*** 12/28(日)年末感謝礼拝 説教概略 ***
12月はクリスマスシーズンでもありますが、日本では「忘年会」シーズンでもあります。「忘年会」は、「皆で集まって飲食をし、一年の苦しみやマイナスな出来事などを忘れようとする会」です。何とか苦い思い出を忘れ、前向きに新しい一年を向かえたいという願望でしょう。ただ、私の経験上、深く傷ついた出来事ほど、蓋をして忘れることは難しいなと感じるのです。傷があるのに無かった事にすることは難しい。
では、どうすれば良いのでしょうか。やはり傷ついたのですから、「手当て」が必要なのです。慰め主なる神様はその手当をして下さるお方なのです。それによって、癒されていきますし、気が付いたらその苦しみの部分は思い出されなくなるようにもされていきます。
それは、過去をなかったことにすることではありません。過去に対する理解を神様に変えていただくことです。歪んで黒ずんだ眼鏡で過去を振り返っても、全部がダークでぐちゃぐちゃに見えてしまいます。これを外して、神様がくださる光の眼鏡で見つめ直すのです。その時に、ネガティブに見えていた過去も、今の私を形成する「大切な過去たち」であったことに気づかされます(あえて「大切な過去たち」と擬人化する良さがあります)。あの痛みのゆえに成長できたのだと。
私はこれを「過去を恵みの側に買い戻す」と表現することにしています。一年を振り返る日です。感謝なことも沢山あったでしょう。一方で、嫌な事、傷ついた事、まだ受け止められない事もあるでしょう。しかし、神様は夕暮れ時にあった涙の意味を教えてくださいます。あの時の涙があったから、喜びの叫びもある。神のご計画があるのです。こうして喜びの朝明けへと向かわせてくださいます。嘆きを喜びのダンスに変えてくださるのです。この一年を振り返り、恵みを数えて感謝するとともに、痛みから得た恵みにも目を向けたいのです。
1.高慢を砕き、試練を通らせる神の愛
1-3節を続けて味わいましょう。
1節 主よ 私はあなたをあがめます。あなたは私を引き上げ私の敵が喜ばないようにされたからです。
2節 わが神
主よ 私が叫び求めると あなたは私を癒やしてくださいました。
3節 主よ あなたは私のたましいをよみから引き上げ 私を生かしてくださいました。私が穴に下って行かないように。
作者は神様に感謝し、賛美できる理由として、幾つかのことに触れています。神様が自分を「引き上げ」、あるいは「癒し」、また「よみから引き上げ、生かしてくださった」からだと。彼は何かしらの危機的な状況に置かれたのでしょう。その背景には何があったのでしょうか。そこには思い上がりや慢心による「しくじり」があったようです。6節にこうあります。
6節 私は平安のうちに言った。「私は決して揺るがされない」と。
これは慢心していた時のことを振り返っているのです。「平安」と訳されたことばは、「繁栄」とも訳せます。多くの英訳聖書も「繁栄」と訳しており、その方が妥当に思われます。成功し繁栄していると思える時に、「俺は決して揺るがされない!安泰だ!」と思い込んだのです。たまたま成功が続いて思い上がり、支えてくれた方々への感謝や謙虚さを失い、自力で頂点に立ったように思い込んでいたのです。
でも、真実はどうだったのでしょう。7節にあるように、本当は神様が恩寵のうちに山の頂に立たせてくださったのでした。それが見えなくなっていたのです。神様は愛する者に感謝や謙遜を学ばせるために、時にその御顔を隠され、祝福を止めます。作者はこの節の後半で、それを感じて「おじ惑った」と告白していますよね。ガツンと打たれ、砕かれる経験をしたのでしょう。2節に「癒し」とありますから、大きな病やケガだったのかも知れません。あるいは裏切りや傷つくことがあって、心に痛手を負ったのかも知れません。
「成功につける薬はない」と言われますから、痛い思いをしないと目が覚めないことがあるものです。私も先週、急に自分の高慢を示される時がありました。何かがあったわけではないのです。でも、神様から「すべてはわたしのあわれみであることを忘れるな」と心に語られたのです。そして、少し前にディボーションで読んだみことばを思い出しました。
Ⅰコリ4:7 いったいだれが、あなたをほかの人よりもすぐれていると認めるのですか。あなたには、何か、人からもらわなかったものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。
「そうだな。この一年も本当に多くの方に支えられ、多くのものを与えられて、こうして最後の1年の最後の礼拝を迎えているのだ」と示されました。なのに自分が必死に与えてばかりいるかのように思っていた。年上の皆さんに支えていただき、若い方々にも助けていただきました。小さな子どもたちからも元気をもらいました。そして、そのすべての背後に主なる神様がおられたのです。「もらったものばかり」なのです。
2.過去の新しい振り返り方
ここに立つと、過去の振り返り方が変わります。あって当然、持っていて当然、順調で当然なのではないのです。むしろ、自己中心な考え方、思い上がるこの性質、自分の欠点や弱さを見れば、しくじり続け、上手くいかない方が当たり前なのです。
「なぜ、うまくいかないのか?なぜ、大変なことばかり起こるのか?」と思う私たちですが、むしろ私たちの高慢さ、自己中心性を考えればうまく順調に行く方が、奇跡なのではないでしょうか。全部しくじって当然のはずの私たちが、色々とさせていただけたのは、多くの方の助け、祈り、優しさ、神様の恵みがあったからではないでしょうか。
詩篇記者は神の怒りをその身に受け、試練を通ったのでしょう。しかし、大切なことは、それらの苦しい出来事の中に、神の愛のメッセージを受け取ったということです。この人はそれで砕かれ、神を求めたので、恵みの中に自分とその過去を取り戻すことができたのです。試練を通して過ちを悔い改めて神に求めたのです。8節にこうあります。
8節 主よ あなたを私は呼び求めます。私の主にあわれみを乞います。
「俺はすごい、大成功している、何でもできる。」その思いを改め、へりくだり、主のあわれみを乞い求めたのです。10節にもこうあります。
10節 聞いてください 主よ。私をあわれんでください 主よ。私の助けとなってください。
「私は幸せになる権利があるはず、なぜ上手く行かない、なぜ苦しむ、なんでこんな人生なのか」と、罪深い者なのに、幸せになることが当たり前のように思い込む高慢を悔い改め、神様にあわれみと助けを求めたのです。
私たちはしばしば、苦しい過去の振り返り方を間違えてしまいます。その出来事だけを見つめ、「何で自分がこんな目に遭わないといけないのだ」、「あの人が悪いのだ」、「なんて運が悪いのか」と、表面だけを見て嘆きます。ふてくされます。
私たちの目は盲目で近視眼であることに気づく必要があるのです。よく申し上げていますが、「百円玉はまるい」と思い込んでいるのと同じです。「百円玉は長方形だ」と言っても、すぐには理解できません。「丸い」と思い込んでいるからです。しかし、寝かせて側面から見れば百円玉は確かに細長い長方形です(自販機のコイン投入口を見ればわかる)。それもまた真実なのです。一部だけを見て嘆き悲しむのはもったいないのです。
私たちは神様の怒りを否定的にばかり見つめます。しかし、その怒りによってこの作者は自分の思い上がりに気づいたのです。逆に、神の怒りを買い、試練の中で砕かれなかったらと思うと恐ろしいのです。周囲の人はどれだけ苦しめられたことでしょう。叱られ、砕かれたからこそ気づける真実があります。それで5節にこうあります。
5節 まことに 御怒りは束の間 いのちは恩寵のうちにある。夕暮れには涙が宿っても朝明けには喜びの叫びがある。
神の怒りは「束の間」だという真実に気づきました。怒ることが目的ではなく、その先を見据えてのものです。その怒りは、愛の怒りです。私たちを正しい道に戻すための。別の箇所では、「神は意味もなく人を苦しめることをなさらない」ともあります。苦しみだけを見つめてしまうと、私たちは神様を誤解します。その先にある平安に目を留めたいのです。大抵の場合、成功よりも失敗の苦しみの方が人を育てるのです。ですから、夕暮れの涙が、私たちを幸いへと導くことを知る者となりたいのです。
ゆずの歌にもあるように、あの涙が栄光への架け橋となるのです。水戸黄門の主題歌にあるように「涙の後には虹が出る」のです。5節のみことばにあるように、「夕暮れには涙が宿っても朝明けには喜びの叫びがある」。ですから、私たちは神様の光の中でこそ、過去たちを振り返る必要があるのです。あの試練は単なる黒歴史でないと気づきます。あの失敗は、今の自分のために必要だったと知ります。あの病があったから、人の優しさを知り、隣人の弱さを理解できる者とされたのです。苦しみや痛みの経験もまた、私たちにとって、大切な過去たちなのです。それによって、私たちは謙遜にさせられ、多くの恵みに気づいたからです。聖書を通して過去を振り返る時、そこには神様のご介入があったと知るのです。また、多くの人の祈りや支えがあったことも忘れてはならないですよね。
過去を、福音の光の中に贖うことを、神様から教えていただこうではありませんか。11節には、このように語られています。
11節 あなたは私のために嘆きを踊りに変えてくださいました。私の粗布を解き喜びをまとわせてくださいました。
神様は、私たちの絶望的な嘆きを、なんと、喜びのダンスに変えてくださるのです。確かに過去は変えることができません。しかし、過去を正しく見返すことができるのです。過去をもう一度、神様と一緒に見返すのです。その時に、5節にあるように涙のままで終わらないことを知ります。嘆きで終わらず、喜びの踊りに変えられる神様であると聖書は明言します。
ですから、過去の痛みや失敗を黒歴史だと決めつけてしまわないようにしましょう。それはきっと真実ではありません。涙の夜をずっとさまようべきではありません。しっかり喜びの朝を迎えましょう。
こうして私たちは、過去を必死に忘れるのではなく、様々な過去のピースたちをしっかり繋ぎ合わせ、自分の一部として受け入れてあげましょう。こうして神様への感謝に満ちて一年を締めくくり、次の年に希望を抱いて進もうではありませんか。
引用元聖書
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