*** 12/14(日)主日礼拝 説教概略 ***
昨日の土曜日、妻が今日の天気予報を見ながら、「ああ、明日は雪が降っている」と言いました。未来のことは普通「降る可能性があるよ」とか、「降るみたいだよ」と言うわけです。しかし、妻は「降っている」と既に起こっているかのように言うものですから、思わず「あなたは神様か!」と突っ込んでしまいました。
ただ、今日のみことばは、それに似ています。未来のことを預言しているのですが、原文では「完了形」が多用され、既に起こっているかのような言い回しです。例えば、「受ける」、「輝く」、「喜ぶ」、「生まれる」など、どれも完了形です。それは「預言の完了形」と言われる。神様がおっしゃったことは100%実現するので、未来にも関わらず完了したかのように書くのです。そして、実際にイエス様が生まれるずっと前に書かれたこのイザヤ書の預言は、イエス様の降誕とその生涯、十字架によってすべて成就した。聖書が信頼できる理由の一つです。このクリスマスは、多くの聖書箇所で約束され、預言されていたことの成就を見る時でもあります。それは信仰ある人々が待ち望んでいた大いなる救いでした。闇を照らす大きな光、キリストの救いのことでした。
1.闇を照らす光
キリストが生まれるよりも700年以上も前のこと。イスラエルの国は、北部のアッシリアから攻撃を受け続ける暗闇の時代でした。希望が見えない真っ暗闇でした。私たちは今、戦争の恐怖に直面しているわけではありません。しかし、今の世界を見る時に決して明るい世界ではありません。方々で戦争があり、災害の恐怖があり、経済不安もある。何より孤独です。そうした世界に望みを持とうとしても、罪の世では救いの力を見つけられません。当時のイスラエルも、取り巻く環境だけを見れば絶望的でした。ですから、その上におられる救いの神を見上げるのです。神のいのちのみことばに耳を傾けるのです。1節。
1節 しかし、苦しみのあったところに闇がなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は辱めを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦の民のガリラヤは栄誉を受ける。
いきなり「闇がなくなる」と断言されます。力強い神の救いの力です。「先にはゼブルンの地とナフタリの地は辱めを受けた」とありますが、イスラエル12部族の中で、ゼブルン族とナフタリ族が所有していたこれらの地が、最初にアッシリアの攻撃を受けたのです。しかし、この苦しめられた地にやがて光が来る。もはや暗い所を見つけられないほどに。なぜならば、2節にこうあるからです。
2節 闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く。
この大きな光こそ、神の子キリストの光でした。この「闇」とは、本質的には戦争のことではない。むしろ、霊的な話、心の闇です。彼らは神様に背き、自分勝手な道を歩み、罪の結果として真っ暗闇の人生を歩んでいたのです。それは8章20節で触れられているように、「神のみおしえ、神のことばに従う」ということをやめた結果でした。本当の闇とは、明かりがないことではない。私たちは、どんなに明るい場所に立っても、心に光がなければ暗いのです。どんなに楽しい場所に居ても愛がなければ空しいのです。自分を愛し、受け入れてくれる人がいなければ孤独なのです。
マザー・テレサが言うように「本当に悲惨なことは飢えて死ぬことではない」、「誰からも愛されていない、必要とされていないと思い、孤独の中で人生を終えること」です。
クリスマスは愛の季節です。愛を知るべき時です。イエス様があなたを愛する光として来られたことを、ハートで受け取る時です。あなたの心の闇を照らす愛の光として来られました。そして、「互いに愛し合う」道をも、私たちに示されました。ですから、ここにある「大きな光」、「輝く光」は、物理的なものではない。人の心の闇を照らす愛の光です。
これが、私たちには必要なのです。
なくては生きていけないのです。
また、1節には「異邦の民のガリラヤ」という呼び方もされています。この地はアッシリアから滅ぼされて終わりではありませんでした。神様の目にはその未来が見えています。やがて復興し、キリストが宣教を始める地となったのです。しかも、ここは多くの民族が共に住む地、まさに「異邦の民ガリラヤ」と呼ばれるにふさわしい地でした。救いは一部の人のものではなく、すべての国民、民族のものであるという証しです。
一昨日、とある学生集会に招かれご奉仕しました。印象的だったのは、多国籍の交わりでしたが、学生たちがことばの壁を全然気にしないで、仲良く家族のように過ごしている姿でした。イエス様の十字架の愛が、その真ん中にあるからでしょう。「異邦の民のガリラヤは栄誉を受ける」とあるように、異なる者たちがキリストの名のもとに一つされる愛の交わりに、神は祝福と栄誉をもたらすのです。
2.愛の光を受け入れる時
この愛の光を受け入れる時、何が起こるのでしょうか。3節にこうあります。
3節 あなたはその国民を増やし、その喜びを増し加えられる。彼らは、刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜ぶ。
「喜び」ということばが多く用いられています。それはどんな喜びなのでしょうか。あなたはその国民を増やすとある。それは、キリストによって、神の国の民がますます増えて加えられていくことです。
それは当然です。イエス様を信じた者は、二度と見捨てられることはないのですから。つまり、神の民は増えることはあっても、減ることはないのです。一時的な別れはあるでしょう。でも、クリスチャンの友は神様のもとで必ず再会できます。真の別れはない。出会いはあるが、別れがない。これがキリスト者の大いなる喜びです。
また、刈り入れ時に喜ぶというのは、収穫の喜びで、神が私たちに恵み豊かに与えてくださる喜びです。分捕り物を分ける楽しみとは、簡単に言えば「頑張ったことへの報い」です。神様はあなたの労苦を知っていて、必ず報いてくださるのです。もっと言うならば、まさに「完了形」ですから、その報いをまだ得ていないうちにから喜べるのです。これが、クリスチャンの恵みの先取り特権です。
祈祷会ではお話しましたが・・・他教団のある先生とお交わりした時のことです。教会開放日の話などをし、地域の子どもたちの居場所になれるようにと願っていると分かち合いました。中には、家に帰りたがらず、教会に長々といたがる子もいることなど、分かち合っていました。すると、その先生が言われました。「実は、僕自身がそういう子だったんです」。
家庭や学校に居場所が持てず、不良の道に進む直前だった。その時に教会に誘ってくれる友人がいた。礼拝に全然出なかったけど、教会が居場所になった。教会の方が優しくしてくれて、牧師さんが教会にも泊めてくれたりした。そうして救われ、今牧師をしている。
私はそれを聞いて嬉しくなりました。神様が未来を見せてくれた!と思いました。私たちの働きも思うように行かない時もあります。心が折れそうな時があります。でも、居場所がなかった子が教会に来て、初めの頃は全然礼拝に出なかったとしても、こうやって牧師になった方がいる。希望ですねよ。
今の時の種蒔きは決して無駄にならない。
光は必ず闇を打ち砕くんだと!
4節にはまさに、信仰による勝利が語られています。
4節 あなたが、彼が負うくびきと肩の杖、彼を追い立てる者のむちを、ミディアンの日になされたように打ち砕かれるからだ。5節 まことに、戦場で履いたすべての履き物、血にまみれた衣服は焼かれて、火の餌食となる。
ミデヤンの日とは、かつてイスラエルがミデヤン人から攻撃され、脅かされた時のことです。その時、絶望的な戦力差がありました。勝利は不可能に思えました。しかし、神様はギデオンという信仰者を立て、この民を救ってくださったのでした。その時と同じように、救いの神が暗闇の力による支配を打ち砕いてくださるという約束です。5節は、戦いのための戦闘服がもはや不要になり、燃やしてしまうのだと言うのです。
3.光はイエス・キリスト
これらすべての中心こそが、クリスマスに降誕された神の御子イエス・キリストです。6-7節は、キリストについての明確過ぎるほどの預言です。先週もアドベントクランツで読んでいただいた箇所です。
6節 ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。7節 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。
6節の「生まれる」も「与える」も完了形です。イエス様を救い主として信じる者は、誰でも罪と暗闇の支配から解放されるのです。主権がこのイエス様にあり、しかもそれは増し加わり、衰えを知りません。平和、さばき、正義がここにあります。キリストは、望むままに何でもできるまことの王、まことの救い主なのです。この方が、私たちの心に愛を、平和をもたらします。
皆本当は不安で、孤独なのです。威張っている人も、強がっている人も、たましいの深いところに平安がないから。大丈夫だという安心がないから。何があっても、どんな失敗をしても、決して見捨てられない、愛され続けているんだという確信がないから、怖いのです。
主イエス・キリストは、あなたの心の闇を照らす光として来られました。その光は大きく力ある光で、愛に満ちた光です。だから、私たちのドス黒い暗闇さえ、消し去って余りある光です。その愛は、あなたからあふれて、隣人にも届きます。 だから、私たちはこの光に立ちましょう。まことの光を世界に伝えましょう。
引用元聖書
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