、キリストの御名だけが広がり、あがめられるように!
4日(木)Ⅰコリ1章18-24節
十字架のことばは、滅びる者(この世の者)には愚かに見える(18)。当然である。いったい誰が、十字架でみすぼらしく死んだあの人を、自分たちを滅びから救う「救い主」であると思えるだろうか。多くの人は、救世主をイメージする時、強い力ある英雄を期待するだろう。人間的な観点からは、愚かしく見えるのだ。だが、人の期待するものと、神の計画は全く異なるのだ。神は、むしろ、この世の知恵を愚かなものにされた(20)。そして、自分の知恵によっては、神を知りえないようにされた(21)。もし、人間の賢さや能力で救いを得るのであれば、それほど不公平なことはないだろう。優秀な人だけの救いになる。また、人間は自分の力を誇ることだろう。だが、神はそうされなかった。宣教のことばの愚かさによる救いとなさったのだ。つまり「神の子が十字架の苦難を通って、人を救うという不思議な救いのみわざ」によるのだ。不公平にならず、また人が自分を誇らないために、神はそうなさった。行によるのではない。ただ信じるだけ。だから子どもも、弱い人も、誰でも得られる救いなのだ。
5日(金)Ⅰコリ1章25節
「神の愚かさは人の賢さよりも賢く、神の弱さは人よりも強い」と語られている。実際は神に愚かさなど少しもないし、神に弱さなど存在しない。だが、もし仮にそれがあったとしても・・・ 神の愚かさは、人の賢さよりはるかに上なのだということ。また、仮に神に弱さがあったとしても、それは地上最強の人の強さよりもずっと強い。神と人との圧倒的な隔たり、埋めることのできないギャップを現わしている。だから、本当は人間がどれだけ頭をひねって考えても、神のみこころのごく一部さえも悟ることはできないのだ。それでも、人は分かったつもりになり、それを基にして神に反論し、あるいは神のようになって人をさばく。人の目に十字架が愚かに見えるのは、人が愚かだからに過ぎない。だから、神の御霊の知恵をいただいた時に初めて、十字架の価値が正しくわかるのだ。神によって十字架も救いも理解する者とならせていただこう!!
6日(土)Ⅰコリ1章26-31節
救われて教会に集うようになった者は、人間的な視点で見ると必ずしも知者は多くはなく、身分の高い者も多くはない。むしろ、27節によれば、神はこの世的には愚かな者、弱い者を選ばれている。それは、人が自分の知恵や力を誇っている者を恥じ入らせるためである。また、28節によれば、有るものを無いものとするため、この世の取るに足りない者を神は選ばれたのだと。それは、人間たちが神の御前で、誰も自分や自分の力を誇ることがないようにするためであった(29)。教会は、神の恵みに生かされる者たちが集まるところだ。むしろ、無力な弱かった者が、豊かにされて活躍していく時に、神の知恵や力が現わされ、神の栄光が人々に見えるようになる。弱い者、無知な者こそ、神を現わすことができるのだ!!だから、私たちはむしろ自分の弱さを誇ろう。なぜなら、それだけ素晴らしい主を人々に見せることができるのだから!「誇る者は主を誇れ」と書いてある通りである(31)。
7日(日)Ⅰコリ2章1-5節
コリントの兄弟たちのところに行ったときに、パウロは「すぐれたことばや知恵」を用いて、神の奥義を宣べ伝えるということをしなかった(1)。実は、コリントという地域は、非常に商業も文化も進んでいて、難しい言葉を操る優秀な人々が多かった地である。だが、パウロはあえて、その難しい高尚な議論を避けたのであった。人の知恵によらない、ただ神の恵みによる救いであるからだ。だから、2節にあるように、パウロとしては、彼らの間では十字架のキリスト以外知らない無知な者であろうとしたのだ。そう決心していたのだ。「あなたがたの間」とあるように、コリントの兄弟たちの状況を踏まえた判断であったとわかる。そのときのパウロは、弱く恐れおののいていたようだ。それでいいと彼は考えて臨んだのだろう。だから、パウロの宣教は、知恵のことばによらず、御霊と御力の現れによってなされた!(4)。だから、救われる人もまた、人の知恵によらず、神の力の現によるのであった(5)。私たちの宣教もこれでいい。いや、これがいい!神の力によって!これを大事にしよう!
8日(月)Ⅰコリ2章6-8節
ここでパウロは、「成熟した人たち」の間では知恵を語ると述べている。この知恵とは、この世の知恵ではなく、神の奥義のうちに隠された真の知恵のことである。この奥義とは「ミステーリオン」ということばで、ここから現代の「ミステリー」ということばが生まれている。その意味は、ベールに包まれた神秘であって、神を信じた者だけに開かれる神秘の扉である。キリストを信じた者は、御霊の注ぎを受けることで、信仰の目が開かれる。その霊的に開かれた目によって初めて、神の奥義がわかるようにされていくのだ!御霊によらなければ、悟れない、見えてこない真の知恵だ。この世の知恵者、権力者の誰も、その人間的な力によってはこの奥義を知ることはできない!キリストにある者にしか見えない真理・・・それを知った私たちだからこそ、伝えていくことができる恵みがあることを覚えよう。
9日(火)Ⅰコリ2章9-13節
人の世界だけでは分からない霊的な知識。それを神は、キリストを信じた者に御霊によって啓示してくださった(10)。御霊はすべての真理を我らに教えてくれる。「神の深み」さえも探って、私たちの心に知らせてくれるのだ。神のことは人の努力では、どうやっても探り極められない。だが、御霊はそれをさせてくださる。なんという恩恵だろうか!他の人の心は、その人自身の心や霊しかわからないように、神の心は神の霊しかわからない(11)。だから、神はご自身のうちにある「霊」、つまり「御霊」を、人に分け与えてくださった。私たちはこの世を理解するための、この世の霊ではなく、神を理解するための「神の霊」をいただいたのだ(12)。それを語ろうとする際には、御霊によることばも与えられてる。私たちはキリストの御霊に頼る時、今まで見たこともないような景色を見ることができる。神のみこころに沿って、この世界を見ることができるのだ。なんと幸いなことだろうか!
10日(水)Ⅰコリ2章14-16節
生まれながらの人間、つまり主キリストを信じていないままの人は、神の御霊に属することを受け入れることができない。神の御霊の存在を信じることも、その存在にゆだねることもできないのであるから、当然だ。御霊のことは、御霊によらなければ分からないのである。一方で、15節にあるように、御霊を受けた者は「すべてのことを判断する(わきまえる)」ことができる。そして、御霊の人は、御霊を持たないどのような人からも判断され、ジャッジされることはあり得ないのである。なぜなら、御霊を持たない人に、御霊の働きを正しく見極めることができないからである。その点からも、人々の評価は、恐れるに足りないと言える。それゆえ、主の心を知るためには、「キリストの心」である御霊に満たされることが必要である(16)。だから、いつでもキリストの心に聞こう!この世の心で歩まないで、キリストの心(御霊)によって、この世界を見つめ、主が喜ばれることをしよう!
11日(木)Ⅰコリ3章1-3節
パウロはここで、少し挑発的に語っている。あなたがたは肉に属する赤ちゃんだ。御霊に属する人に対してするようには語れない。だから、あなたがたには乳を飲ませ、固い食べ物はまだ与えていないのだと言うのである。それに対して反論する人々もきっといただろう。しかし、パウロはこう語るのである。「あなたがたの間にはねたみや争いがあるのですから、あなたがたは肉の人であり、ただの人」なのだと(3)。私たちは「御霊の人」であろうか。それともまだ、「肉の人」のままであろうか。主イエスを信じても、みことばに従わず、御霊にゆだねることをしないのなら、肉の人のままであろう。そのような批判が的外れとなるように、私たちはしっかりとみことばに生きよう。肉ではなく、御霊に生きる者とならせていただこう!!
12日(金)Ⅰコリ3章4-9節
肉に属する人は、教会の中に歩んでいても、世的な価値観でしか行動できない。だから「私はパウロにつく」とか「私はアポロに」という、派閥意識が生まれる。それではこの世の人と何ら変わらない。アポロもパウロも「奉仕者」に過ぎず、主が命じられたことをしているしもべに過ぎないのです(5)。パウロが植えて、アポロが水を注いだとある。植物を育てる際のイメージだ。植えること、水をやることは人にできる。むしろ、その程度しかできない。実際に成長させてくださるのは神ご自身なのである。パウロやアポロは少しも偉大ではない。ただ、神に命じられたままに仕える小さなしもべである。彼らが心から仕えた神にこそ、私たち全員は仕えるべきなのである。私たちは神の導きのもとで、ともに働く同労者である。競争し合う相手ではない。同じ主に仕える仲間であることを覚えたい。偉大なお方は神おひとりである。
13日(土)Ⅰコリ3章10-11節
賢い建築家は、見える外観よりも、見えない部分に当たる「土台」「基礎」の部分を大事にする。パウロはその原則に従い、クリスチャンの土台を重要視していることがわかる。土台は決して目立たない部分である。だが、パウロはその目立たない地味な働きを怠らず、自分は目立つ必要がないとも考えた。その土台はパウロの教えではなく、イエス・キリストである。パウロはただ、キリストの教えを彼らの土台とした。そこは決してブレてはいけなかった。立派で有名な教師が土台になってはいけない。カリキュラムでもない。ただ、キリストだけが信仰の土台である。人々が様々な教えをして、家を建てて行くにしても、この土台を大事に、明確に、しっかり建てることを私たちも大事にしよう。この土台を据え変えることはしてはならない!!あなたの信仰の土台もいつでもキリストである。そして、他の人を導く際にも、「あなたの弟子」にするのではなく、「キリストの弟子」を生むのだということを決して忘れてはならない!!
14日(日)Ⅰコリ3章12-15節
キリストという土台の上に、私たちは様々な家を建てる。その働きが本物かどうか、良いものであったかどうかは、「その日」がくれば明らかになる(13)。その日は、火ともに現れ、この火によって働きの実が試される。それが神の御霊による本物の働きであれば、それはこの火に耐えて残る。そして、その報いを神から受け取る(14)。だが、焼かれてなくなってしまうなら、それは人間的なもの、世的なものであったと言うことだろう。私たちは、いつまでも残る働きをしたい!だから、神のみことばに聞き、自分の栄光のためにではなく、神の栄光のために歩もう。この世の富のためにではなく、天に宝を積む歩みを大事にして行こう。一度きりの人生なのだから、むなしい消えていくようなものに生きるのはやめよう。残るもののために、あなたの大切な時間と労力をささげよう!
15日(月)Ⅰコリ3章16-17節
あなたがたは御霊が住む「神の宮」であると語られている。アナタは自分が神の宮であるという自覚を持っているだろうか。それは聖なる宮である。それゆえに、私たちは自分を大切にする必要があり、神の宮を汚したり、痛めつけたりしてはならないのだ。そしてまた、神の聖なる宮であるのだから、誰かがそれを傷つけたり、破壊したりしようものなら、「神がその人を滅ぼされます」とあるように、神ご自身がその者をお怒りになり、さばかれるのだ(17)。このことを忘れないで、主の御前に自分を大切にしていこう。
16日(火)Ⅰコリ3章18-21節
この世の知恵は、神の前では愚かにされている。人が自分は賢いと思い込むほどに、かえって神のことが分からなくなる。また、自分の知恵に頼ることは「空しく」、計画通りにいかずに大きなしくじりへとつながる(20)。不思議である。だが、それこそが神の知恵なのだと繰り返し教えられている。だから、本当の意味で賢い知恵ある者となるためには、神を知ることから始める必要がある。世界の造り主の知恵を得ることなしに、賢者になることはできないからである。そして、神からの知恵で賢くされる者の最高の利点は、自分を誇らないで済むということである(21)。神が与えてくださっていることへの感謝、それゆえの謙遜というすばらしい知恵が、アナタを守ってくれることになる!
17日(水)Ⅰコリ3章22-23節
私はパウロ派、あの人はアポロ派、彼はペテロ派。そのような派閥的な考えは人が勝手に作り、思い込んで分けているだけである。彼らは全員、キリストのものであり、神のものである。地球にあるすべてのもの、いのちも、死も、現在あるものも、将来のものも、すべてはキリストのもの、神のものである。宇宙から地球を見た際に、国境は見えない。そのような線はなく、ただそこには青い地球が一つあるだけである。これらはすべて、神が人に賜った尊いものであり、キリストを信じる者は神のものである。イチイチ勝手に区切って、分けて、奪い合うのは本来ナンセンスなのかも知れない。すべては神のものであることを、いつも意識して生きるとき、避けられる争いばかりなのではないだろうか?
18日(木)Ⅰコリ4章1-5節
クリスチャンは、「キリストのしもべ」であり、「神の奥義の管理者」だと考えるべきだと教えられている(1)。そして、「管理者」に求められることは忠実だと認められることである(2)。この「しもべ」ということばの意味は、命じた主人に対して何ら口答えもせず、ただそれを忠実に遂行する人を指す。キリストの命令に対して忠実な者である。だから、キリストに従うことに全神経を注いでいたので、人からのさばきは非常に小さなことだったのだ(3)。パウロはただ、神のさばきの前に、自分はどうであるかを大切にしていたのだ。5節で彼が言うのは、誰もが主のさばきを意識して生きるべきだということである。先走って人がさばいても、それは盲目な者が下す間違ったさばきになるからだ。「心の中のはかりごとも明らかにされる神」のみが、真に正しいさばきをくだすのだ。私たちも安易に人をさばかず、神のさばきの前に自分がどのような者であるかをしっかり受け止めよう。神に対して忠実な管理者であるかどうか。この点をいつも問われているのだ。
19日(金)Ⅰコリ4章6-8節
パウロは主張する。「書かれていることを越えない」ようにすることを学ぶようにと(5)。聖書に書かれていることを、自分たちの思い上がりのゆえに、越えないようにせよと。それは聖書の教えの枠から踏み外さないようにということだ。特にここは、自分の人間的な判断を一番にし、人を平気でさばいてしまう「思い上がり」を問題にしている。7節には、「アナタを人よりすぐれていると認めているのは誰か」という問いがある。答えは自分である。誰もそう言っていないが、自分を上の位置に置きたいのだ。だが、私たちは誰もが、多くの人から「もらい」、そして「支えられている」のだ。親から、友人から、先生から、多くを教えられ、与えられてきたはずである。パウロは8節で、これについて皮肉を語る。アナタがたはもう勝手に王様になっていると(もちろん、思い上がりで王になっており、真の王ではないのだが・・・)。偽りの王である。私たちはむしろ、真の王イエスとともに、世界を正しく健全に導く王たちとなるべきである。そのためにも、聖書を正しく理解し、謙虚に歩もう!
20日(土)Ⅰコリ4章9-13節
アナタたちはもう王になっていると皮肉を言ったパウロ。彼は自分たち使徒は、それとはまるで対照的で、「死罪に決まった者のよう」であり、世界に対して「見せ物」になっていると語る(9)。また、キリストを伝えるために「愚かな者」となり、「弱い」存在となり、「卑しめられ」てもいる。その後も、とにかくひどい扱いを受け、それでも耐え忍び、優しいことばをかけ、この世の屑やかすのように生きていると語る。自分たちを高くするコリントの人々とはまるで違う生き様であると言える。もちろん、私たちはそのような存在にならなければならないわけではない。だが、自分で自分を高くする生き方とは決別する必要がある。強い者におもねるような歩みをやめる必要がある。なぜなら、私たちは「キリストの弟子」であるからだ。私たちは自分で自分を高めない。ただ主に従い、神が私たちを必要に応じて高くされることに任せるのだ。それでいい。それがいい。
21日(日)Ⅰコリ4章14-21節
パウロは読者たちに恥をかかせる目的ではなく、愛する子として諭したいとの願いで書いている(14)。パウロは読者たちを愛する我が子と思い、自分に倣って欲しいと語る(15-16)。それを伝えるためにテモテを遣わしたのだった(17)。しかし、テモテを若造だと見て軽んじる人々も多くいたようだ(18)。それゆえパウロは、あえて強い口調で語っている。「主のみこころであれば、すぐにでもあなたがたのところに行きます」、「ことばではなく力を見せてもらいましょう」と挑戦的に語るのだ(19)。なぜならば、神の国は口先の話ではなく、力ある実りによって示すものであるからだ。パウロは愛する我が子だからこそ、読者たちに厳しい愛のむちも加える。だが、そんなことをしないで済むように、彼らが主にあって変えられ、神のみこころにかなう歩みへ導かれるよう切に願っているのだ。私たちも主によって立てられた人材を軽んじてはならない。その教えを軽んじてはならない。神がその人を通して語っておられることを、神の権威のもとで受け入れ、みことばに従おう!
22日(月)Ⅰコリ5章1-5節
コリントの兄姉たちは、知識があり、弁は立つ者たちが多くいた。しかし、パウロのもとには、彼らの中には、性的に非常に乱れた関係を継続している者がいた。自分の父の妻(おそらく血の繋がらない後妻)を自分の妻としているような行為が見逃されていたのだ(1)。問題はそれを誰も注意していないことだろう。真剣に悔い改めに導かないことであった。パウロは、そうした罪の問題ときちんと対峙すべきであると教えているのだ。パウロの願い、それは神の思いでもあるのだが、今、罪について厳しく指摘することで、最終的な主の日には「彼の霊が救われるため」であった。もしかしたら、コリントでは罪に慣れてしまい、また互いに無関心でいい加減な信仰生活が横行していたのかも知れない。私たちも神の前にまっすぐに立ち、互いに愛し合うゆえに、過ちから立ち返れるよう交わりをきよく保っていこう。人の救いや幸いについて、無関心になってはいけない。
23日(火)Ⅰコリ5章6-8節
コリント教会の交わりの中で、罪深い生活をそのまま放置している現状があった。それは聖さを求めない姿であったが、それでも彼らは自分たちを誇り高慢になっていたようだ(6)。それでパウロは「わずかなパン種」が、こねた粉全体を大きくふくらませるという例話を用いて、罪を取り除く姿勢を教えている。種なしパンの祝いを思い起こさせながら、古い良くないパン種を混ぜ込むことや、悪意と邪悪のパン種を用いてしまうことに警告をしているのだ(7-8)。私たちも、「これぐらいならいいだろう」という小さな悪や罪を放置しておくと、徐々に良心がマヒし、悪いことに慣れてしまうことに気をつけたい。ドラッグなども軽いものから始まるかも知れないが、やがて人生を滅ぼすような抜け出せないものにまで依存してしまう危険がある。神の聖さと純粋さを求め続けよう!
24日(水)Ⅰコリ5章9-13節
「前の手紙」で書いたとあるので、この第一の手紙より先に書かれた手紙が実際にはあったということである(9)。そこでは、性的に不道徳な歩みを続ける者、貪欲な者や人から奪い取るようなことをしている者、偶像礼拝を続ける者たちと付き合いをしないようにとの警告をしていたようである。ここでは、世の人々と「いっさい付き合うな」と言う意図ではない(10)。そうではなく、明確にクリスチャンとして歩んでいるにも関わらず、罪悪感も覚えずに平然とこうした罪を犯し続けている人たちのことである。誰もが罪人なので、誘惑に負けること、魔がさしてしまうことはあり得る。しかし、開き直ったり、それを正当化してはいけない。クリスチャンは、その交わりにおいて、お互いに聖く歩めるように励まし合い、時には注意し合い、そして祈り合って歩んで行くものである。愛があればこそ、互いに教え諭し合い、ともに罪を悔い改めて歩めるよう助け合おうではないか。
25日(木)Ⅰコリ6章1-3節
パウロはここで、教会の仲間同士の争いを、なぜこの世の正しくない人々に訴えるのかと問いかけます(1)。それは論理的におかしいことであるとパウロは考えたのだ。なぜならキリスト者は、やがてキリストとともに世界をさばき、治める側になるからである(2)。パウロはそれを、あなたがたは知らないのか?と問いかけている。そうであるならば、教会の中での様々な問題は、当然に自分たちでこそどうにかすべき「ごく小さな事件」なのである。いや、それどころか、クリスチャンはやがて御使いをもさばくようになるのだ(3)。なんと言うことだろうか。改めて読むと非常に大胆な、大いなることが語られている。私たちは、そのような者になると定められているのだ。今は、そのための訓練期間である。小さな事件をしっかりと聖書に従ってさばき治め、その先に世界をキリストとともに治める時が待っているのだ。
26日(金)Ⅰコリ6章4-7節
コリントの教会では、クリスチャン同士が争い、またそれをこの世の人のさばきに任せてしまうことを情けないと指摘している。「あなたがたを恥じ入らせるために」とあえてパウロは語っている(5)。兄弟が兄弟を告訴する、つまりクリスチャン同士が告訴し合うという内輪揉めである。しかも、それを信仰豊かなリーダーに頼まず、この世の人に頼むという有様であった。だが、パウロは言う。「そもそも、互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です」と(7)。私たちも日々問われている。クリスチャン同士がさばき合う姿、訴え合う姿は、未信の人々にどのように見られているだろうか。キリストの愛と赦しを知った者でありながら、甘んじて受け流すということが出来ない不寛容はないだろうか?
27日(土)Ⅰコリ6章8-11節
自分に対する他の人からの悪い行いさえも、甘んじて受け流す姿勢を奨励するパウロ。しかし、実際のコリント教会の現実では、8節にあるように「あなたがた自身が不正を行い、だまし取って」いたのだ。しかも、それを他の兄姉たちにしていたのである。教会において聖さも愛も真実も失われている嘆かわしい現実だった。パウロはそのような現実に対して、神のさばきの現実を突きつけている(9-10)。私たちは弱い。罪深い。誘惑に流され失敗をしてしまう。だからこそ、その問題を指摘し、神の聖さと聖なるさばきに目を向けられるように語ることは、守られるために大切である。立ち返るために大切である。私たちの大切な仲間が、そのような中に置かれている時、私たちは黙認ではなく、愛をもって神のみこころを示し、一緒に悔い改めていくものでありたい。
28日(日)Ⅰコリ6章12-13節
「すべてのことが私には許されている」とは、人間の自由を語るスローガンであり、当時流行ったもののようである。コリントの人々の中には、このスローガンを主張して、罪深いことを正当化して興じる者たちがいたのだろう。だが、パウロはそれに対してこう付け加えている。「だが、すべてが益になるわけではありません」と。だから、人の益にならないようなものに支配されるべきではないと彼は語っているのだ。また、13節では、今度は「食物は腹のためにあり、腹は食物のためにある」という暴飲暴食を正当化する彼らの主張を引用している。そして、パウロはこれにも反論を加える。それらは永遠ではなく、神はそのどちらをも滅ぼされるのだと。私たちには確かに自由が与えられている。だが、その自由を滅びに向かう罪のために用いるのか、永遠に残る神のみこころのために用いるのか・・・私たちはいつもその選択を問われている。このからだは、主が喜ばれる良い道、永遠に残るもののために用いるようにと主が造られたものである。
29日(月)Ⅰコリ6章14-20節
父なる神は、御子イエスを死からよみがえらせた。その死を打ち破る力、よみがえりの力によって、キリストを信じるすべての者をもよみがえらせてくださる(14)。主イエスを信じ、主イエスを心に持つ者は、キリストと一つにされているからだ。キリストにある永遠のいのちをも持つ者とされたのだ。それゆえ、15節にあるように「あなたがたのからだはキリストのからだの一部」なのである。だから、この聖なるからだを遊女と交わって、遊女のからだの一部にしてしまうようなことを避けるべきなのである。むしろ、17節にあるように主との交わりを保ち、主と一つの霊になる歩みをしていきたい。 もはや、私たちのからだではない。神からいただいた聖霊の住む宮、キリストのいのちという代価を払って買い取られた者なのだから、このからだをもって神の栄光を現していこう(20)。
30日(火)Ⅰコリ7章1-7節
結婚と独身についてパウロの勧めがなされている。パウロが伝えているのは、各人に与えられた神からの賜物があるということ、人それぞれの生き方があるということだ(7)。私たちは互いに比べやすい。結婚した人が優れているわけでも、独身を貫く人が優れていることもなく、それぞれ神の導きを求め、それに従っていくことが大切である。早いから良いとか、遅いから良いということでもない。神から示されたそれぞれの生き方に誇りを持っていこう。そして、結婚したのならば、3-5節にあるようにきちんと相手を大事にし、自分の権利、自分の主張ばかりをしていてはならない。つまり、結婚するにしても、独身で歩むにしても、自分のエゴで歩む道から離れ、神のみこころに従っていくことが重要なのである。どちらにせよ、その置かれた状況、環境の中で主のみこころを求めていくことこそ、神が喜ばれ、その人生が祝福を受ける道である。あなたはその道で、主のみこころに歩んでいるだろうか?
31日(水)Ⅰコリ7章8-11節
未婚の状態でいるゆえに自制できず、情欲に燃えてしまうぐらいなら結婚した方が良いと勧めている。「結婚に似た類のもの」でごまかすのではなく、正式に結婚しているゆえに、様々な誘惑から守られ、結婚が尊ばれることが主のみこころである。既に結婚している人々についても次のことを伝えている。10節で「命じるのは私ではなく主です」と断った上で、もし別れてしまった場合は、そのまま未婚を貫くか、別れた相手と和解するかのどちらかであると。その前提として、「夫は妻と離婚してはいけません」と語られている。「夫は」と言っているのは、男性優位の社会であったので、男性の一存で離婚を決められるケースが多かったゆえであろう。ただ、男女どちらにしても、神が引き合わせた大切な伴侶を、自分の判断で勝手に切り離してはいけないのである。気に入らなくなったら相手を切り捨てるのは、自分勝手な罪であり、それは神が定めた「結婚」ではない。結婚に模したもので、自分たちの欲を満たす言い訳やまがいものを作り出すことを私たちは慎む必要がある。それは、何よりも、私たちが幸せな家庭を築くための神の愛の教えなのである。
引用元聖書
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