東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: マタイ1章22-23節「インマヌエルなる主イエス」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2025/12/24

マタイ1章22-23節「インマヌエルなる主イエス」

*** 12/24(水)祈祷会 説教概略 ***

  12月、教会では一体幾つのクリスマスイベントがあるのだろうかと数えてみました。CSJY、女性、クリスマス礼拝、SODクリスマス、地区JY、クリスマス祝会と全部で7つほど。そのすべてに関わっている人もいます。全部でなくても、複数のクリスマスイベントで奉仕をしている方も多くいます。その意味で、感謝なことではあるのですが、忙しくなりがちです。



 度々申し上げていますが、BeingよりDoingが優先されがちです。しかし、クリスマスの主であるキリストには、今日のみことばにあるように「インマヌエル」というタイトルがあります。その意味は何でしょうか。「神が私たちとともにおられる」という意味ですよね。ともにおられることをその名としてくださった方が、私たちの救い主なのです

 ですから、目の前のすべきことに追われるDoingクリスマスではなく、主の前にBeingなクリスマスを味わいましょう。

 

1.旧約預言のインマヌエル

 まず22節にこうあります。

22このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。 

 このみことばの背景には、イザヤ書714の預言がありました。アドベントクランツでも読んでいただきました。改めてお読みしたいと思います。 

イザヤ書7:14 それゆえ、主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。 

 「それゆえ」と始まりますが、何故だったのでしょうか。それは、神様をなかなか信じられなかった者たちがいたので、それゆえ、信じられるように一つのしるしを神自らで与えてくださるということでした。神様のやさしさです。救いを願う愛です。ことばだけでは信じられない不信仰な者たちのために、目に見えるしるしを歴史の中に与えるとされた。それが、イエス様の降誕という歴史的な出来事であったわけです。

 イエス様の降誕はファンタジーや神話ではありません。圧倒的な数の歴史的記録が残っています。世界中の人がイエス・キリストという名前を知っておられる。かくして、イザヤ書の預言の通りに、実際に神の子イエス様が来られた。見えない神様が、目に見える人間の姿を取ってくださった。この地上で33年ほどの生涯を歩んでくださった。そして、預言が確かに成就した事実を通しても、聖書を信じられるように確かな証拠としてくださいました。 

 

2.現代のインマヌエル

 23節を味わいましょう。 

23「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。 

 こうして、「インマヌエル」という名前が、その通りに実現したのです。神が弱い、不信仰になりがちな人間の間に住まわれ、人間とともに歩んでくださったのです。遠くにいる関わりの浅い神様ではありません。私たちの心の奥底にあるものすべてを知った上で、尚、「あなたは尊い。あなたが必要だ。あなたを愛している」と言ってくださる主です。いつも私たちの隣におられ、寄り添い祈りに聞き、語りかけておられる。

 いじめに遭っている人でも、過酷な病と闘っている人でも、本当に寄り添い味方でいてくれる存在があれば、多くの場合になんとか前を向けると言います。そこが避け所なのです。不完全な人間同士でも大きな支えになる。だから、いつもともにおられるイエス様であれば、私たちにとっての最高の支えになるのです。

 しかし、イエス様が生まれた時、多くの人はイエス様に心を留めなかったのです。自分のすべきことで忙し過ぎて、自分のことばかりで、イエス様に心を注がなかったのです。ヨセフとマリアが来て、しかも生まれそうだったのに、誰も手を差し伸べなかった。宿屋の主人も、住民もほとんど気に留めていなかった。また、ヘロデ王も祭司も聖書学者も救い主が生まれたことを知らず、外国人の博士から初めて聞かされました。興味も関心もなかったのです。

 私たちはクリスチャンです。イエス様によって救っていただいた者です。イエス様はいのちの恩人、家族の恩人、友人の恩人。その私たちは、イエス様を求めているでしょうか。この方の前にともにいること(Being)を喜んでいるでしょうか。家の事、仕事の事、自分のしたい事で心はいっぱいではないでしょうか。私たちの居場所になろうと来られた方ですが、私たちの心はイエス様の良き住まいとなっているでしょうか

 

3.未来のインマヌエル

 今日さらに、覚えたいのは「インマヌエル」の預言は、より先の未来において完全に成就していくものであるという点です。私たちはそれを神様に期待しながら、将来を待ち望むことができる。そのような希望に満ちて日々を過ごすことができるのです。

黙示録213節 私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。 

 出エジプト記では「幕屋」を造りなさいと神様が命じましたね。その幕屋は何のためにあるのでしょう?「会見の幕屋」と言われるように、神様と会見する場所、つまり神様と親しくお会いする場でしたよね。でも、この幕屋は限定的、部分的、不完全でした。将来完成するものの模型でした。まずイエス様が来られたことで、完成に向けて大きな成就がありました。しかし、まだ完成ではありません。その最後の完成の姿が、この黙示録に示されています。こうありますよね。「

見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。」 

 ・・・「神が人々とともに住み」とあります。ここでは、もはやイエス様が天に昇られて見えなくなることはありません。再臨のイエス様とずっと一緒に歩めるのです。そして、イエス様を信じる私たちは「神の民」となる。神との絶え間ない交わり、妨げられることのない交わり。それが完全になるのです。ですから、214節にあるように、「神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる」のです。もはや、死も悲しみも叫び声も苦しみもない完全なる平安です。この時が「インマヌエル」預言の究極的な完成です。私たちはやがてここに辿り着ける。多くの傷も涙も苦しみもすべて癒され、美しくされた姿でイエス様と永遠に生きる。この確信に満ちた望みの中で、私たちは今の日々を過ごすことが許されています。それはなんと心強い希望でしょうか。

今はまだ確かに不完全です。私たちの罪のゆえに、この世の惑わしに流され、主の愛が見えなくなることがあります。孤独になることがあります。互いに競い合い、比べ合います。お互いの存在をそのまま愛し受け入れることができない罪の世です。そこで、私たちも日々、悩み苦しみます。クリスチャン同士でさえ時に傷つけ合います。

しかし、インマヌエルの主は、絶えず私たちとともにおられます。今日は特にクリスマスイブです。あなたとともにいることを喜んでくださる主イエス様です。あなたもイエス様とともに過ごすことを、何よりも喜びませんか。





引用元聖書
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