東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 毎日の聖書【4月分】
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

最新情報

2024/03/30

毎日の聖書【4月分】


1日 創世記48章
 イスラエルはヨセフとその息子たちを祝福した。
15節 彼はヨセフを祝福して言った。「私の先祖アブラハムとイサクが、その御前に歩んだ神よ。今日のこの日まで、ずっと私の羊飼いであられた神よ。 ここにイスラエルの晩年の信仰が現れている。「今日のこの日まで、ずっと私の羊飼いであられた神よ。」と彼は言った。彼はしばしば神を見失った人だ。そこに主がおられても見ていなかった人物だ。だが、彼は変えられた!!自分の人生の足跡を振り返った時に、はっきりと気づいたのだ!神は最初から最後まで、いつでも自分のすぐそばにおられ、私を導いておられたのだとイスラエルの職業は「羊飼い」であった。だからこそ、この意味は誰よりもよく分かっている。彼は、羊飼いがどんなに羊を大切にし、見守っているかをよく知っていたのだ。羊のために、羊飼いがいのちをかけて外敵や危険から守り、良き場所へと導くことを知っていたのだ。
 だから、この神に対する呼びかけは、彼の信仰の成長を知ることができる告白だ。そして、最後にもうひと仕事、すなわち彼の最後の使命に気づいていたのだろう。彼はかつては祝福を奪う者であったが、今や祝福を与える者になったのだ。それは、羊飼いなる主が養い育て、導いてくださったゆえである。奪う者から、与える者に、私たちも変えられ、成長させていただきたい。

2日 創世記48章
 神のみわざはいつでも不思議であり、人の常識にとらわれないものである。イスラエルはヨセフの二人の子の頭に手を置き、祝福をした。しかし、左右を逆にしたのだ(18)。ヤコブが兄エサウ以上の祝福を得たように、ヨセフの二人の息子もまた、弟エフライムに長子の祝福がもたらされることになる。19節に「弟は彼よりも大きくなり」とある通りだ。聖書では後の者が先に・・・との教えと出来事が実際にいくつも登場する。人間の計算通りにはならないことを教え、人が思い上がらないためでもある。
 そして、もう一つ言えることは、これは人が与える祝福ではなく、神の祝福であるということだ。20節の祝福のことばの中に「神がおまえを」と、祝福の主体をやはり神ご自身としている。21節でも「神はおまえたちとともにおられ」と伝えている。神のご計画の中にあって、それぞれにふさわしい祝福がある。それを決めるのは神ご自身であって、人ではないのだ。そして、神の祝福があることを伝えること。これは多くの人に恵みをもたらす事だろう。神は生きておられる。この方を求めるなら、この方は応えてくださる。

3日 創世記49章
 ヤコブは息子たちを呼び寄せ(1)、彼らを祝福をした。ただし、祝福だけではなく、彼らのこれまでの歩みと関係し、報いとなっている要素も大きい。未来のことを告げる予見的性質も持っている。これらは、ヤコブが語っているようであるが、その背後に主がおられ、主がことばを与えておられることを覚える必要がある。
 特に最初の3人の兄弟に対して、厳しい宣告がなされている。ルベンは長子で、ヤコブの力として奮闘したことは評価されている(3)。しかし、一方で彼の奔放さの問題が語られている(4)。ここでの「奔放さ」とは、決して良い意味では使われていない。彼の罪深さや野蛮さを表している。父の寝床を汚した罪がそこに示されている。5節からは、シメオンとレビが一緒に語られている。「彼らの剣は暴虐の武器」「わがたましいよ、彼らの密議に加わるな」と、彼らの残虐な復讐を挙げている。神はすべてをご存知で、ふさわしく報いを与える方である。私たちも神を侮ってはいけないということだ。そして、それだけに、イエス・キリストの十字架の赦しがなければ、私たちは希望がないと言えるし、逆に、キリストの救いの恵みは、「あったらよいもの」ではなく、必要不可欠なものだということを覚えたい。

4日 創世記49章
 8節からはユダについての祝福だ。ユダもまたヨセフに対して、神の前に罪を犯した者であるし、その家庭においても不道徳な問題を抱えていた。それであるにも関わらず、ここでは非常に良い内容が多いことがわかる。そこには人の知恵や考えをはるかに超える、神の摂理があり、人間的な基準で決められるものではないことがわかる。
 「おまえの手は敵の首の上にあり」(8)とあるが、ユダ族はイスラエルに勝利をもたらす存在であった。ダビデ王はユダの出身であり、主イエスがその子孫として生まれることは、最も重要な点である。ゆえに10節では、「王権はユダを離れず」と語られる。11-12節は、この安定した王権のもとでの繁栄について語られている。ダビデ時代のことはもちろんだが、やはり将来のメシヤ到来によってもたらされる神の国の豊かさをも意識させられる。人の罪のただ中に、神の国が起こり、神の平安と祝福がもたされることは、私たちにとってなんと大きな希望、喜びであろうか。

5日 創世記49章
 22節からはヨセフへの祝福。ユダと同様に、彼についてのことばは他の者たちより多く、それが祝福の大きさを表している。22節で、ヨセフは「実を結ぶ若枝」と語られている。また、「その枝は垣を越える」ともある。その祝福の大きさが感じられる表現だ!
 ヨハネ15章にて、イエスにとどまる者は豊かな実を結ぶと語られていることは有名である。ヨセフはどのような悲惨な状況であっても、すなわち、異国の奴隷という立場、囚人という立場にあっても、神とともに歩んだ人物である。それゆえに祝福を受け、多くの実を結んだのだ。25-26節では、幾度も「祝福」ということばが語られ、しかもそれが「父の神によって」天来のものとして語られている。
 ヨセフの歩みを振り返るなら、まさにこの通りである。一見苦しい苦難の日々でありながら、いつでも神とともに歩むことによって、そこには必ず祝福がもたされていた。私たちが大事にすべき点もこの一点であろう。神とともに歩む者は、上からの祝福が必ず追って来るのだ。

6日 創世記49章
 ヤコブは息子たち十二人について、祝福を語った。それは神の導きによる。28節にこのようにある。「彼らを祝福したとき、それぞれにふさわしい祝福を与えたのである。」と。「それぞれにふさわしい祝福」と語られているように、同じイスラエルの部族、同じくイサクから生まれた者たちであったが、ひとりひとり違ったのである。そしてまた、それぞれの歩みにふさわしいものであった。神を侮ってはならないことを示される。キリスト者に宛てて書かれたコリント人への手紙においても、主がそれぞれの人生のすべてをご存知であり、その行いに応じて報いられることが語られている。キリストを信じるすべての者は、神の国に入る者であることに疑いはない。しかし、神から報いは皆同じではない。だからこそ、天に宝を積むようにとの教えがある。私にふさわしい祝福とは何だろうか・・・。もう少し、今日という日の歩みをきちんと考えようと思わされた。
 29-33節では、ヤコブの死が語られている。人は必ず死ぬのだ。ヤコブもまた、神の御手の中に、その霊を明け渡し、神の報いに自らをゆだねることになる。

7日 創世記50章
 ヨセフの悲しみは大きかった。彼はヤコブの顔の上に崩れ落ちるようにして泣いた(1)。次に彼のすることは、ヤコブの遺言に従うことであった。父をミイラにし(2-3)、カナンの地の先祖の墓に葬ることであった。なお、3節では、「エジプトは彼のために七十日間、泣き悲しんだ」とある。6節によれば、ファラオも何の問題もなく、ヨセフの願いを受け入れ許可を出していることがわかる。それゆえに、7節では、「ファラオのすべての家臣たち」や多くのエジプトの民がヨセフの家族と一緒に上っているとあり、その一団は非常に大きかったとある(9)。エジプトを救ったヨセフの愛する父親である。きっとエジプトの民も心からの敬意を払ったことだろう。ヨセフのゆえに、当時のエジプト人はイスラエルの民に好意を持っていたのだと考えられる。それはとても美しいことではないか。人の死を悼む心は、いつの時代も、どの地域の人も同じであろうし、恩や感謝の思いはお互いを幸いにする。私たちは肌の色の違いや文化の違い、歴史の違いに必要以上にこだわるが、本当はもっと大切なことがこの世界にはある。

8日 創世記50章
15節 ヨセフの兄弟たちは、自分たちの父が死んだのを見たとき、「ヨセフはわれわれを恨んで、われわれが彼に犯したすべての悪に対して、仕返しをするかもしれない」と言った。
 罪深い歩みをしてくると、その報いを身に受けて歩むことがある。また、赦しを受け入れていないことによって、復讐やさばきを恐れる心がわきあがるものだ。ヨセフの兄たちは、父が死んだ時に、ヨセフを抑える存在がなくなり、自分たちに「仕返し」をするかもしれないと恐れた。どこかで「赦されていないかもしれない」との思いがあると、そのわずかな思いから、私たちは恐れを抱くことになるだろうその意味では、キリストの十字架による「完全な赦し」のみわざは、どれほど大きいことだろうか。神は赦したものを二度と思い出すことはない、あえて忘れてくださるお方だからだ。なんとありがたいことだろう。それゆえに、真の平安がある。

9日 創世記50章 
 兄たちは、父ヤコブの遺言で『兄弟たちの背きと罪を赦してやりなさい』と、ヨセフに伝えるよう言われたと言う(17)。ただし、実際にそう言ったのかは不明で、むしろ、そのようには言っていないのだろうとさえ思う。本当にヤコブがそれを伝えようと思っていたのなら、直接ヨセフに言うはずだからである。ただ、ヨセフはそのことばを聞いて涙し、また、兄たちは18節にあるように、「私たちはあなたの奴隷です」と語り、ヨセフの前にひれ伏しており、和解として十分成立している。
 しかし、それはヨセフの信仰によるところが大きく、一般の社会ではそう簡単ではないはずだ。19節にあるように、自分は神の代わりにはなれないのだとヨセフは言い、さばきは神の仕事であることを明確にしている。それどころか、「あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました」と語っている(20)。人間の悪しき謀略を、神は良いご計画となすことができるお方である。これを信じること、それが私たちの信仰ではないか。

10日 出エジプト記1章
 7節で、イスラエルには多くの子が生まれ、群れとして非常に大きく強くなったことがわかる。エジプトの地にあっても弱るどころか、神の祝福のゆえに、豊かにされていったのだ。それは「神の約束」によるものだ。しかし、ヨセフが死んで時代が進むと、ヨセフのことを知らない新しい王の時代となり、イスラエルに対して好意よりも怖さを抱くようになった(8-10)。その結果思いついた方法は、労役でイスラエルを苦しめようというものであった。せっかくの友好関係は、こうして交わりが希薄になり、信頼を損ねると失われてしまうものであるとわかる。特に規模が一気に増え、大きくなる時、このようなことが起こりやすい。「いじめ」というものも、お互いをよく知らない間柄にて起こりやすい。親しい友人同士では、いじめは起こりにくいし、そもそもいじめの関係になれば友人とは言えなくなる。私たちもまた、交わりを失うとお互いに対する不信が生まれ、さらに悪化すると敵対していくことさえある。主にある交わりと信頼関係の大切さを改めて思わされる。

11日 出エジプト記1章
12節 しかし、苦しめれば苦しめるほど、この民はますます増え広がったので、人々はイスラエルの子らに恐怖を抱くようになった。 神の民は芯に強さを持っているのだろう。神が味方であるのだから、弱さのうちにも強さがあり、特に逆境に強いと言える。苦しめられてもそれで弱っていかないのだ。このみことばによれば、かえってこの民が増え広がったことがわかる。そういう意味でも、神を信じる人々を攻撃することは本当にやめた方がいい。神に敵対することほど恐ろしいことはないからだ。一時的に苦しめることができても、もっと強くなっていくからだ。エジプト人たちは、この様子を見てさらに重労働を課し、イスラエルの人々は苦しみ、泣き叫んだ。それでも、2章23節にあるように、その叫びは神に届いている神は求める者の声を聴いておられるのだ!やがてエジプトはその頑なさと、不当な苦しみを与えてきたことについて、彼らはその報いを受けることになってしまう。十の災いは、まさに神に敵対したゆえに、回を重ねるごとに重くなっていった印象だ。

12日 出エジプト記1章
 エジプトの王は、ヘブル人の助産婦にとんでもない命令を出した(15)。ヘブル人の男の赤ちゃんが生まれたら、「殺さなければならない」と命じたのだ(16)。彼女たちはどうしたのだろう。王に逆らえばクビにされるかも知れないし、場合によって刑罰を受けるだろう。殺される危険だってないとは言えない。「しかし、助産婦たちは神を恐れ」エジプト王の言う通りにせず、男の子たちも生かしておいた(17)。いのちがけだ!
 当然ながら、彼女らはエジプト王から呼び出され問いただされた。すると彼女たちは、「ヘブル人の女性たちは元気で、助産婦が行く前に産んでしまうのです」と答えた(19)。少しユーモアさえ感じられる応答だ。彼女たちが守られたことは、20-21節からよくわかる。「神はこの助産婦たちに良くしてくださった」(20)のであり、神を恐れたゆえに「彼女たちの家を栄えさせた」(21)と語られている。彼女たちのように神を恐れる者がいたので、この民も「増えて非常に強くなった」(20)のだ。人ではなく、この世の権力者ではなく、この全世界の支配者なる神を恐れること、これしかない。これがすべてだ。それがなされているのならば、その民は増えて非常に強くなる。

13日 出エジプト記2章
 ここではモーセが誕生し、そのいのちがどのように守らたかが語られている。助産婦たちが言うことを聞かないので、ファラオは男子はみなナイル川に投げるよう命じた(1)。ひどい王だ。そのような中で、レビ族のある家庭にモーセが生まれた。生後3カ月の間、必死に両親は彼を隠して過ごしたのだ(2)。それもまた、王の命令を恐れない信仰であった(ヘブル11:23)。けれども、隠しきれなくなり、ついには手放さざるをえなくなる。パピルスのかごに入れて、瀝青と樹脂を塗ってコーティングし、ナイル川の岸辺、葦の茂みの中に置くことにしたのだ(3)。おそらく、エジプト人が見つけて、その家の子として育ててくれることを期待したのだろう。悲しい思いの中、モーセの姉(ミリアム)がそれを見まもっていた。驚いたことに、ファラオの娘がそれを発見した(5-6)。そしてなんと、ミリアムの進言により、モーセの母も「乳母」として、しかも賃金までもらいながらモーセを育てることが許されたのだ。神のあわれみ」としか言いようがない。モーセはファラオの娘の子として育てられ、良い教育を受けて育つ・・・神の救いのご計画はすでに始まっていたのだ。

14日 出エジプト記2章
 ファラオの娘(王女)は、拾った赤ちゃんを「モーセ」と名付けた(10)。実にモーセという名前は、ヘブル人が名づけものではなく、エジプト人が名づけたものであったとわかる。水の中から「引き出した」ということで、「引き出す」という意味の「モシェ」が由来となっている。それは不思議な神のみわざである。やがてモーセは、イスラエルの民全体をエジプトから引き出し、カナンの地へと導いて行くのだから・・・。しかも、その名前はアブラハムやヤコブのように、神から新しく名乗るように命じられたものではなかった。
 私たちも自分の名前というものが、必ずしもクリスチャンの親から名づけられたものではない。だが、その時に神は私と何の関わりもなかったのであろうか。確かに私は神を知らなかった。親も神を知らない時に名づけた。けれど、神は私を知っておられた。そこには、神のご計画がすでにあったと言えるのではないか。モーセもそのような歩みをしていたのだ。時を平然と超えてみせる神の偉大なみわざがそこにある!

15日 出エジプト記2章
 モーセが大人になった時(11)、大事件を起こしてしまう。苦役で苦しむ同胞を見て、その人を苦しめるエジプト人を打ち殺してしまったのだ(12)。モーセはこの時、周囲にだれもいないのを確かめていた。ところが、翌日にモーセは、同胞の一人から「おまえは、あのエジプト人を殺したように、私をも殺そうというのか」と、言われている。それでモーセは、すでに広まったのではないかと恐れた(14)。
 人は、だれもいないのを確かめて悪いことをするだろう。しかし、このことからわかるように、神の前に隠されていることは何もない。だから、私たちは人ではなく、神を恐れなければならない。誰でも罪を犯す。だが、それを隠し通すことはできない。だからこそ、イエス・キリストの十字架の前にすぐ出たいのだ。そこに赦しがあるから。隠れて生きる者ではなく、悔い改めて、主とともに歩む者でありたい。

16日 出エジプト記2章
 モーセはファラオのもとから逃亡し、ミディアンの地に逃れて行った(15)。そして、そのミディアンの地でレウエルという人物のもとに身を寄せた(16-18)。やがて時が経ち、モーセはレウエル(イテロ)の娘妻と結ばれ(21)、子どもも与えられたことがわかる(22)。こうしてモーセは長らくそこで過ごすことになる。それはやがて、イスラエルの民を救出する上で必要で、大切な備えの時となっていく。ここからも神がすべてを導いておられることがわかる。
 一方、23節で、何年か後に当時のファラオが死んだとある。着々とモーセがエジプトに戻る道について、神のご計画が進展しているのだ。同じ23節には「重い労働による彼らの叫びは神に届いた」とある。神はその叫びを聞いておられるのだ。私たちの歩みにおいても、「重い労働で」叫ぶことは少なくない。とても忙しく、疲れ果ててしまうこともある。その割に実入りが少ないとの嘆きもある。ただ、その叫びは神に届いていることを忘れないで歩みたい。主はイスラエルのために、モーセを準備中だった。同じように、私たちのためにも、主はキリストと御霊による助けをしっかりと備えておられるのだ。

17日 出エジプト記3章
 ミディアンの地で生きていたモーセは、神の山ホレブに来た時に、神の顕現に触れた。主の使いが燃える柴の中に現れた(2)。ただ、その柴は燃え尽きることがなく、主の奇跡的なみわざがそこになされていたことがわかる。モーセは不思議に思ってさらに近寄ってこの光景を見た(3)。その時、主は呼びかけられた。「モーセ、モーセ」と(4)。そこでは主は言われた。「ここに近づいてはならない。あなたの履き物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である」(5)。神はこのようにしてモーセにご自身を現わされた。この時、「燃え尽きない柴」は神の力の偉大さを現わしていると言える。私たちが己の力に頼れば、あっという間にその燃料は尽きてしまう。まさに燃え尽きだ。しかし、主が燃えさせるなら、その燃料は尽きることがないのだ。そして、神のことばからは、神の聖(きよ)さを覚えるべきことが教えられる。イザヤが召された時も神の圧倒的な聖さを示された。それを通して自らの罪深さを自覚し、すべては神の御力によることを知らされることになる。私たちが主の働きに遣わされる時、それは自らの力に頼ることを完全にやめ、ただ主の力と聖さの中でなすことを知ることから始めよう

18日 出エジプト記3章
【7節 は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみを確かに見、追い立てる者たちの前での彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを確かに知っている。
 主は私たちの痛みを知っておられる。はっきりとそう語られていることは嬉しいことだ。神は全知全能で、圧倒的な力に満ちている。だから、ともすると人の痛みを理解してくださらないのではないかと思うかも知れない。しかし、主ははっきりと伝えておられる。わたしは彼らの痛みを確かに知っていると。その民の苦しみのすべてを見ておられ、その叫びを聞いておられ、そして確かにその痛みを知っておられるのだ。このような深い人格的な交わり、人への関心の高さ、あわれみ深さは、聖書の神の大きな特徴だ。そして、8節にあるように、主は彼らを救い出してくださるのだ。主イエス・キリストは、まさにそのご性質を人の姿を通して現わされた。人の痛みを知り、それを担い、そして救い出そうと十字架に歩まれた。人にはこの救いが、痛みを知ってくださる主が必要なのだ。

19日 出エジプト記3章
 イスラエルの子らをエジプトから導き出すために「行け」と命じられたモーセ(10)。しかし、彼は神から目を離し、自分を見つめた瞬間に恐れを覚えた。11節で「わたしはいったい何者なのでしょう」と答え、自分にはそんなことはできないと言わんばかりだ。しかし、神の働きをするのに、自分が「力ある何者か」である必要はない。傑物である必要など一切ない。ごく普通の人で良い。何なら弱く力なき者の方が良い。その分、主の偉大な御力がよくよく現れるからである。その方が「わたしが、あなたとともにいる」と言われるのだ(12)。遣わす方が圧倒的に偉大な、力ある全知全能のお方なのだ。ともにおられる方が、すべてを益に変え、悪しき意図さえ良き計らいとなさる方なのだ。この方がともにおられ、この方が働いてくださる。私たちを豊かに用いて!弱さも欠けも全部含めて、主は用いてくださり、ご自身のみわざを成し遂げられる!神の働きは、己の力に頼ることをやめることから始まるのだ。

20日 出エジプト記3章
「彼らは『その名は何か』と私に聞くでしょう。私は彼らに何と答えればよいのでしょうか。」(13)。モーセは、神の名について、イスラエルの子らに何と答えるべきかとたずねた。主の答えは『わたしはある』という者であるというものだった。存在そのものである方。何にも依存せず、自らが自らの力で存在し、また他のあらゆるものを生み出されたお方。この方が、モーセを遣わされたということだ。それと同時に、15節にあるように「あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、が、あなたがたのところに私を遣わされた」と答えるように、主は教えておられる。偉大すぎるこの神が、各人と個人的で親しい交わりを持ってくださった。私の神と呼ばれることを良しとされる方。これが永遠の呼び名であると言ってくださったのだ。神はどこまでも人との関係を大切にしてくださる。人との深い交わりの中で、ご自身を現わしてくださるのだ。主は私の神、あなたの神でいてくださる!

21日 出エジプト記3章
 モーセはとても不安だった。自分がイスラエルの同胞のもとに遣わされ、自分が語ったところで彼らの心を動かすことはできないと思っていたからだ。だが、18節で主は言われる。「彼らはあなたの声に聞き従う。」と。一方で、19節では、エジプトの王はかたくなで、「強いられなければ」イスラエルを行かせないとも神は語る。それをよくご存知なので、神はエジプトに手を伸ばし、エジプトを打つと言うのだ(20)。つまり、神はどの人間のこともよく知っておられるということだ。その心の隅々まで、どのように反応するのかもみなご存知なのだ。そしてよくわかっておられるので、それに相応しい方法で関与される。それができるのは、神が全知全能であるからだ。私たち人間には分からないことを神は知っておられる。私たちには到底できないことを、神は当たり前になさる。なんと21節によれば、「エジプトがこの民に好意を持つようにする」とさえある。私たちには、人の心を変えることが最も難しいと思われる。しかし、神は彼らに好意を持たせ、イスラエルに様々な贈り物をさせることさえ容易にできるのだ。神の全知全能を信じ、この方に期待していこう。

22日 出エジプト記4章
 神の全知全能のお姿を知っても、モーセは恐れを抱ているとわかる。1節で、彼の不安がよく伝わって来る。彼らは「私の声に耳を傾けないでしょう」とモーセは神に返答している。説教者もしばしばその不安を感じながら歩む。「私の声に、そんな力はない」と・・・。だが、それは当然のことであり、それで良いと言える。語られるのは神ご自身であるからだ働かれるのは主ご自身であるからだ。主は、モーセを励ますために、彼の手にあった杖を地面に投げよと言われた(2)。すると、それは蛇になったのだ(3)さらに、それをもう一度つかむと杖に戻った(4)。主はこのような不思議なわざをもって、ご自分を現すと言われる。「があなたに現れたことを、彼らが信じるためである」と(5)。
 杖が魔法の杖だったのだろうか。いや、ごく普通の杖だった。この時まで蛇になったことは一度もなかった。だが、神が語られ、その通りに従う時にこうなったのだ。神のことばが力あるものであり、神が生きて働かれることを示されたのだ。だから、私たち自身も「普通の人」でいいのだとわかる。普通の人を通して、神は大いなるみわざをなさるからだ!

23日 出エジプト記4章
【11節 は彼に言われた。「人に口をつけたのはだれか。だれが口をきけなくし、耳をふさぎ、目を開け、また閉ざすのか。それは、わたし、ではないか。」
 自分は話すのが苦手だ。神のことばを人々に伝え、導くことは自分には無理だ。モーセはそのように思った。その時の主のことばがこれだ。モーセに口を与え、話せるようにしてくださった主なる神がこう言われた。デザインし、設計し、造り、与えられた方が言われているのだ。だから、できるはずなのだ・・・。神はできるとわかっていたから、モーセを呼び、モーセに使命を与えた。できないのにさせる方ではない。
 そこにはもう一つの根拠があった。「わたしがあなたの口とともにあって、あなたが語るべきことを教える。」(12)と主は言われた。唯一の条件は、神により頼むこと。神により頼む時に、神は召した者に必要な一切を与えてくださる。主ご自身が成し遂げてくださるのだ。

24日 出エジプト記4章
 人を頼ることは悪いことではない。人に依存しすぎて、神を求めないことは良くないけれども、神が人を遣わし、人を通して私たちを助けてくださることもまた事実である。モーセにも助けてくれる仲間がいた。ここではアロンの名前がある(14)。アロンは雄弁であると語られており、アロンもあなたと再会することを喜び、彼があなたの代わりに口となるだろうと主は言われた(15)。つまり、神ご自身が、兄のアロンに助けてもらうよう助言しているということだ。モーセには他にも、姉のミリアムやしゅうとのイテロ、それに忠実な従者ヨシュアなど、協力する者が何人も与えられていた。彼らの助けを聖書は確かに記録している。私たちは人をもっと頼っていい。一人で頑張りすぎないで!主がそれを良しとされているのだから!

25日 出エジプト記5章
 モーセとアロンは、ファラオのもとに遣わされ、主のことばを伝えた(1)。その時のファラオの反応はこうだ。【2節 ファラオは答えた。「主(ヤハウェ)とは何者だ。私がその声を聞いて、イスラエルを去らせなければならないとは。私は(ヤハウェ)を知らない。イスラエルは去らせない。」】 私は主(ヤハウェ)を知らない・・・そんな神など知らないと応じるファラオ。そして、イスラエルを去らせる気は全くないと告げたのだ。
 神を恐れることを知らないとは、こういうことだ。神の力も怖くないし、神の権威もわからないし、だから、神に従おうとする気も全くないのだ。だが、私たちも神を信じていると言いながら、まるで神がそこにいないかのように生きていることはないだろうか。神を知っていると言いながら、少しも神に従わないなら・・・それはまるで神を知らない生き方だ。神を知る者であるならば、神を恐れ、神に従うことを大切にしたい。

26日 出エジプト記5章
 モーセとアロンから、イスラエルを自由にさせてくれと言われたファラオ。彼はそれに怒り、かえって労役をさらに増やすよう命じた(7-8)。そして、イスラエルの人々は急に労役が厳しくなったことが、モーセたちのせいだと知った(17-18)。民はこれによって、「これは悪いことになったと思った」のだ(19)。私たちは出来事の一側面しか知らないし、目の前に起こった一事だけで判断してしまう弱さがある。だから人がさばくことには、明確な限界があるのだ。民はモーセとアロンを非難した。それで彼らは、21節でモーせたちに言った。「があなたがたを見て、さばかれますように」と。それに加え、ファラオとその家臣たちの目に、私たちを嫌うようにし、彼らが私たちを殺すようにしてしまったのだとも非難された。その逆を願ったモーセとアロンにとって、これほど辛いことはない。主に従っているにも関わらず、依然として状況が良くならないことがある。心が折れそうになるかも知れない。だが、モーセはどうしたのか。22節で「それでモーセはのもとに戻り・・・」とある通りだ。このような時には絶えず、主のもとに戻ろう!

27日 出エジプト記6章
 【 はモーセに言われた。「あなたには、わたしがファラオにしようとしていることが今に分かる。彼は強いられてこの民を去らせ、強いられてこの民を自分の国から追い出すからだ。」】(6:1)  神のなさろうとしていることのすべてを、人は見極めることなどできない。そこにはすべての人やすべての状況をご存知の神だけが成しえる、深いご計画があるからだ。人にはそれは負い切れない。だから、「今に分かる」とあるように、神のなさることを信じて「待つ」よりほかはない。ただ、今は分からなくても、分かる日が来るのだと主は言われている。だから、「わたしはあなたがたをエジプトの苦役から導き出す」と言われる主のことばを信頼し、途中で理解が得られなくとも、忍耐深く続けることが大切だ。主を信頼するとは、その時にはわからなくても、良いお方であると信じて従うことだからだ。
 
28日 出エジプト記6章
 神はモーセに語り、ご自身を親しく現わされた(2)。これまで、「エルシャダイ=全能の神」としてご自身を現わしてきた神。だが、ここでモーセに対して「主(ヤハウェ)」というご自身の名を啓示された。「ヤハウェ」というご自分の名前を知らせてくださった神。ここから神がいかに、モーセと親しく交わろうとしてくださったかがよく分かる。神は、イスラエルの嘆きを聞き(5)、イスラエルの子らに対してその名を示し(6)、重い労働から救い出す力ある神であるとおっしゃった。主ご自身が隠している限り、人はどんなに学び、研究しようとも、この偉大なお方のことを知ることはできない。神ご自身が、私たちのところまで降りて来て、私たちの理解できることばでご自分を説き明かされて始めて、私たちはこのお方知ることができるのだ。

29日 出エジプト記7章
3節【わたしはファラオの心を頑なにし、わたしのしるしと不思議をエジプトの地で数多く行う。】 神のご計画は人には見極めることが難しい。ファラオの心が頑なになることが良いことのはずがない。私たちはそう考える。だが、ファラオが驚くほど素直だったらどうだろうか。十の災いも起こることはなく、それによって神の偉大さを知る機会も減ってしまう。ファラオの罪深い考え方、頑なな心は彼自身の意志であるけれども、それさえも神の良きご計画の一部となさることが、神の深さ、偉大さだ。4節、5節にあるように、この頑なさのゆえに、神は手を下し、その手を伸ばし、大いなるさばきをもってご自身を現わされる。ただし、私たちが神を知る時には、その大いなるさばきを自分に身に受けることで神を知るということがないようにしたい。神が私の味方としてみわざをなさることを目撃しよう。

30日 出エジプト記7章
 十の災いが相次いでなされていく。杖が蛇になるみわざ(10)。しかし、エジプトの呪術者も同じようにできた。続いて、ナイル川を血に変えるというみわざ(20)。魚は死に絶え、それどころかナイル川は異臭を放った。水も飲めなくなった(21)。これらはかなり悲惨な事のように思われる。ただ、なぜか、エジプトの呪法師たちもその秘術によって同じことをしたとある(22)。しかし、明らかに自滅である!自分たちの環境を悪化させただけななのだから。これによって、ファラオは心を頑なにし、言うことを聞き入れなかったのである(22-23)。こうして意地を張って、民のことを考えない自分勝手な王であることが露呈されている。意地やプライドの方が重要で、張り合うことによって自分の民を苦しめてさえいるのに、なお頑なに拒んで意地を張った。神の前に頭を垂れ、神のなさることにゆだねる者となりたい。不要な意地から解放されて歩みたいものだ。その意地が時に、私たちを滅びへと近づけてしまうのだから。


引用元聖書
<聖書 新改訳2017
聖書 新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会


教会へのメールはこちらから

名前

メール *

メッセージ *