東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ヨハネ20章24-31節「疑う者にも手をさしのべられた主」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2024/03/31

ヨハネ20章24-31節「疑う者にも手をさしのべられた主」

*** 3/31(日)イースター礼拝 説教概略 ***

 皆さんとご一緒にイースター礼拝をささげることができ、心から感謝いたします。最初に皆さんに一つ、ご質問させていただきます。皆さんは、「死」というものについて明確な自分なりの解決策をお持ちでしょうか。また、その考えや解決策について「確信」がおありでしょうか。


 以前、ある別の教会の信徒さんが、初めて教会に行った時のことを話してくださいました。その時に、非常に感銘を受けたそうです。牧師の説教に感動されたのかなと思いきや、そうではありませんでした。むしろ説教については何一つ覚えていないと。牧師としてはやや複雑な心境ですが。でも、その方がおっしゃるには、教会に集う皆さんが、とても明るく喜びがあふれていた笑顔で喜んでいる姿が印象的だったと言うのです。同じような印象を持った方が少なからずいらっしゃいます。

 では、なぜ、キリスト教会には平安に満ちた喜びがあるのでしょうか。教会に集う人たちは、病や事故に見舞われたことのない人たちなのでしょうか。そんなことはありません。むしろ、何かしら悩みや苦しみを抱えている方が多いでしょう。

 それならば、なぜ、平安に満ちた笑顔、喜びがあるのでしょうか。それは、すべての人の恐れの根本にある「死」への解決を持っているからです。キリストを信じる者は、すべての罪を赦され、永遠のいのちの復活の確信を持っているからです。

死への勝利があるからです。それがイースター、イエス様の復活祭です。

 

 イエス様が十字架で死なれてから三日目の朝、つまり日曜日の朝。幾人かの女性たちがお墓に行くと、墓は「もぬけの殻」でした。遺体が盗まれたのかと思いきや、なんと復活したイエス様が話しかけて来られたのです。その後、500人を超える弟子たちにも現れました。

「幽霊だ」と怯える者もいましたが、魚をむしゃむしゃと食べられては、受け入れるしかありません。それで、弟子たちは、イエス様はおことば通りに死から復活されたのだ、まことに神の御子キリスト(救い主)だと信じていくのです。

ところが、なかなか信じない者もいました。トマスという弟子でした。

24  十二弟子の一人で、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
25  そこで、ほかの弟子たちは彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言った。 

 ここでわかるように、彼はイエス様から直々に選ばれた「十二弟子」でした。ゆえに、イエス様から何度も「わたしは死に、そしてよみがえる」と聞いていたのです。復活のイエス様を目撃した他の弟子からも聞きました。ところが彼は、どうしても信じなかったのです。自分のその目で見て、傷跡に指を入れてみるまでは!と。もはや、イエス様からすると「不信仰なわからず屋」に見えてもおかしくありません。しかし、なんとイエス様は、この疑い深いトマスのために、特別な関りをしてくださったのです。 

26-27  八日後、弟子たちは再び家の中におり、トマスも彼らと一緒にいた。戸には鍵がかけられていたが、イエスがやって来て、彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」 

 トマスらの目の前に現れ、トマスを名指しで語りかけました。ご自分のからだにある十字架の「傷跡」を見させ、触れる許可さえ与えてくださったです。両腕の釘の跡、お腹に空いた槍の傷跡です。実は、聖書では、この復活のからだは、もはや「朽ちない栄光のからだ」であると教えられています。ですから、釘の跡、槍の跡は本来なくていいものです。

しかし、あえて、イエス様はひどい傷跡をその身に残したままで「栄光のからだ」として示してくださったのです。トマスの救いのため、イエス様はこの傷跡があるままのご自身を差し出してくださったのです。

 私のような人間は、そんなに信じられないなら「別に信じてもらわなくていい」と言ってしまいそうです。聖書が預言し、あれだけ何度も教え、他の信頼できる仲間からも聞いているのに、こんなに信じないなんて!!「わからずや!」と。仲間の弟子たちも、そんなに私たちが信頼できないのかと、傷ついたかも知れませんよね。

 ところが、イエス様は見捨てませんでした。あきらめませんでした。

 イエス様は誰よりもあきらめが悪いのです。

 信仰が薄く疑い深い、頑固なトマスをも見捨てないのです。信じるのが遅すぎる者は、もう置いて行こうとは言われないのです。わざわざ、トマスのために、ご自分の痛々しい、見た目に麗しくない傷跡を披露し、触っていいよと言われました。イエス様は、トマスをも深く愛しているからです。不信仰になって滅んで欲しくないからです。どうにかして救いたいのです。

 それは、この書を書いたヨハネも同じ気持ちでした。イエス様の思いを代弁するように、この書を書いているのです。31節にあります。

31  これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。 

 トマスのように疑う人々がたくさんいるでしょう。そんなあなたがたに、これを記録し残したのだと言うのです。素直な人も、率直な人も、疑い深い人も、慎重な人も、誰もが信じて永遠のいのちを得るため。死に勝利する復活のいのちを得るために。 

 イエス様は、ご自分を彼に示した後、彼に必要で大切なメッセージを残しました。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と。この後、トマスはどうなったのでしょうか。

 28節にあるように「私の主、私の神よ。」と応じました。短いことばですが、トマスは信じたのです。そして、思ったことでしょう。疑う私のゆえに、イエス様にここまでさせてしまった。「あの痛々しい傷跡に触らせよ!」なんて、罪深い私のために代わって死んでくれたイエス様に、自分はなんてことを求めてしまったのか!!きっとそう思ったでしょう。

 なぜなら、トマスもイエス様を愛していたからです。かつてイエス様が危険を顧みず、もう一度ユダヤに行こうと言われた時のことです。他の弟子たちはみな、イエス様は石打ちで殺されるに違いない!と反対したのです。ところが、このトマスだけが「私たちも行って、主と一緒に死のうではないか」と言ったのです。彼なりにイエス様を愛し、一生懸命だったとわかります。

 でも、彼の性格でしょう。真理をとことん追求しています。納得いく確信を持ちたいのです。そうしてこそ、ついて行けるという考えでしょう。それゆえに、イエス様の復活については、信じるまでに時間がかかった人です。でも、神様はそのような慎重で疑い深い者をも、必要とされているのです。その奥にある、「本当は信じたいのだ」との思いまでも知って、傷跡のある手を差し伸べてくださる方なのです。

 イエス様は、ようやく信じられたトマスに言いました。

29  イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」 

 責める意図ではありません。むしろ、トマスのこれからの成長を願っての助言でしょう。これからは、見ないで信じる者へと成長していきなさいと。聖書では、信仰は目に見えないものを確信させるものだと教えています。そもそも、神様は目に見えませんよね。そして、大切なものほど目には見えません。愛も希望も友情も。心も見えません。見えるものだけで生きて行くのではなく、見えないけれど、確かにあるものを心の目で見て、大切にしていく者になって欲しいのです。そして、イエス様は、この書を後に読むであろう私たちのために、信じない者になって、大切なまことのいのちを失ってはならない!さぁ、信じる者になりなさいとおっしゃっているのです。

かく言う私も疑い深い者でした。子どもの頃にキリスト教にふれていました。母親が洗礼を受け、イエス様のことも聞いていました。それでも私は疑い深く歩んでいました。だから、何度誘われても、日曜朝の睡眠を確保したい一点で、教会に行きませんでした。でも、イエス様は私の心の扉の前に立って、ノックをやめることはありませんでした。何度も何度も心の扉の前に立ってノックをし、待ち続けてくださったのです。今思うと、まさに「ああ、私はトマスだ」と思い返しています。イエス様は私を見捨てないで、傷つきながら待ち続けておられたのです。教会に通い始めてからも、クリスチャンの笑顔には裏があるのではないかと疑いました。でも、疑うのは不安だからです。本物かどうかを知りたいからです。本物であって欲しいからです。決して裏切られることない、見捨てられることのない真実な愛を求めたのです。

そして、人にではなく、イエス様のもとに本物の愛があると分かりました。

 死んで確かによみがえられた方は、今も生きておられる「まことの救い主」です。疑い深い者のために、あえて傷跡を示されたイエス様の愛は、頭ではなく心で受け止め信じるものです。愛は目に見えませんが、確かに十字架の主のもとにあります。イエス様はあなたを愛し、あなたのためにいのちを捨て、よみがえったのです。「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と主は招いておられます。「見ないで信じよ」と招いておられるのです。


引用元聖書
<聖書 新改訳2017
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