東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 伝道者の書7章15-20節「正しすぎてはならない」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2024/04/08

伝道者の書7章15-20節「正しすぎてはならない」

*** 4/7(日)主日礼拝 説教概略 ***

 かつて躍る大捜査線というドラマ、映画がありました。その名台詞の中に「正義は胸に秘めておくぐらいがいい」といったことばがあり、印象に残りました。確かに正義を求め、正義を胸に持っていないといけないでしょう。しかし、神ではない「人間」が、やたらと「これが正義だ」と口にして、人をさばくのは危険です。自分勝手な正義を振りかざし、自分を正当化する時、高慢になり、人を傷つけることがあるからです。自分が正しく、他の人がいつでも悪い・・・この考え方ほど神様が悲しまれることはないでしょう。



 一方で、正しさを求めず、どうせ自分は罪人だからと開き直ることも良くないことです。どちらの両極端も危険であることを、今日のみことばは教えてくれています。そこから守られる良い道こそは、「神を恐れること」です。柔らかな心で自分の未熟さや愚かさを率直に認めつつ、開き直って自分を諦めることなく、一歩ずつでも主イエス様の姿へと変えられ、成長していくことをともに求めて参りましょう

15 私はこの空しい人生において、すべてのことを見てきた。正しい人が正しいのに滅び、悪しき者が悪を行う中で長生きすることがある。 

 著者はこの世の不条理を見て来たと語ります。特に、彼が気になったことは、「正しい人が正しいのに滅び、悪しき者が悪を行う中で長生きすることがある」ということです。「これはおかしい!」と多くの人は感じるのではないでしょうか。正しい人が幸せに長生きすべきだし、悪者がさっさと人生を終えるのは自業自得です。

 しかし、世の中はそんなにまっすぐではないのですよね。曲がっていることが多くあります。ですから、正義感の強い人ほど、この世界の様々なことに対して、怒りを感じながら生きているのではないでしょうか。もちろん。世界の不条理に対して、おかしいと思う正義の感覚は決して悪いものではありませんよね。必要で大切なものです。ただ、そこにとらわれ過ぎると非常に苦しく生き辛く、またその正義感が人をさばく「刃」になることに気づく必要があります。

 ですから、みことばは、「正しすぎてはならない」と教えるのです。

16 あなたは正しすぎてはならない。自分を知恵のありすぎる者としてはならない。なぜ、あなたは自分を滅ぼそうとするのか。 

 どういうことでしょうか。それは、「正しさ」は必要だけれど、自分は完全に正しい、間違いはないという極端になってはいけないということです。16節では「自分を知恵のありすぎる者としてはならない」ともあります。原語では再帰動詞が使われ、ある英訳聖書では「do not make yourself too wise」と訳されています。「自分で自分を賢すぎる者としないように」ということです。人は本来、神様から知恵をいただくのですが、思い上がって自分を自分で賢い者として高めてしまう誘惑があるのです。

 そしてそれは、ここにあるように自分を滅ぼす道なのです。なぜなら、正しくなり過ぎるとは、自己正当化であり、「自分を神のように完全な者」にしようとする行為だからです。結果として、正しすぎる人は、救いから遠ざかってしまいます。むしろ、悔い改めができない人ほど悪い人は、他にいないのではないでしょうか。何しろ自分の過ちを認められないのですから!!非を認められない、謝罪ができない、改められない人は、変わりようもないですよね。

 例えば、新約聖書の律法主義者たちは、自分たちこそ正しいと考え、それゆえに過ちを認めて、悔い改めることがなかなかできませんでした。結果、最も正しい神の子イエス様を十字架につけてしまったほどです。パウロもかつては、正義感に燃えてクリスチャンを迫害していたのです。正しいことをしていると思って疑わず、暴力、殺人に加担していたのです。私もこれまでに、正論をぶつけ過ぎて、人を傷つけてしまったことがありました。

 特に神学生になったばかりの頃の私は、知識だけが急に成長し、愛の成長が追い付かなかったのですよね。しかし、愛を失った正論ほど恐ろしいものはありません。ですから、自分にも直すべきところ、間違いがある。改めるべき所が多くあるとの謙虚さ必要です。

20節をご覧ください。 

20 この地上に、正しい人は一人もいない。善を行い、罪に陥ることのない人は。 
 牧師でも宣教師でも、神学生でも役員でも、司会者も奏楽者も、あらゆるキリスト者がやはり罪人なのですよね。

一方で、罪人であることを認めるだけでも足りないとわかります。17節です。

17節 あなたは悪すぎてはいけない。愚かであってはいけない。時が来ないのに、なぜ死のうとするのか。 

 こちらは悪人であることは十分認めている人です。ただ、そこに平然と留まり、正しいことを少しも求めなくなる問題です。「自分はどうせ悪い人間なんで」と開き直り、罪を犯してもなんとも思わなくなることでしょう。

 やはり私たちは、自分の悪い状態に気づいたのなら、そこに留まるのではなく、光の方へと歩み始める必要があるのです。

 これらを考えると18節のことばの意味が見えてきます。

18 一つをつかみ、もう一つを手放さないのがよい。神を恐れる者は、この両方を持って出て行く。 

 「一つをつかみ、もう一つを手放さない」とは、どちらの極端にも流れないことです。義とされた喜びを持ちつつ、なお私は「罪ある者である」と、その両者を常に心に留めておくことでしょう。正義感を大切に保ちつつ、しかし、自分の正義に歪みはないだろうかとセルフチェックをする姿勢です。それこそが「神を恐れる姿勢」ですよね。いつでも成長の必要がある、変えられる必要があると考える人が、両者をつかんでいる人です。

 いずれの極端も、自分の知恵により頼むことから起こります。19節をご覧ください。

19 知恵は町の十人の権力者よりも、知恵のある者を力づける。 

 ここでは、神を恐れる本当に知恵ある者は、十人の権力者よりもまさることを教えています。神を恐れない権力者十人分よりも、神を恐れる一人の人の方が主にあって強くされるのです。神を恐れない十人の有能な者たちよりも、不器用でも神を恐れ神の知恵に生きる者は神の力を受けます。

 人は権力を手にする時に、しばしば偉くなったと勘違いしてしまうことがあるでしょう。私自身もそのような危険を感じたことがあります。経験を積み、多くの人から頼られるようになり、外部奉仕も急に増えた時期がありました。少し偉くなったような錯覚を覚えます。それで満足したのでしょうか。いいえ。もっと活躍し、もっと用いられ、もっと尊敬されるようになりたくなるものです。するとますます自分を他の人より正しい者にしたくなります。

 しかし、神様は私を愛してくださっていたので、私をコテンパンに砕き、へりくだらせました。主は私から権力を奪い、名誉を奪い、健康を奪ってくださいました。自分を正しいとする者から、神の前に「罪人の頭(かしら)」であると自覚し、謙虚になるようにと砕かれたのです。しかし、このおかげで今があります。本当に神様のなさるみわざは不思議です。

 南北戦争に従軍した無名兵士の祈り(詩)の一部をご紹介します。これはジェームズ・フーストン師の著書「神との友情」の中で引用されていたものです。 

「私は、目的の達成を願って、力を祈り求めた。しかし、神は、謙遜に従うことを学ぶようにと、私を弱くされた。私は、もっと大きなことができるようにと、健康を求めた。しかし、さらに良きわざに富むようにと、神は私に病を与えられた・・・」 

 力や健康、富、能力を祈り求める私たちです。しかし、神様は私たちを愛しているのでその逆をくださることがあります。力を求める者には弱さを。健康を求める者に病を。能力を求める者に欠けを。富を求める者には貧しさを。 それは一見、理不尽に思えるのです。なぜ、望むものを主はくださらないのかと反発を覚えます。かえって苦しみが与えられ、神様が正しい方には到底思えない時があるのです。

 しかし神を恐れる者は、これらを感謝して受けます。この杯がたとえ苦いものであったとしても。主がくださるものはいつも良いものだからです。先ほどの詩の最後は、このように締めくくられています。

「求めたものは何一つ得られなかったけれど、本当に望んでいたものはことごとく与えられた。私の願いに反しているかに見えて、実は言い表わせないでいた祈りは答えられたのだ。すべての人々の中で、なんと豊かに祝されていることか。」 

 神の知恵に生きる者、神を恐れる者は、こうして神がくださるものによって本当の意味で豊かにされるのです。自分を正当化して神から離れることから解放されましょう。「どうせ」と諦めて自分を悪くすることからも解放されましょう。罪を認めつつ、そこから救い出し、良い者へと育ててくださる神様に大いに期待しましょう!!人の目に納得のいかない不条理の中にも、人の考えを超えた神の良いご計画があるのです。 

 この良いご計画にあずかるようにと、イエス様は最も不条理で理不尽な十字架という杯を喜んで受けてくださいました!イエス様とともに古い自分に死に、イエス様とともに新しいいのちに歩みましょう。


引用元聖書
<聖書 新改訳2017
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