東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: Ⅱコリ4章5-7節「光輝くキリストという宝」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2025/12/18

Ⅱコリ4章5-7節「光輝くキリストという宝」

*** 12/17(水)祈祷会 説教概略 ***

 昨日、女性クリスマス会が持たれました。「コーヒー・クリスマス」というタイトルもつけられており、美味しいコーヒーもいただきました。そして、個人的に、お話の中で印象的だったものがあります。コーヒー豆は砕かれて粉々になった時に一番良い香りがする。それと同じように私たちも主にあって砕かれた時にこそ、謙虚にされて、良い香りを放てるということでした。


 私たちの頑なな心や罪深い自我が「砕かれ」、その分キリストの香りがそこに満ちるということです。クリスマスこそは、その主役であるキリストの香りが際立つ季節であって欲しいと願います。私たちではなく、イエス様の香りが私たちから発せられ、人々の心に届けられることを切に願うのです。そのためには、私たちが頑丈で自分を主張する立派な金や銀の器であろうとすることをやめ、砕かれた土の器となることが必要ではないでしょうか。

7節にこうあります。

7私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。 

 聖書が教える救いは、皆さんもよくご存じのように、人の努力から生み出されるものではありません。罪によって理性さえ歪んでいる私たちは、自分の力で救いを得ることは出来ないですよね。こんなに汚れた者の罪をことごとく赦し、「神の子」「聖なる国民」「キリストの使節」「御国の相続者」としたのは、まさに「測り知れないほどの神の力」なのです。しかし、しばしば私たちは、自分たちの必死な努力や自己主張によって、クリスマスの主役をかき消してしまいます5節にこのようにあります。

5私たちは自分自身を宣べ伝えているのではなく、主なるイエス・キリストを宣べ伝えています。私たち自身は、イエスのためにあなたがたに仕えるしもべなのです。6「闇の中から光が輝き出よ」と言われた神が、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせるために、私たちの心を照らしてくださったのです。 

ここにあるように、本来、私たちを宣べ伝えるのではありません。まだ20代だった頃、大勢の牧師の前で話をした際に、緊張しました。ある年配の先生にそれを言いましたら、「それは人を見ているからだ。人に良く見せようとしているからだ。神を恐れなさい」とズバっと言われました。そうは言っても緊張しますよね。でも、確かに「イエス様をどう見せようかではなく、自分がどう見られているか」に意識がいくと、緊張したり、余計なことを気にしたりするのはその通りです。「どうしたらイエス様の素晴らしさが伝わるか。伝えたい!!」という思いが強いほどに、緊張がなくなることは私もずっと経験してきています。そして、人からどう見られるかを気にする背景には、私たちが十分に愛を受け取れておらず、心のタンクが渇いていることあるでしょう。ついつい自分の大変さを分かって欲しい。自分の苦しみを理解して欲しい。認めてほしい。愛して欲しいという魂の声が、自己主張という方法で出てしまうのです。

 子どもたちの「試し行動」に似ているかも知れません。愛に飢えている子どもたちが、大人たちの愛を試そうとして、わざと悪いことをするのです。気を引こうとして、必死に大声を出し騒ぎ暴れます。それでも愛してくれるかを、本能的に試しているのです。神様の愛はこの試し行動に確実に合格できます。なぜなら、どんなに罪深かったとしても、どんなに神様に敵対し反抗しても、愛し続けておられるからでです。この世の声は、「お前は悪い人間だから愛されないぞ」「役に立たないから、必要とされていないぞ」と、私たちに語りかけます。

しかし、主は、あなたがどんなに背こうと、あなたがどんなに失敗を繰り返そうと、「わたしはあなたを愛している」と語りかけるのです。この深い愛を、まず私たち自身がハートで受け入れませんか。心のタンクを神の無償の愛で満たすのです。ここが満たされると、頑張って自分宣教する必要がありません。むしろ、この愛が嬉しすぎて、この愛を伝えたくなる。イエス様を!

この愛が素晴らしすぎるので、嬉しいのでただイエス・キリストを宣べ伝える者へと変えられていくのです。それこそが、「土の器」であることを喜ぶ信仰です。「土の器」は、金や銀の器ではない。見栄えもしない安物です。ヒビ割れやすく、壊れやすい器。しかし、だからこそ、中にあるキリストの宝が一層光輝くのです。器が立派に自己主張しすぎるなら、中の宝物は目立たなくなってしまうのです。その意味では、私たちは決して強くなくてよい。むしろ、器がヨレヨレ、壊れかけぐらいが、中にある宝がよく見えてることでしょう。まさに「砕かれた器」こそ、神の救いの力がよく見えるのです。

 妻が献身のことを祈っていた時、ある牧師さんの話を聞きました。妻は牧師夫人として自分がやっていける自信がなかったのです。人前で話すのも得意ではないし、ピアノ等も伴奏もできない。しかし、その先生は、「自分は話すのがとても苦手で、教会の皆さんがいつも自分のために祈っていてくださるから、今も祈られているから、それで話せるのだ」とおっしゃったそうです。話すのが苦手でも、祈られ支えられているから話せる。祈られる中で、口を与えた神様が語ってくださる。そこに神様の力が見えるのです。その証しは妻にとって大きな励ましでした。「話すのも音楽も得意ではない自分でさえも、主は用いてくださるのだ。なさるのは神様なのだ」と。まさに「土の器」だからこそ、イエス様の救いの力がよく見えるようにされるのです。

 また、昨年、星野富弘さんのアート展をしましたね。彼は人間的に見たら弱い人です。首から上しか動ないのですから。自分の事さえ、人の助けを借りなければほとんど出来ない。また、神学校で学んだ人でもありません。牧師や宣教師でもありません。ただ、口に筆を咥えて絵と詩を描いてきた人です。でも、彼の絵や詩は、人の心を動かしました。感動をもたらし、励まし、勇気を与えました。キリストの愛を伝え、天に召された後もその作品を通して用いられ続けています。それは、彼の中にあるキリストの光がとてもよく見えたからではないでしょう。出来る自分が砕かれ出来ない自分のままで、主の愛に生かされている姿をそのまま証ししたからです。

 私たちは「光」ではありませんよね。しかし、信じて受け入れた私たちのうちに、光である主イエス様がおられます。大切なことは、私たちが自己主張に囚われ、強がり、演じて、主イエス様を隠さないことです。弁解も言い訳もいらない。ただ、イエス・キリストという宝が見えればそれが良い。「私がなんとかしなきゃ!」と頑張ってイエス様を隠してしまう失敗を私は何度経験したことでしょう。その意味では、むしろ砕かれることを祈り求めたい。硬い鎧が砕かれ、弱さも失敗も正直にさらけ出せる者を目指したいのです。

イエス様が生まれたベツレヘムは、イエス様が「生まれた地」という以外、取り立てて目立つ町ではありませんでした。商業も芸術も盛んではない小さな町。だからこそ、イエス様が生まれたという点だけで名が知られました。東村山も他に有名なものがないので、ダントツで志村ケンさんの存在がより際立ちましたよね。私たちもそれでいいではありませんか。「あの人の特徴は?」と聞かれた時に、「キリストを信じているクリスチャンだよ!」と真っ先に出て来る人。他に何もなくても、それが真っ先に出て来る人でいい。

7 私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。


引用元聖書
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