*** 12/21(日)クリスマス礼拝 説教概略 ***
皆さんには、心から安心できる「居場所」があるでしょうか。時々私たちの教会ではサンライズオープンデー(SOD)という名前で、教会を地域の子どもたちに開放しています。1階ホールに卓球台、ボルダリング、ミニバスケットゴール、漫画、ボードゲームなどがあります。子どもたちは、最初は、それらで遊べることを目的として来てくれたりします。ただし、こうした遊び道具はやがて飽きます。
それでも来続けてくれるとしたら、それはなぜでしょう。最後は物ではなく人なのです。自分の存在を受け入れてくれる人。歓迎し、本気で心配し、大事に思ってくれる人。そういう人が待ってくれている所。そこが「居場所」になるのです。
ですから、どんな場所かよりも、誰とともにいるのかが、もっと重要です。教会もまた、建物が立派でも、美味しいケーキがあっても、フリーWi-fiがあっても、そこに愛に満ちたキリストがいないと、その愛に生きるクリスチャンがいないと、やはり本当の居場所にはならないのです。ですから、このクリスマスに、皆さんの心に喜びと平和が来るために、本当の居場所となってくださるイエス・キリストを知っていただきたいのです。
1.居場所がなかったイエス様
今から2000年以上前の実際にあった出来事です。ローマ皇帝アウグストゥスは、全国民に生まれ故郷に戻って住民登録をするよう命じました。ただし、今のようにネットがありませんので、わざわざ故郷に戻る必要がありました。そのため、ヨセフとマリアも故郷のベツレヘムに向かいました。
4節 ヨセフも、ダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
ナザレからベツレヘムへは120kmほど。電車も車もない時代。東京から静岡、伊豆あたりまでの距離感。ましてマリアはお腹に赤ちゃんがいました。その旅はとても大変だったはずです。ヘトヘトになりながら、ベツレヘムに辿り着いたことでしょう。そして、マリアはいよいよお産を控えていたのです。ところが、6-7節にこうあるのです。
6節 ところが、彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて、
7節 男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。
なんと、宿屋には彼らの居場所がなかったので、家畜小屋で出産の日を迎えてしまったのです。家畜小屋での出産、飼葉桶、つまり家畜のエサ箱がベッド代わり。「誰か何とかしてあげてよ」と思いませんか。獣臭い、汚物にまみれた不衛生な場所。朝晩は冷えたかもしれません。別の福音書ではこのようにも語られています。「この方(イエス様)はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった」。人は皆、自分のことで忙しい。自分が可愛い。そのため、自分たちを造られた神、救い主が来られても見向きもしなかったのです。ゆえに居場所がなかった。
それにしても、神の子、世界の王として生まれた方が、世界に居場所がないとは、なんということでしょう。しかし、皆さん、逆にイエス様が超豪華な宮殿の贅沢な部屋に生まれ、ぬくぬくと何の苦労もなく育ったらどう思いますか?そんな贅沢三昧している人に、少しでも安く食材を買おうと奮闘する主婦の努力は分からないでしょう。子どもを学校に行かせるために、必死に働くお父さんの苦労もわからないでしょう。友だちがいなくて孤独に涙する人のさみしさもわからないと思うのではないでしょうか。
しかし、イエス・キリストという神様は、贅沢から離れ、高い地位も持たず、神の栄光さえ後にして、汚い貧しい寒いところに来てくれたのです。
聖書の神様は優しい神様です。高いところ、富んでいるところから糸を垂らして立派な人だけを救うものではない。どん底にいる者、涙し苦労している者、孤独な者たちの友になろうと、人の家でさえない家畜小屋に生まれてくださいました。自分の家でもなく、宿屋にさえ居場所がない者として過ごされた。
だからこそ、8節から登場している「羊飼い」たちが、このイエス様の誕生に駆け付けることが許されたのです。羊飼いたちは当時の社会では、貧しく、身分が最も低い者でした。「あいつらは教養ゼロだから、言い分は信用できるわけがない」と、裁判での証言能力なしと見られました。差別されていた人々です。でも、その羊飼いが真っ先に救い主に会いに行けたのは、イエス様が彼らのような虐げられている者の友にさえ、喜んでなってくだろうとしたからです。
2.本当の友とは
本当の友だちは、涙の時に一緒に泣いてくれる人ではないでしょうか。嬉しい時に、一緒に自分のことのように歓喜の声を上げてくれる人です。あなたのしくじりも、あなたの欠点も知った上で尚、どんな時にも見捨てない、それが「真の友」ではないでしょうか。
しかし、人の間に、完全な友を見つけることは難しい。なぜでしょうか。皆さんは、何があっても絶対に100%、大切な人を命がけで守れる、決して傷つけず、裏切らないと断言できるでしょうか。また信じ続けることができるでしょうか。
小説家、太宰治の有名な作品として『走れメロス』といがあります。人は100%信頼できるものなのかを考えさせられた作品でした。素晴らしい友人同士も、裏切りかけ、あるいは疑ってしまう瞬間があったのです。ゆえに、最後は互いに相手に自分を殴らせました。太宰治が、本当に信じ切れる愛や友情を切に求めていたことの現れではないでしょうか。何より彼は、罪深く欠けだらけの自分が、そのままで受け入れられ、決して裏切られない愛を求めていたと思われます。
こんな話があります。ある人がユダヤ教の教師にこう言ったそうです。「こんな悲惨なことが起きる世の中で、あなたはよく神を信じられますね」と。するとその教師はこう答えたそうです。「これほどひどい世の中で、あなたは神を信じずによく正気を保てますね」と。
人は弱く、罪深く、信頼したくてもし切れません。ゆえに不安です。あんなに犠牲を払って悩みをお聞きし、その方に寄り添い、助けになろうと尽くしたのに・・・それでもなお、平気で関係を切られてしまうことがあります。人は自己中心なのです。
この世はどんなに良く見積もっても、罪と悪に満ちています。良い人でさえ、醜い心があるのです。だから、完全な愛を持つ神なしには、むしろ生きていけないのです。宗教をやりたいのではないのです。ただ、信じられる相手が欲しい。誰でもそうじゃないですか?
それを唯一満たせるお方がクリスマスにお生まれになったキリストです!
私が友人から裏切られた時、キリストのことばが心底沁みました。そして本当に慰められ、生きる力が与えられました。「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを捨てない」(ヘブル13:5)。何度聞いても、決して色褪せないことばです。何度聞いても慰められ、勇気をもらえます。この絶対に奪われない居場所があるから、恐れず前に進めるのです。
イエス様はどんな時でも見捨てない「真の友」となるため、クリスマスに人となられたのです。そのために、私たちの通る苦しみや貧しさをも通ってくださったのです。このイエス様こそ、あなたの救い主です。
11節 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
あなたの代わりに居場所を失い、あなたのために孤独となられた神の愛。この苦しみ悲しみを知る方があなたの居場所となってくださる。ここに大きな喜びがあるのです。
3.キリストのもとに平和がある
14節 「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」
「地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように」とあります。神のみこころにかなう人々とはどういう人でしょうか。それは、イエス様の降誕を喜ぶ者のことです。クリスマスを自分へのプレゼントとして受け取る人のことです。
キリストを信じて受け入れた人は、キリストという居場所を得、真の平和を心にいただくのです。私たちの心はいつでも荒れています。善と悪の戦いがあり、誘惑との戦いがあり、試練の大波に呑み込まれ、不安と恐れの嵐が吹き荒れます。
しかし、私たち罪深い人間を救うために、神である方が人となられたのです。私たち罪人を、みこころにかなう者とするために、キリストが十字架にかかってくださったのです。私たちの罪を赦すため、身代わりに裁きを受けるため。それで、信じるだけで真の平和が心に与えられるのです。イエス様は十字架の苦しみの中で、私たちを見捨てることをしませんでした。一瞬たりとも、私たちを見捨てようとはしなかったのです。どんなに私たちが裏切ってしまっても、神は私たちを裏切らないのです。太宰治が求めていた100%信頼できる愛です。この愛が心にある時、私たちは真の平和を得るのです。心の平安です。
神様はこの愛を受け取るようにとずっとあなたを待っていてくださいます。心の扉をノックしながら、待っています。
ある女性は、若い頃に自分のお父さんと激しく衝突してしまい、それ以来連絡を取らなくなってしまいました。何年も経って、クリスマスが近づくたびに、彼女は短い手紙を書くようになります。しかし、「今さら遅い」、「迷惑かもしれない」、色々と考えすぎて、結局手紙は出せずじまいでした。やがて、ある年、クリスマスが近づいた頃、お父様が亡くなったという知らせが届いたのです。ついに手紙を渡せないまま、和解できないままにこの日が来てしまったのです。その時の彼女の悲しみ、罪悪感は想像に難くありません。ところが・・・彼女がお父様の遺品整理をしていると、机の引き出しから一枚の紙が見つかったのです。そこにはたった一行、こうありました。「いつでも待っているよ」と。
和解の必要などなかったのかも知れません。なぜなら、お父さんはとっくに娘を赦していたからです。ただ愛して、ただ帰りを待っていたのです。彼女がもっと早くこの事実を知っていたら、二人は良い時間を過ごせたでしょう。互いの心に平和を持って歩めたでしょう。
イエス様はあなたを待っています。2000年前にあなたのために来てくださり、ずっと待っています。この愛を受け取って、イエス様のもとに帰るだけで良いのです。決して見捨てられない、誰にも奪われることのない居場所がここにあります。
引用元聖書
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