東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ローマ書5章12-21節「恵みの力」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2024/04/03

ローマ書5章12-21節「恵みの力」

*** 4/3(水)祈祷会 説教概略 ***

 イースター礼拝では、死の力を打ち破るキリストの復活にある恵みを知る機会となりました。それは、信じる者に与えられる神の「恵みの力」です。かつては死に属していた者たちが、永遠の命をいただき、恵みに生きる者とされました。アダムから罪と死の力が世界に広がってしまいましたが、今私たちは、キリストの贖いによって、いのちの恵みを世界に広めていく者とされました



 これは神様からの尊い賜物です。人に希望を与え、励ましと勇気を与え、平安をもたらすことのできる十字架の恵みです。恵みの力をいただいている者であることを、みことばから教えられていきましょう。

 

 今日のところでは、次のことが語られています。アダムという一人の人間から罪と死が入って広がった。それと同じように、キリストという一人の救い主から、救いの恵みを賜物として受け、それが広がるのだと語られています。12節をご覧ください。

12  こういうわけで、ちょうど一人の人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして、すべての人が罪を犯したので、死がすべての人に広がったのと同様に──

 ここにある通り、一人の人から罪が入り、死が加わり、すべての人が罪を犯す者となりました。それは同時に、死がすべての人に広がっている現実です。誰もが罪とその結果である死ののろいを持って生まれる存在となりました。人は死ぬ存在となったのです。

 しかし、一方で、このように罪と死が広がるという原理と同じように、救いの恵みも同様に広がるという原理を神様は備えられました。14節の最後の一文に注目してください。「アダムは来たるべき方のひな型です」と。来たるべき方とは誰でしょうか。もちろん、イエス・キリストです。キリストの「ひな型」というのは、罪と死がアダムから広がったように、救いがキリストただ一人によってすべての人に広がるという意味です。

 ただし、「ひな型」と言っても、その本質は大きく異なります。パウロは15節から、その違いについて触れています。

第一に、アダムは「死」をもたらしてしまいましたが、イエス様は「いのち」をもたらされたのです。同じ広がるにしても、「死」と「いのち」という圧倒的な違いがあるのです。しかも、そのいのちは、15節の最後にあるように、とても豊かで多くの人によりいっそう満ちあふれるものでした。第一コリント1522節にもこうあります。アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるのです。また、同じ第一コリント15章の45節には、「最後のアダムはいのちを与える御霊となりました。」ともあります。最後のアダムとはイエス様のことですね。いのちを与える御霊です。

第二の違いは、16節です。16  また賜物は、一人の人が罪を犯した結果とは違います。さばきの場合は、一つの違反から不義に定められましたが、恵みの場合は、多くの違反が義と認められるからです。 ここにある違いとは、罪の場合は、たった一つの違反(罪)によって、人を有罪とした(不義に定めた)のに対して、恵みは、非常に多くの違反を十字架によって無罪放免にしてくれたということです。アダムの場合もイエス様の場合も、一人の人物から入り広がったという点では共通していますが、それぞれがもたらした中身、その質、その力には、非常に大きな違いがあるということです。アダムとイエス様は、対比されていますが、実際は同列に並べることができないほど、イエス様が優れていることが明白です。なお、16節冒頭に「賜物」とありますが、文脈上「恵み」とほぼ同じ意味で用いられています。特に、死というものが神様からの賜物ではなく、人が罪によってその身に招いたものであるのに対して、いのちと救いというものは神様からの恵みのプレゼントとして賜った物であるということです。

 

 このようにして、キリストのいのちの力の大きさが圧倒的であることを示しています。キリストの十字架の犠牲が、どれほど恵みに満ちており、信じる者を豊かに救い、いのちにあって治めてくださることでしょうか。18-19節に、ここで語られていることが改めて整理され、まとめられています。読んでみましょう。 

18  こういうわけで、ちょうど一人の違反によってすべての人が不義に定められたのと同様に、一人の義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられます。
19  すなわち、ちょうど一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、一人の従順によって多くの人が義人とされるのです。 

 一人の違反、一人の不従順が、多くの人にその影響をもたらしたと言っているのですが、それ以上に、イエス様による救いの力、恵みの力は大きなものであると論じられているのです。一人の義の行為、一人の従順によって、信じるすべての人のすべての罪が赦され、神様の前に義としていただけるからです。

 こうして、この章最後の20-21節において、罪の力よりも恵みの力がより強く満ちあふれること。いのちの力が死の力を覆うことを知ることができます。

20  律法が入って来たのは、違反が増し加わるためでした。しかし、罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれました。 
21  それは、罪が死によって支配したように、恵みもまた義によって支配して、私たちの主イエス・キリストにより永遠のいのちに導くためなのです。 

 ここでは、律法の役割を再確認する必要があるでしょう。「律法が入って来たのは、違反が増し加わるためでした。」とあります。ともすると、律法のせいで違反が増えたかのように誤解される危険もあるでしょうか。その理解のために13節を参考にすると良いでしょう。13節では「律法が与えられる以前にも、罪は世にあった」とあります。その通りです。法律で決められなくても、神様の前に罪は罪でした。その数が増えたり、減ったりするわけではありません。しかし、法律がなければ、それを違反として定めるものがないので、罪ではあっても、それを不正であると定めることができないのです。

 ですから、律法が与えられたことで、いかに自分たちが罪深い者であるかを知ることになったということです。そのような意味で「律法が入って来たのは、違反が増し加わるためであった」と語られているのです。

 けれども、パウロが最も伝えたいことはそこではありませんよね。「恵みも満ちあふれました」とあり、むしろこの点こそが良い知らせ、福音の本質ですね。。それはつまり、こうして罪の理解が深まることによって、恵みがそこに満ちあふれていくことです。

 罪がよくわかるようにされることで、その罪の赦しの恵みの大きさにも気づかされます。ちょうど、来聖日の礼拝では、伝道者の書から「正し過ぎてはならない」とのみことばに教えられます。それはいつでも、他人のせいにし、自分の罪には気づかず「自己正当化」をしてしまう問題についてです。実は、自己正当化ほど、救いようがない罪はありません。他人を悪者とし、自分は常に正しいとするので悔い改めることが不可能です。

 ぜひ、そうならないように謙虚になり、罪を悔い改め、赦されている恵み、愛されている幸いを感謝する者となりましょう。

 何より私たち人間は、アダムに代表するように、かつては罪と死を広めてしまう側の存在でした。しかし、キリストと一つにされた時に、救いの恵みを世界に広める恵みの力を授かったのです。なんと嬉しいことでしょうか。死をもたらす者ではなく、「いのちをもたらす者」とされました。よみがえりの主キリストにある「いのちの力」は圧倒的なのです。この力を喜び、進んで世界に現わしていきましょう。

 
引用元聖書
<聖書 新改訳2017
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